執務室に戻ると、ネビンはまだ練習室にいるようで、アトリーナがひとりが残っていた。彼女はばさりと譜面を置くなり「エルセリス」と険しい顔になった。
「ご、ごめん! ちょっと外の空気を吸うだけのつもりが、いろいろあって」
「それはいいから早く扉を閉めてこちらに来なさい」
 エルセリスが大人しく言われたとおりにしている間に、彼女は席を離れ、再び戻ってきた。
「どうして床に座るの」
「これから叱られるから、……っ!」
 ぴしゃりと濡れたハンカチを目元に当てられ、その冷たさに言葉を飲み込んだ。
「馬鹿ね、そんな顔して明らかに弱っている人間に、いくら私でも追い打ちをかけるようなことはしないわよ」
 どうやら自分でも気付かないうちにひどい顔になっていたらしい。
 公署の入り口にいる衛兵には何も言われなかったから、ちゃんと笑顔は作れていたはずだ。ここで見破れるのはアトリーナだけだとわかって、ほっと息を吐いた。
 弱っているところなんて誰にも見られたくない。弱い人間は頼られないし嫌われやすい。強くなくてはいけないのだ。
 きちんと顔を拭うとさっぱりして気持ちがしゃんとした。
「ありがとう。落ち着いた」
「何があったの?」
 エルセリスは先ほど起こった出来事を話した。オルヴェインが謝罪したくだりではアトリーナも驚いたようだ。エルセリスも、話し終わっておいて本当に現実だったのか疑ってしまう。
「……それであなたは、過去の閣下といまの閣下が同じ人物であることが信じられないわけね。戸惑っているのは、いまの閣下があなたにとって好ましい人物だからでしょう?」
「……ずばり言うね……」
 考えないようにしていたそれをはっきりと指摘され、エルセリスは項垂れた。
 周囲が彼に好意を感じるように、エルセリスはいまのオルヴェインのことをいい人だと感じてしまっている。過去がなければ、彼と友人になりたい、信頼されたいと思うくらいだ。
 しかしアトリーナは容赦ない。椅子に座って腕を組み、床の上で膝を揃えているエルセリスにびしりと言う。
「そこでうだうだしていても仕方ないでしょう。心のことなんだから、こうではないかああではないかと突き詰めていって、正答とはいかないまでもいちばん近い答えを導き出しておかないと、いつまでも同じところをぐるぐる回るはめになるのよ。鼠じゃあるまいし、自分の心のことはちゃんと把握なさい」
「はい……」
 これでもちゃんと帰ってくる道すがら考えたのだ。そのせいで思考が行き詰まって、いまにも身体を投げ出して呻きたいくらいになっている。
 オルヴェインとのことを思い返しながら、エルセリスはぽつりぽつりと説明を始めた。
「……謝られたけど、許せたわけじゃないんだ。でも、誰かを嫌うって私がいやな人間になるみたいでいやなんだよ。でもそうはなりたくなかったから、謝罪は受け取るって言っちゃって」
 抱えた膝に呟く。
「誰かを嫌うって、自分が嫌われて仕方がない人間になるみたいで、怖い」
 アトリーナの言うように、自分が何を考えているか突き詰めていったなら、きっとあのオルヴェインの言葉が最初の理由なのだと思う。
『お前を好きになるやつなんていない』という言葉は、それまで人の好意や愛情を当然のものとして受け取ってきたエルセリスの世界を跡形もなく壊していった。少年たちに混じって遊ぶエルセリスを嘆く両親は、いつか娘を見限って憎むようになるかもしれない。将来を心配する乳母は言うことを聞かないエルセリスを内心では嫌っているのかもしれない。そんな可能性が存在することに気付かされたのだ。
 いまのままでは、私は嫌われ、憎まれる存在になってしまう。
 このままではいけない、そう思ってエルセリスは変わろうとした。人の役に立つために知識と教養を身につけて、勇敢に動けるように。人に優しくて好意を返してもらえるように。かけがえのない存在になれば大事にしてもらえるかもしれないと、剣舞を磨いて期待される聖務官になろうとした。
 ただオルヴェインのことだけは胸の奥に刺さった棘となって、不意に痛みを感じさせる。誰かと話していてもある瞬間に「この人は私のことを好きではないのかもしれない」と考えてしまうのだ。
(もしオルヴェインを許すことができたら、そんな恐怖からも解放されるのかな……)
 そう考えるエルセリスに、アトリーナは言った。
「誰も嫌いにならないでいるなんて、不可能だと思うけれど」
 ぐさりと背中を槍で突き刺される一言で、エルセリスは呻いた。
 だがアトリーナはあっけらかんとしている。
「私なんて嫌いな人間だらけよ? あの人は下品で嫌い、あの人は私の陰口を叩くから大嫌い。向こうも私のことなんて大嫌いでしょうしね」
「アトリーナはそれでいいの? 嫌われていて、苦しくなることはない?」
 誰かが自分を嫌いでいることはエルセリスにとって恐怖だ。だから普段は考えないようにしているし、できるだけ好かれたいと思って親切にしている。そして幸いなことに、たとえ本心とは違っていてもあからさまな嫌悪や憎悪を見せる人はエルセリスの周囲にほとんどいない。
 そんなことも承知の上で、アトリーナはひらりと手を振った。
「好きな人に嫌われるのは辛いけれど、そうではない人に嫌われても私の世界は壊れたりしないもの。まあ時々いやになるくらい目障りに感じるときはあるけれど」
 フェルトリンゲン伯爵令嬢であるアトリーナは憧れの存在と慕われている一方で、高位貴族の令嬢や夫人などごく一部の人々には敵視されているらしい。エルセリスが実家関係の夜会に出席すると、彼女を貶めるようなことを囁く人が近付いてくることもあった。
 でもエルセリスはアトリーナのことが好きだった。同じ時期に聖務官候補生として、剣舞と歌唱それぞれの第一人者を師として訓練に励み、正式に聖務官に任命された後も同期として距離の置かない付き合いをしてきた。華やかな美貌だけをもてはやす人たちは知らない。彼女がどんなに自分の仕事に誇りを抱いているか。友人と認めてくれたエルセリスに、こうやって語る労苦を惜しまないでいてくれるか。
 そのアトリーナのなめらかな手がエルセリスの顔をすくい上げる。
「だから、誰かに嫌われるのが辛いのなら、あなたは見知らぬ人たちのことも大事にしたいと考えているのね。そうやってみんなに優しくすることを貫けたなら、それはすごくかっこいいことなのよ」
 自分の考えていることははっきり言うし、下手な慰めは口にしない。でも相手が何を大事にして守ろうとしているか理解して励ましてくれる。
 だから彼女はエルセリスにとってかけがえのない親友だった。
「……うん。頑張る」
 ここで折れては励ましてくれた親友に申し訳が立たないと、気持ちを立て直す。
「もう一度よく『彼』を見てみるよ。『彼』のことを全部信じたわけじゃないけれど、なるべく嫌わずにいられるよう、時間をかけてみる」
 焦っても仕方がないのだ。たった一日や数日でその人のすべてがわかるのなら、この世は全知全能の神で溢れてしまう。時間をかけることにも意味がある。
 アトリーナは子どもにするようにエルセリスのまとめ髪をぽんぽんと叩くと、調子を改めて言った。
「さて。誰かさんが外出していたおかげで、休憩時間が取れていないんだけれど、どうしようかしらね?」
「ごめん。アトリーナは今から休憩、私はもう休んだってことで仕事をするからここにいるよ」
 そう言われることを見越していたアトリーナはにっこりした。
「じゃあよろしくね。外出してくるわ」
 そうして出て行った彼女はそう時間を置かずに戻ってきた。城から出てすぐの店で軽食を買ってきたのだ。数はふたつ、もちろんひとつはエルセリスの分だ。だから敵わないよなあと思いながら、やりかけた仕事を一度置いて、アトリーナとふたりサンドイッチを堪能したエルセリスだった。


 三日後、全典礼官が公署の大広間に集合するよう命じられた。
 そこで典礼官長官オルヴェインより、塔再活性化事業が行われることが発表された。演壇の上で朗々と声を張るオルヴェインを、エルセリスもまた見上げていた。
「場所は北部、クロティア地方。遺棄された塔を活性化させて封印塔を作り、それを維持し、今後都市を作る計画となっている。我ら典礼官はその初期段階である、最も難しい、塔の活性化と維持を任されることとなった」
 太い声は険しくなくて聞き取りやすく、彼が大勢の場で話し慣れていることを感じさせた。いつの間にそんな訓練を積んだのだろうと、話を聞きながらエルセリスはぼんやりと考えていた。
「遺棄された塔周辺には多数の魔物が生息していることが確認されている。また澱みである魔気も濃く、浄化には時間がかかることだろう。生半可な祈りでは守護の塔を作れぬことを、諸君らはよく知っているはずだ」
 全員が小さく頷き、エルセリスも顎を引いた。
 これは大事業だ。現在在籍している全典礼官の総力を挙げて取り組まなければならない、国を挙げての計画。その最先端に自分たちがいる。
「本日をもってクロティア地方塔活性化事業を開始する。これは国事だ、心してかかれ」
「祈りとともに、敬礼!」
 エドリックの号令で一同が右手のひらを正面に向ける敬礼を行う。
(え?)
 それを受けたオルヴェインもまた敬礼を返したが、一瞬その目が痛みを感じたように細められた気がした。
 演壇を降りていくオルヴェインを見ながら、エルセリスは心の中で問いかけた。
(何を隠してるの、オルヴェイン)
 しかし彼が口にした通り、国事として動き始めた塔活性化事業によって、エルセリスは問いを口にする暇もなく忙殺されていくのだった。

    


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