振り向けば、かっと目を開くようにしてヴィザードがこちらを見ていた。その顔はエルセリスが気付いた途端に輝くばかりの笑顔に変わる。
「ガーディラン聖務官、少々よろしいか?」
(後ろに大剣を抱えた鬼が見える……!)
 怒っている。間違いなく怒っている。
 大人しくヴィザードに従って野営地の片隅に行くと、早速彼は長い息を吐いた。
「君はもう少し賢いと思っていたが。聖務官」
 豪快で大雑把なエドリックに対してヴィザードは冷静で真面目だ。こういうときに決して頭ごなしに叱ることはない。
「……言葉の選択を誤った自覚はあります」
 反省の意味を込めて正直に言ったが、裏にある頑なさにヴィザードは気付いていた。
「それもあるが、私が知る君は、如才なく振舞えて、人の和を乱さない人間だった。それが何故オルヴェイン閣下に対してああなる?」
 ヴィザードは近衛騎士から典礼騎士になって長く在籍している。歳は四十代、ならばオルヴェインの過去の所業は承知しているだろう。
「……ヴィザード騎士長は首都にいらした子どもの頃の閣下をご存知ですか?」
 ヴィザードの瞑目は「やはりそれか」という反応だった。
「ああ、知っている。その言動も評価も」
「では戻ってきた閣下と接して驚きませんでしたか? 別の人間ではないかと思うくらい、あの方はすっかり変わられたように見えます。騎士長はそのことについてどう思われますか?」
 ライオネルとの会話を思い出す。オルヴェインの過去を知る人たちはエルセリスのように彼を怪しんでいることだろう。まだエルセリスはそんな噂を耳にしていないが、疑問を抱いている人間はきっといる。
 ヴィザードはエルセリスの異様な警戒の理由に合点がいったらしく、苦笑した。
「私は、よく立派になられたと感慨深かった。留学先での振る舞いがよろしくないと漏れ聞いていたが、いつかはと信じていたからな。再びお目にかかれたとき、信じていてよかったと思った」
 真面目な騎士長が個人的なことを話すのはめずらしい。だから本心なのだろう。
「あれが演技だとは思わなかったんですか?」
「ガーディラン聖務官。滅多なことを言うな」
 それでも食い下がって尋ねたのを厳しく封じられ、「申し訳ありません」と謝意を口にしてエルセリスは口を閉ざした。
 するとヴィザードは年少者の強情さに呆れつつも、穏やかな口調に変えて言った。
「人は変われるものだ。それも人生の転機さえあれば簡単に」
 その一言はエルセリスの胸を突く力を持っていた。
「それをよく知るのは君だと思っていたんだがな、エルセリス・ガーディラン。悪童一味のひとりだったはずの君は、いまや封印塔国の守護の要たる聖務官として周囲の信頼も厚い、心優しく高潔でまっすぐな人物だと評判だ。そんなに変わった君が、何故同じように変わったオルヴェイン殿下のことを信じられないのか」
 いたわりと信頼に満ちたヴィザードの言葉に恥じて、エルセリスは顔を伏せた。
 信じられないのは傷付けられた過去があるから。突然いい人に変わっても信じることができないからだ。それを責められるのは、やはり自分の心の持ち方が間違っているからなのだろう。
 人は変われる。ならエルセリスにとっての人生の転機は、オルヴェインに傷付けられたことだった。
 でも感謝なんてしない。傷はまだ生々しく痛むのだから。
(けれど少なくとも、危険な地域にいる状況で不和を起こしてはいけない)
 息を吐いて姿勢を正す。表情を引き締めて。
「聖務官として調査隊に加わっている以上、個人の事情を持ち込むつもりはありません。以後気をつけます」
「それでいい」
 棘を出さないという宣言を聞いて、ヴィザードも矛先を収めた。
「今後の予定は後で話すが、まずは儀式を行ってほしい。こんなに魔気が濃いなら気休めにしかならないかもしれないが、聖務官の守護の力があれば小物の魔物なら防げるだろう」
「承知しました」
 封印塔の外での祈祷は気休め程度にしかならないが、今回のエルセリスの仕事は少しでも危険を和らがせてこの調査隊を守ることだ。
 典礼騎士たちに準備を頼み、舞台となる場所に清めの香草を撒いてもらっている間に、エルセリスは軽く身体をほぐすと聖具の剣を振って調子を確かめた。
 馬で長距離を移動してきたわりには身体はどこも痛めていないようだが、かすかに意識が浮く感覚があって、知らない土地にいることが少々精神を乱しているようだった。
「聖務官、曲はどうしますか?」
「日曜礼拝に使っているいつものを、楽器は太鼓と笛をお願いしてます」
 調査隊に同行している奏官は限られている。騎士の中には楽器の心得がある者もいるが、それを借り出してまで全楽器揃わないと舞えないなんていう未熟者ではないつもりだ。
 革の張り具合を確かめるための、どん、とん、という響きと、音程を合わせる笛を聞きながら、不意に思い出す。
(……剣舞に関してもオルヴェインに嫌なことを言われたことがあったんだよな)
 さっきそれを思い出しかけたのだ。
 当時ライオネルたちはすでに剣の稽古をつけてもらっていて、おもちゃのようにして剣を使って踊っていたところに声をかけたのがきっかけだった。いまにして思えばみんな剣の師にぶん殴られても仕方のないことをしていたと思う。
 そんな彼らの中に混ざれたのは、エルセリスがすでに剣舞の稽古をしていたからだ。
 赤ん坊の頃、エルセリスの右手のひらには祈人の証である花型の痣が現れた。そうして最も祈りを行使しやすい聖具となるものが剣とわかってからは剣舞を教えられてきたのだった。一時期剣術も教わったが血を流すことは不浄だと考えた大人たちによって、戦うことからは遠ざけられて。
 堅苦しい礼儀作法の授業や澄ました喋り方の授業は嫌いだったけれど、剣舞は好きだった。
 きらめく刃は鋭いのに、衣装の裾や袖がふんわりと踊るところは幻想的で、勇ましさの中にも美しさがあった。なよなよとしたものではなく、気高い美。
 そう、だからあのとき『強く優しく美しい私になる』のだと思ったのかもしれない。剣舞を舞う理想の姿がそれだったから。
 ライオネルたちが剣舞の真似事をしていたのは、オルヴェインが理由だったらしい。聖務官は王族が奉じる祈りの代理を行うものとされていることから、彼らには祈りを奉じる手段を身につけるための時間が設けられていたそうだ。そこでオルヴェインが稽古していたのが偶然にもエルセリスと同じ剣舞だった。
 年齢のせいか。それとも彼には特別な才能があったのか。
 オルヴェインが戯れに披露した剣舞は、エルセリスの数段上をいく素晴らしいものだった。
 伸びやかな手足。重さと、敏捷さ。ぴたりと止まる像の美しさ。つま先から指の先まで意識された動きは、幼心にも憧れた。師匠が言うのはこういうことなのだというものを目の前で見せられた気分だった。
 しかしエルセリスが同じように舞ってみせたとき、彼は一言。
『へたくそ』
 とても短いが完成度の高い悪口をエルセリスにぶつけたのだった。
 ぴきりとこめかみに怒りが浮き出して、慌てて首を振ってから気付いた。自分はこれから、その悪口の主が見ているかもしれないところで剣舞を舞うのだ。
 慌てて周囲を見回すがその姿は見えない。本当に天幕に行って休んでいるらしい。
(なんかほっとしたような、残念なような……)
 とりあえず人前で罵られることはなさそうだとわかると気が楽になる。
 呼吸を意識して心と身体を整え、普段はおざなりにしている全身の感覚を張り巡らせていく。準備ができたと思ったところで、演奏してくれる奏官ふたりに声をかけた。
「お願いします」
 右手に持った剣を後ろにやりながら軽く身を屈める。
 どん、と地に響く音に自身の内側にある音楽を重ねながら、祈りの形を作っていった。

    


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