32. 反逆
「後宮? それって一番奥?」
話を聞いたエスカはあっちゃーと天を仰いだ。
「うーん、マーキングしたのになあ。どっかでスペル間違ったか……」
「今、反乱者たちが王宮に押し寄せているようです。カリス・ルーク様とウィリアム様もまだ生きておられるはず。どうか助けて下さい!」
リワム・リラの訴えを、他の者たちは遠巻きに見ている。恐ろしい力を持つ異国の魔術師に願うとは、とても出来ることではないのだ。勇気ある女官が「リワム・リラ様っ……!」と制止の声を上げたが、リワム・リラはエスカを見つめ続けた。
エスカはふんふんと聞いていたが、にっこり笑って言った。
「うーん、じゃあ、契約をしてもらおうかな」
契約と聞いて皆が身を引いた。
異国の魔術師は、命を代償にする。
「報酬に君の命をもらおうかな。それでもいーい?」
子どものように無邪気で楽しげに顔を覗き込んでくる。人なつこそうな顔は、恐れられる魔術師らしくはなかったけれど、本当に恐ろしいものとはこんな顔をしているものなのかもしれない。これは底知れない真実を隠した仮面なのだ。
そんなことを考えながら、微笑んだ。最初から答えは決まっていた。
「――はい」
この心は最後まで、救いたい人たちのために。
リワム・リラはためらいなく頷く。
そこでエスカは初めて、歓迎するように温かく微笑んでくれた。
「じゃあ、ちょっとお願い。僕は覇王の位置を知っている。けれど建物のどこをどう行けばいいのかは分からない。だから道案内をお願いしたいんだ。覇王はここから北西の位置にいる。多分二階くらいの位置に」
「私が行きます」
真っ先に手を挙げたリワム・リラは、女官たちに願う。
「誰か、武器を持ってきてくれる?」
ナーノ・シイが素早く立ち上がって出て行く。
その時、もうひとりが動いた。
「あたくしにも武器を。あたくしも行くわ」
艶やかでしなやかな、美しいキール・シェムは恐れもなくそう言った。
魔術師の青年は何を思うのだろう。いつものとらえどころのない微笑みで、杖を腕に抱いて笑っていると、これ以上声が上がらないのを見て告げた。
「じゃあ、他は待機ね。一応結界を張っていくから、悪意のある者は入ってこられないよ。けれどこの建物から出ちゃだめだからね」
アン・ヤーとナラ・ルーは手を握り合ってこくこくと頷く。
ナーノ・シイが剣を、キール・シェムの女官が弓を持ってきて、それぞれに手渡す。
リワム・リラに渡された剣は、兵たちが使う実用的なものだった。美しくはないが、切れ味は鋭いだろう。リワム・リラの求める、自分自身で掴む力だと思った。
「…………少しずつ正史と違っている……誰が裏切り者を止めるのか……」
低い呟き。
顔を上げた先で、沈んでいた思考から浮かんできたエスカの目とぶつかった。しかし目が合った途端微笑まれ、彼はそうして杖を取って、これから悪戯でもするような調子でリワム・リラたちを誘った。
「さあて行こうか、覇王を救いに!」
どん、どん、と突撃される扉が震えている。いくつか囮を立てていたが、続く爆発音から察するに多くが吹き飛ばされたことだろう。城が壊されていたが、カリス・ルークはまだ王だった。
(後手に回ったか……)
奴らの捕縛は行われるはずだったのだ。しかし駆逐するその直前に奴らは事を起こした。カリス・ルークも、ウィリアムも思わなかった、奴らの素早さ。それは、かねてから一族としての強い結束を持っていた奴らと、ナリアエルカ王をようやく持ち始めたまだ結束の弱いこちら側との差が、このような結果を招いたのだろうと思った。
――王など、いらないのではないか。統一を目指すと決めた時の声は、征服欲と恨みからではなかったか。
忍び寄る思いがあった。そしていつも答えは見つからない。
扉が打ち破られる音が響き渡った。踏み込んできた破壊者たちを武官たちが迎え撃つ。カリス・ルークもまた剣を持ち、素早く兵士たちを突破してきた一人異質な雰囲気をまとった反乱者とその守りを、武官たちと共に対峙した。
「偽りの王よ。すみやかに玉座を明け渡せ」
「私が王と知っているのか」
反乱者は覆面の下で顔を歪めた。
「報告は受けている」
カリス・ルークはため息をついた。「やはりあいつか……」と呟き、大広間の中二階から、あちらこちらで響き渡る剣戟を聞いた。
次第に全身の血液が脈打って巡っていくのが分かる。ここは戦場だと五感が告げる。戦いの思考に切り替わる。
「すみやかに退くのはお前たちだ。また戦乱を呼ぶつもりか。
日常と戦場、切り替わるどちらでもない思考の間で、それは輝いた。
金色の瞳。カリス・ルークが夢をくれたと言った娘。もしくは小鳥、小さな花。
あるいは、カリス・ルークが望んだ祝福の月。
「神の啓示だ。新しき王をナリアエルカは望んでいるのだ」
反乱者が言う。
誰も彼もが夢を見ている。大陸を掌握する夢。玉座の夢。そして、ただ平和を望む夢もある。
心の中で問うた。これは正しい歴史の流れなのか。この時、覇王カリス・ルークは死ぬのが運命なのか。
やがて、ひとりの少女が像を結ぶ。
「……何がおかしい」
微笑したのを反乱者が怒りを持って指摘する。カリス・ルークは自分に苦笑して手を振った。
「いや、なに。そうだとしても、死ぬわけにはいかんと思ってな」
自分のつくる夢を見る者がいることを知っていた。だからだ。
「死ぬわけにはいかん。欲しいなら歴史ごと奪い取ってみせろ!」
気を身にまとい吠えた。反乱者は次の瞬間笑い、影のように現れた者たちと共に大きく剣を振りかぶった。
驚異的な魔術師の力を持って進んだ。魔術師エスカは、先頭をリワム・リラとキール・シェムに任せて後方で力を振るっていた。彼の知るカリス・ルークの居場所は、本宮の大広間のようだった。
その二階の露台が見える庭を突っ切る時、剣を激しく打ち合わせる音が聞こえていた。誰かが戦っている。金色の髪が見えた時、リワム・リラは強く祈りながら、廊下に伏せる兵士や反乱者たちを振り向かずに乗り越え、ただ進んで剣を振るった。
恐くはない。殺意を向けられるのもそれを持つことも。後になればきっと恐ろしいだろう。しかしそれよりも今もっと恐ろしいことがある。
広間に踏み込んだ瞬間、強く血がにおった。部屋の中で戦っている兵士たちを見て一瞬立ちすくんだが、押しのけるような声が響いた。
「【風 織りなして縛めよ】!」
朗々とした声は広間中の反乱者たちに振るわれ、彼らは一様に、凍らされたように手足を見えない力で捕らわれて転がった。
エスカはその時初めて先頭に出て、二階へ足を速めた。リワム・リラもその後を追う。
ギィンと鋼の音が響く。覆面の男の大剣が、相手の剣に払われたのだ。すぐさま第二撃が来る。相手の金色の頭が沈んだ、かと思うと懐に飛び込もうとする。しかし反乱者は袖の仕込み刀を持って横に払おうとした。
「ウィリアム様!」
エスカが杖を上げた。
「【風 縛】!」
縄が巻き付き引っ張られたように、反乱者の手が宙に縫い付けられる。男はその驚くべき異変に目を見開き、背後の魔術師を見て呪いの声を上げた。
「魔術師……!」
「遅い!」
「ごめんごめん。スペルかなんか間違えちゃったみたいでー」
縛められた覆面の男たちを後ろにウィリアムが怒り、しれっとエスカは流している。しかしウィリアムの怒りは収まらない。リワム・リラの姿を認めて、毛が逆立ったように見えた。
「彼女までここに連れてきて!」
「私が望んで来ました。ウィリアム様、ご無事ですか。カリス・ルーク様は」
若干青ざめているリワム・リラに、ウィリアムはエスカに向けた怒りを引っ込め、情けなさそうに微笑んだ。
「こういう時はお前は強いんだな」
そう言って。
「カリス・ルークを助けに来たのか」
「ウィリアム様も、助けに来ました」
どこか見守るような優しい微笑みは距離を遠くする。離れていこうとする手を掴むように、ウィリアムの言葉、それは少しだけ違う、と言った。
「ウィリアム様だから助けに来たんです」
しかし軽く目を見張られてしまったので、急に不安になって尋ねる。
「……呆れましたか?」
「……いいや」
リワム・リラは笑顔になり、ウィリアムも微笑んだ。
そんな二人に魔術師の青年はやれやれと肩をすくめると、魔術の糸で吊った反乱者を見た。
「もうそろそろ止めといた方がいいと思うよー。君のお仲間、みーんな抑えちゃったはずだから」
そういえば、さきほどから爆発音が止んでいる。破壊の煙は見えているが、静かだった。
「おのれ魔術師。カリス・ルークは異端だ!」
その時、すっとエスカの空気が変わった。背筋を伸ばし、威厳に満ちあふれた賢者のような、凛とした声。
「歴史の流れは彼にある。忘れてしまったのは君たちの方だ」
だがその言葉を真の意味に捉えることができない反乱者は、にやりと笑った。
「それはどうかな」
隠し手、と気付いた時、すでにそれは引き絞られていた。
「キール・シェム様!」
誰もがその場から一歩離れていた彼女を振り返った。