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そこは何人も近付くことのない、空と大地の境目に存在する崖の上だった。
雲海に遮られて、地上の様子を見ることはできない。だというのについここにやってきて、この世界のどこかにいる彼らに思いを馳せてしまう。
――肩を叩く雨。絡めた指から伝わる思いと、透明な温もり……忘れてはいないけれど、この山は高すぎて雲の上にあり、いつか降ったような光の雨はやってこない。あの日の出来事はずいぶんと遠いものになってしまった。
(元気かな。幸せかな。会いに行けたらいいのにな……)
彼らを想い、目を伏せる。
そうして思う。人を繋ぐ想いの光。その円環が、分かたれた私たちをどうか繋いでくれますように、と。
*
意外すぎる告白を受けてアマーリエはぽかんと口を開けた。
「ユメ御前の旦那さんって、カリヤ長老なの!?」
北の山脈に雨が留まり、空には白雲がころころと浮かんでいる。マサキたちが王宮を発った翌日、ほのかに肌寒いその午後に、女官や護衛官たちとのんびりとお茶を飲みながら出た話題が、それだった。
「はい。カリヤ・インはわたくしの夫です。二歳になる娘もおります」
「そ、そうなんだ……」
既婚者だとは聞いていたけれど、相手を知ってなんだかショックだったのは、ユメの明るくはきはきとした性格に比べ、カリヤには暗いところを好みそうな様子がちぐはぐに感じられたからだった。どちらかというといつも大声で挨拶してくれるヨウ将軍のような人の方がお似合いな気がする。
いや、そんなことを考えるなんてユメに失礼だ。息を吐いて驚きを振り払う。
(カリヤさんが、ユメが話していた、初めて恋をした人、なのかな)
そのときのユメの様子を思い出す。名前を出さず思い出を語る彼女は、その人のことを心から愛おしく思い、感謝している様子だった。だとしたら常に不機嫌そうなカリヤには、ユメにだけ見せる面があるのだろう。
「夫婦だなんて全然気付かなかった……話しているところも見たことがなかったし。普段は仕事中だからかな」
「そうですね。王宮でのやり取りは職務上のものばかりになっていますが、稀に家庭内の連絡事項を伝えることもございますよ。本日は夜勤なので夕食は一人で食べてくださいとか、娘の食事は作り置きしているので食べさせてくださいなどなど」
カリヤが二歳の女児に食事を食べさせているところを想像して固まっていると、ユメは顔を背けて噴き出した。どうやらからかわれてしまったらしい。
「ユメ御前……」
「申し訳ございません。笑うなど、不敬でございました」
彼女はわずかに笑みを抑えて言った。
「私とカリヤは元々幼馴染み。結果的に結婚することになりましたが、この結びつきには政略的な意味も含まれています。彼の実家であるフェオ家は反族長派で、イン家は族長支持派でございます。彼が婿入りしてイン家の長老になったのは、天様のご意向に沿おうとしたからです」
だがカリヤは現在反族長派だ。ユメの立場は危ういのではないだろうか。
それをどう尋ねていいかわからないアマーリエを察して、ユメはそれとなく教えてくれた。
「私とカリヤが互いの職務に忠実であることで、支持派と反対派の均衡が保たれています。わたくしどもが不仲というわけでもございませんので、ご安心ください」
それを聞いてアマーリエはほっと胸を撫で下ろした。
そこからしばらく、ユメから教わっている乗馬や剣術の稽古の話、春からの予定のことなど世間話が続いたが、女官の一人がふっと思い出したように不思議なことを言った。
「そういえば、今日は音が聞こえませんね」
「音?」
アマーリエが聞き返すと、何人かが頷いた。
「連続して爆発するような音が空から響くのです。近頃時々あるのですわ」
そう言っていたときだった。あまり聞きなれない、ばりばりばり、という音がかすかに、だが確かに近付くようにして響いてきた。この音です、と女官たちが言う。
「嫌だわ、いつもより近い」
(なんだろう、聞いたことがあるような……)
不安そうに言うので、アマーリエは庭から空を見上げてみた。
小さく細い影が空に浮かんでいた。鳥、よりかは歪みのないシルエット。恐らく人工物だと思って目を凝らし、あっと声を上げた。
「ヘリコプターだ」
「へり……?」
「空を飛ぶ乗り物だよ。でも、変だね。ここまで飛んでくるなんて領空侵犯のはずなのに」
女官たちも不安そうに顔を見合わせたり、空を見上げていたりする。迂闊に領空侵犯などと言ってしまったが、それにしてもヒト族の機械の乗り物が王宮のある場所まで飛行してきているのは奇妙なことだった。偵察か報道か。それともキヨツグが呼んだのか。
「――――!」
そうして思い当たった途端、ざあっと音を立てて血の気が引いた。
裾をたくし上げて駆け出す。
「真様、どちらへ!?」
「キヨツグ様にお会いしたいの! お願い、ついてきて!」
なりふり構わず走り出してしまいそうになるのを自制して、自らの振る舞いを反芻する。
思い出したのだ。自分が、都市に向けて何をしたのか――水没した携帯端末は、無事復活を遂げていた。しかしネットワークに接続する前にすぐに電源を切った。だから確かめなかったのだ。自分の行動の結果が何をもたらしたのか。
精神的に追い詰められていたとき、友人たちに送ったメール。それがきっと今回の原因だ。
執務室に向かうと、キヨツグたちもまた廊下に出て空を見上げていた。血相を変えているアマーリエの接近にキヨツグとカリヤが気付く。
「どうした、真」
他の官吏たちも気が付いて、するすると動き、道を空ける。
「ヘリコプターが」
そう言ったきり続きが出てこなくなったアマーリエを見て、キヨツグは安堵させるような強い口調で言う。
「大事ない。攻めてきたわけではなかろう」
「違うんです、あれは」
「どういうことですか、真様」
カリヤが鋭く問い詰め、他の者たちも戸惑ったように、あるいは疑念を持ってこちらを見つめてきた。
アマーリエはぐっと胸を押さえた。責任が、のしかかってくる。だがどんなに言いにくいことであっても、アマーリエには説明する責任があり、自らの行いを告白する義務があった。
「あれは、多分、報道のヘリです。……私のせいです」
「申し上げます!」
素早く駆けてきた衛士がキヨツグの前に膝をつく。
「境界に、ヒト族が押し寄せているとの報告がありました! 皆、機械を手に、天様と真様を出せと要求しているとのこと。結婚について質問があると申しているそうです」
キヨツグは黙ってアマーリエを見た。ああやっぱり、とアマーリエは目眩を覚えて喘ぎながら、なんとか説明を絞り出した。
「メールを……友人たちに、機械で手紙を送ったんです。リリスとの同盟と引き換えに、私は政略結婚させられたんだ、と」
周囲はどよめいた。
「それが都市に広まって、これか」
キヨツグの冷静な確認が胸に痛い。唇を噛み締めて頷いた。
あれから友人たちに訂正することも、反応を確かめることもしなかった。悲しみと苛立ち、悪意に似たものを投げつけるだけ投げつけたアマーリエは、こうして都市とリリスに混乱を呼んでしまったのだ。
間違ってしまったという後悔とともに、父に対する悲しみが沸き起こる。
(……父さんは……やっぱり、このことを公表していなかった……)
娘を政略結婚に差し出した誹りを受けることを免れようとしたのだろう。愛しているよとことあるごとに口にしていたあの人も、一人の人間で政治家だったということか。たとえば、ほんの少しだけ噂になっていたのなら、アマーリエを惜しんでくれたのだと思うことができただろうに、あの人は自らの地位が大事だったのだ。
打ちのめされたアマーリエの周りでは、官吏たちの非難の声が上がる。
「なんてことを……」
「どう責任を取るおつもりですか! このままではヒト族がリリスに入り込むことに」
「黙りなさい」
静かに一喝したのはカリヤだ。そのままキヨツグを仰ぐ。
「如何いたします、天様」
下から覗き込むようにして次なる行動を求める彼は、アマーリエについて責任を負うべきキヨツグに逃げることを許さない。
キヨツグはアマーリエを見た。慰めか叱責かどちらが来るのだろうと身構えたアマーリエだったが、彼はこちらを構うよりも族長としての義務を優先し、伝令の衛士に尋ねる。
「都市から連絡は?」
それに答えたのは、新たに走り寄ってきた別の衛士だった。
「申し上げます。都市代表者から面会の申し込みが参りました。いますぐにでもお時間を賜りたいとのこと」
「では常のように離宮へ案内せよ。私が会う。離宮に立ち入る者には面の着用を義務付けるよう申し伝えておけ」
「私も行きます!」
声を上げたアマーリエにキヨツグは表情を変えなかったが、あまり歓迎している様子ではないことが気配で伝わってきた。それに怯むことのないよう心を強く持ち、早口に告げる。
「都市がリリスに対してなんらかの罠を仕掛けてくるなら見抜けるかもしれませんし、私が隣にいることで悪い噂を払拭できるかも。誇張された情報が報道されているなら、事実を知らせたい。この騒ぎのきっかけを作ってしまったのは私です。なのにただ待っているなんて、できません」
めまぐるしく移り変わる都市社会では、市民の心を惹くような話題が常に求められる。情報には情報を。都市はきっと、アマーリエの続報を待っている。
「自身の利用価値をうたうか」
キヨツグは息を吐いた。どこか皮肉げで、傲慢な口調だった。
「お前は、世間話のつもりで手紙を送ったのだな。結婚したことを友人に報告するつもりで」
そういうことにするつもりなのか、と思い、アマーリエは頷いた。
「はい」
「わかった。来なさい」
キヨツグが歩き出し、官吏たちが慌てた様子で追随する。
「真様、お姿を整えさせていただきます。こちらへ」
にわかに騒がしくなった王宮で、アマーリエはアイたちに連れられ、着替えを始めた。そうして思うのは、去りゆくキヨツグの姿。
優しいだけがあの人ではない。甘くて許すのが彼のすべてではない。臣下を引き連れて有事に当たるあの人は、やはり自分のものだけになるはずのない王様なのだと思った。
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