15. 潜む影
いつまでも廊下で立っているリワム・リラを訝しく思った女官に声をかけられて我に返った。飛び上がりふり返った時の表情を、女官は少し驚いた表情で見つめ、まるで自分のことのように嬉しそうな表情を浮かべた。
「わ、私、オルハ・サイのところに行ってくるわ!」
女官に対して気恥ずかしくなって、じりじりと後退りしたあと、ぱっと身を翻して走り出した。
オルハ・サイの部屋へ。息が上がったけれど苦しくないという興奮状態で飛び込んできた者をオルハ・サイ付きの女官たちは不審げに見つめながらも通してくれた。
「リワム・リラ! まあ、すっかりやせて。これじゃあますます見劣りしてしまうわ!」
「ほ、本当……?」
急に自分がそれまで食事をろくにしていないことに羞恥の感情が沸き起こって、視線を落とした。そんなにひどいのに、ウィリアム様と対面してしまった。
「おやおや! なんてほそっこい娘さんだ!」
太い張りのある声に驚いた。顔を上げると男性がいる。体格の良い気のよさそうな、中年の。
「お客様だったの!? ごめんなさい! 急にお邪魔して……」
「お客様とまではいかないわ。父なの」
背が低くお腹が出ていて裕福さが感じられる。口元の、整えられてぴんと尖った髭が印象的な人だった。物語に出て来るような食欲を司る仙人のようだ。
「は、初めまして! リワム・リラと申します」
「これの父、リン・サイという者です。いやはや……」
リン・サイはリワム・リラを頭の天辺から爪先までじっくりと眺めた。視線を感じて身動ぎする。止めて欲しいのだが言えずにいると、ふふんとリン・サイは鼻で笑った。
「他の候補がこれならば大丈夫だ、オルハ・サイ。お前が王妃になれるな」
リワム・リラはぽかんとした。
「お前ほど美しく、気立ての良い娘はおらん。次の王の母にふさわしいのはお前だよ。そしてゆくゆくは私の孫が王位に着き、私が王の祖父となるわけだ!」
「まあ、お父様ったら、気の早いこと」
そのまま二人で笑い合っている。置いてけぼりにされて呆然としていたが、仕方がないかと納得するのだった。オルハ・サイはキール・シェムとは別の美しさを持つ少女だ。家族もそれをよく分かっているのだろう。だからこれは挨拶のようなものなのだ。
「頑張るんだぞ、オルハ・サイ。ではリワム・リラ嬢、ご機嫌よう」
見送りにと言ったリワム・リラをその場に留めると、愉快そうに笑いながらリン・サイは去っていく。
「お父様はいつもわたしに自信をくれるのよ」
その背中を見てオルハ・サイが言う。リワム・リラが微笑んだのも束の間。
「わたし、カリス・ルーク様に愛されて王の子を産むの」
「……オルハ・サイ……?」
彼女は遠くを見ていた。夢見がちと呼ぶにはその目はいささか行きすぎている気がする。ねっとりと絡みつき、甘く、自分の夢に沈んでいる。情熱的というよりもそれはどちらかというと。
「なあに?」
「いえ、あの……?」
「わたしが王妃になったら、あなたもこの城に住めるようにしてあげるわね。仲良く暮らしましょう」
にっこりと笑う。
ぞくっと寒気がした。
逃げようとする意識が現れて後退りしているのを止めようとする自分と、そのまま任せたい自分がいた。
「でもカリス・ルーク様は私のものよ、いい?」
「あ、あの、お邪魔したわ! そろそろ帰るわね」
「あら、そう?」
あっさりとオルハ・サイは丸い目を細めて手を振った。
「それじゃあ、またね」
挨拶もそこそこに身を小さくして逃げるように小走りで部屋を後にする。
暑い日射しと、木陰と自分の体温の差がひどく激しかった。震え上がるような、何か恐ろしいものを感じたのは気のせいだと思いたかった。夢を口にしたのではなくあれは本気だった。本当に決まっていることを告げているだけ。リワム・リラが見たあの時のオルハ・サイは、歪んでいた。夢を本当と信じ込んでいる時の怖ろしさ。
ぶるりと震え上がると部屋へと急いだ。早く休みたいと身体が欲していた。
だが、部屋へ戻ると思いがけない人物がいた。
「あら……お帰りなさい」
さきほどの恐怖感とは別にぎょっとした。
「キール・シェム……」
艶やかに美女は微笑む。
心が熱を持ち始め、さきほどまでの寒気を忘れてじっと強い目で彼女を見た。
「……何のご用ですか」
警戒心も露わに問えば、それを小動物の虚勢を見るようにキール・シェムは喉を逸らして笑う。
「嫌われたものね。あたくしがせっかくこうして、間違って届いた手紙を持ってきて差し上げたのに」
ひらりと取り出された手紙には、確かにマージの封蝋が押されていた。受け取って礼を言う。そのことに特に感慨もない様子でキール・シェムは言った。
「オルハ・サイのところに行っていたのね」
「そうですが……?」
彼女の目が光る。
「あれには気を付けた方がよくってよ。ひどく思い込みが激しいから」
「彼女のことを悪く言わないで下さい」
キール・シェムは面白がった。むっとして言い返したリワム・リラにそっと指先を伸ばして、編んだ髪を引っ張る。
「いたっ!」
「おやおや、親切心から忠告してやっているというのに。愚かなこと」
髪を引っ張られ、キール・シェムが耳元で囁いた。
「あたくしは別にあなたを嫌いではないわ」
「では心底憎いんですか」
彼女は笑って答えなかった。ただ。
「あたくしは知っていてよ……」
赤い唇からの吐息が耳元に触れる。
「【魔女エーリア】の娘……ふふ」
囁かれた生暖かい言葉に、心が凍った。
飛び離れる。キール・シェムは甘く微笑んでいた。リワム・リラは喘ぐ。
「なぜ……」
「忘れた者も多いけれど、覚えている者もいるのよ」
その名は忌み名。母自身も嫌った。リワム・リラも嫌悪した。
「戦場にいたんですってね……あなたの号令で人が、」
聞こえる。怒号。軍馬の嘶き。剣戟。
――紅。
乾いた風、温い夕日の温度、指差した先、黒々した死の気配。
「死んでいった」
――呪われた金の色。
眩暈を起こしてへたり込んだリワム・リラは自らの手で視界を覆おうと震える指で目元に触れる。だがそこに何色があるかに気付いて、自分で自分に触れられなくなった。
キール・シェムは見下ろして笑っていた。
「言わないでいてあげる……どうせカリス・ルークは知っているだろうし、魔神の目なんてただの伝承ですものね……」
彼女は立ち上がり、去り際に言った。
「周りに気を付けることね。憎しみを持っている人間は一人ではなくってよ」
衣擦れの音が遠ざかる。
周りの音が異様に大きい。呑み込まれそうだった。一番大きいのは恐ろしく動機のする心臓で、口の中ではえぐみがしていた。血の味だと、錯覚する。
(大丈夫……大丈夫……)
あの時代はもう終わった。
もう人が殺される場にいなくてもいい。
その必要はこれからはもう来ない。
言い聞かせ続けてきた言葉を呟く。
終わらせたのは、覇王カリス・ルーク。
「…………」
息を吐く。大丈夫、大丈夫と心を宥めて、そうしてようやく受け取った手紙を見ることが出来た。
姉からならきっと安らげる。優しいミル・シーお姉様ならきっと慰めてくれる。家族の面会は許されているのだが、リワム・リラの元にはまだ誰も来ていない。期待を込めて開いた手紙に、結局リワム・リラは落胆することになった。
差出人は姉からではなかった。姉に頼まれて書いたという家人が、父は忙しく、ミル・シーでも父についてあちこち仕事に出ているということが書いてあった。
ゆっくりと紙を折り畳んだ。
(お忙しいのは、よく分かったけれど……)
寂しいのは本音だ。手紙には父も姉も領地シュアとサイ族から直々に指名があったと書かれていたが、それはまるで言い訳のように思えた。そんな子どものように不満に思う自分が嫌いだった。
「リワム・リラ?」
「え?」
現れた人物に目を瞬かせた。
「あ、え、ウィリアム様!」
「元気か」
昨日会ったばかりなのにと思いながらも、リワム・リラは頷いた。そうして立ち上がる。真実かどうかじっと探るように見ていたウィリアムは、ふんふんと一人頷くと、水をくれと言った。
女官に命じて水を持ってこさせると、彼は唇に触れさせただけだった。が、そこで動きを止めた。
「その水を飲むな」
「え?」
「シア、だな」
何か分からない、という顔をしたのだろう。ウィリアムははっきりと言った。
「水でない何かが入っている」
「!?」
水差しの水は透明だが。
「だ、大丈夫ですか!? 飲まれたのでは!」
「少量だ。飲んでも身体を壊すくらいだ。大量に服用しても死ぬ寸前くらいまでだな」
そして考えるように呟いた。
「これは気を付けねばならんな」
そして女官を呼びつける。
「この水、どこから持ってきた」
鋭く厳しい顔で問いつめられ、女官は怯えて、あの、あの、と言葉にならない。
「教えてちょうだい。重要なことなの。あなたを責めたりしないわ」
リワム・リラが言い添えると、女官はようやくつかえながら答えた。
「あの、さっき、行商人から、頂いた薬で……健康に良いと、言われて、是非リワム・リラ様にと、私思って……」
この数日間の憔悴ぶりを心配してくれたのだ。
「その行商人はどんな風だった」
「ふくよかな、男性です。身体が丸くて、目が細くて、お髭がありました」
リワム・リラは引っかかりと感じて眉を寄せた。見たことがあるような気がする。
「これからは無闇にそういうものを入れるんじゃない。下手をしたら彼女が倒れていた」
「も、申し訳ありません!」
体格の良い、威厳のある男性に言われて、女官は泣きそうになっていた。
「心配してくれたのね。ありがとう。私、元気にならなくちゃね」
微笑みかけると、女官は「リワム・リラ様……」と声を詰まらせ、涙を拭い頭を下げると戻っていった。
「…………」
これも嫌がらせか、と小さくため息をつく。仕方ないと思った時に、不意に目の前の人がくれた言葉が蘇った。
嘘の笑いをするな。お前にはそんな風になってほしくない。
「では、私も行こう。邪魔をした」
「あ、はい……」
手を振って見送ると、入り口に控えていたナーノ・シイと一言二言交わしていった。彼の代わりにナーノ・シイがやって来る。
「お呼びしていないのにウィリアム様がいらっしゃったわ」
「心配で様子を見に来られたのですよ。あまりにもおやつれになっていらっしゃいましたから」
やっぱりひどかったかと頬に触れると、今はましになりましたとナーノ・シイは言った。
「さきほどの件、わたくしの教育不足でした。まことに申し訳ございませんでした」
「あまりきつく叱らないでね。彼女は私を心配してくれたの」
「承知致しました」
「あなたも気にしないで。みんなで気を付けていきましょうね」
ナーノ・シイは温かい笑みを浮かべて、承知致しましたともう一度頭を下げた。