34. 未来
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上下が分からない。左右も曖昧だ。生温く真っ黒に塗りつぶされた世界。多分、これは死の淵なのだろう。手足の感覚がなく、ただ意識だけがゆるやかにたゆたっている、まるで海。黒一色の世界で、無数の影が通り過ぎていく。
『理が』
『ナリアエルカの夢』
『乱れる』
断片的に聞き取れた言葉の意味を正しく理解はできない。ただ意識の片隅にわずかな引っかかりを残しては、ものすごい速さで消えていく。
『神は一体何を』
『変わる』
『歴史が』
足下と思われるところに目を落とすと、そこに光が横たわっていた。だんだんと近付いてくるのか、自分が落ちているのか。捉えられるすぐ側まできた光は、人の形をしていた。
水の流れのような髪に、白い肌の女性。淡く光を放って、呼吸が感じられないほど静かに目を閉じているのに、この人は生きていた。瞼の下で小さく動く眼球が、夢を見ていることを知らせている。
「……『おかあさま』?」
その言葉が口をついて出た。眠れる人は母エーリアではない。しかし腑に落ちるような自然な呼びかけのように感じた。
恐る恐る手を伸ばす。彼女から放たれている光、その膜を突き抜け、その人の白い肌へ。
その瞬間、世界の光景が溢れた。流れるように早回しになっていたそれは次第に形を明らかにしていく。
――王国が終わる光景だった。
カリス・ルークは反乱者によって命を落とし、代わりに玉座に座るのは別の男。ラグ・シュアという名の男には、しかし大陸ひとつを治める力はなく、部族の小さな争いから再び戦乱はやってくる。難民になった人々、荒れ果てた荒野、血塗れた砂漠、誰もいない崩れた街。
しかし次の一瞬で。
――カリス・ルークの国が目の前に現れる。
国は開かれ、街は豊かに人で溢れる。崩壊は必ず来る。しかしそれはまだ長い時の先にあり、人々は今ここにある平和を喜んでいた。緑溢れる地が生まれ、砂漠の風に流れる民の歌が響き、人は夜に様々な夢を見る。
その光景が見えたかと思えば、ぶれたように荒れ果てた街が広がっている。また繁栄の光景、また荒廃の光景、栄光、破壊、豊穣、戦乱。めまぐるしく変わるのはまるで夢のようだった。
ようやく動かなかった手を離すと、光景は見えなくなった。
「……今の、は」
目の前の人の夢だ。しかし、現実に起こりうるものである、と実際に目にしたことで理解した。
もう一度、喉を鳴らし、震える手を伸ばして触れた。
そこは自分の部屋だった。それも王宮のあてがわれた一室で、棚に置いた本もお気に入りの一冊という寸分違わぬ自分の部屋。
そこに現れた娘は、黒髪の黒い肌の少女だ。その瞳は生粋のナリアエルカの黒色。リワム・リラではない。彼女は棚に置かれていた人形を取ると、こちらを向いて笑った。見知らぬはずなのにどこか似ている彼女の、小さな手の中の人形は、リワム・リラが触れると消えてしまった手作りの人形だった。
かと思えば金色の瞳のリワム・リラがそこにいる。棚の上に人形はない。リワム・リラは赤い花を髪に挿して笑っている。赤い魚のひれのような花びらが泳ぐ。カリス・ルークが挿してくれた花だと切なさが込み上げて。
またぶれた。
「わたくしは月を差し上げましょう」
深い夜空の下、黒い瞳の娘が言い、王者たるカリス・ルークは微笑んでその手を取った。仕切りの薄布が揺れ、二人の姿を隠す。次の瞬間には誰もいない。
また明るい真昼の下で、リワム・リラの背に矢が突き立ち、流れる血にカリス・ルークが拳を叩き付ける。
夜。昼。夜。昼。夜……。
おかしくなりそうだった。いくつもの可能性、いくつもの光景、いくつもの夢を見せられ、どれが正しいのか分からなくなり始める。緩やかに意識が溶けて消えていく。
金色の目が見えた。白い肌に金色の目をした、美しい女性が像を結ぶ。ぞわり、と肌が総毛立った。
彼女は質素な衣装に身を包み、長い裾で足の鎖を隠している。王者のように戦場を見渡して、胸の中に悲しみを渦巻かせて。彼女の背後では男たちが、敵と、何かあれば女に向けようとしている剣を握りしめている。畏怖を持って彼女を見つめて、待っていた。その時、女は宣誓した。
「お前たちには我が守護があるぞ! 戦え、戦え! 敵に呪いを!」
男たちは武器を掲げて吠えた。誰も気付かない。女が涙を流していることに、誰も気付かない。女自身も気付かずに呪いの声を上げる。
瞬きの後、女は腹を撫でている。そこにいる愛しい子どもに異国の歌を歌う。子どもを抱く。金色の瞳と黒い肌の娘を。あるいは剣を胸に突き立てて死んでいる。また戻って子どもを抱く。また今度は剣を胸に。
「もうやめて……!」
耐えきれず目を閉じ耳を押さえた。その瞬間に光景は消える。
『どうしたい?』
降り立つような声で誰かが尋ねた。
『あなたならナリアエルカの夢をどう続ける?』
その瞬間、すべてが腑に落ちた。
あらゆる意味が心に取り込まれ、理解する。
「…………」
声は、その問いかけのために多くの光景を見せたのだ。夢の続きを問いかけるために。たくさんの可能性が、リワム・リラという娘にあったことを教えようとした。ここに立つまでにあった可能性を、物語を、夢を。
すべては、夢なのだ。誰かが見ている夢。繰り返し少しずつ形を変えている物語。
黒い世界を見回した。目の前には眠れるひと。今も物語を紡ぐ、夢見る『あなた』
「――正しい方向へ」
するりと言葉が滑り出た。さきほどの恐怖はどこかに消え失せ、穏やかな気持ちで口を開いていた。
「……私は、消えてしまっても構いません。私が夢だけの登場人物だから、歴史が歪んで、関わった人の運命を変えてしまう」
本当なら名前の知らない黒い瞳の少女が『登場人物』で、カリス・ルークは彼女と結ばれ、『月を手に入れる物語』を歩んだのだろう。リワム・リラの存在は物語の夢、物語の副産物で正しい歴史ではない。
「でも、私はあの方が消えてしまうことには耐えられません」
それでも、リワム・リラは生きていた。カリス・ルークに夢を見て、ウィリアムと名乗ったあの方に恋をして、思いを育んで痛みも苦しみも経て、そうして、ようやくここにいるリワム・リラは、その言葉を紡げる。
「私はあの方に会えた。それだけできっと、生きた意味はありました。この物語に、意味はあったんです」
ねえそうでしょう、と微笑みかけた。そうして手を伸ばす。
次の場面は誰かの死に際のようだった。戦場で屍の上に立つ男は、全身から血を流しながら肩を上下させ荒い息をしていた。夕暮れの赤い風、砂漠の砂。水たまりを作る血。それでも立っていた。告げなければならない言葉がある。
「覚悟せよ……」
男は死の暗闇と鈍い致命傷に歯を食いしばり叫ぶ。
「自らを祝福に変えよ! 祝福無き女神に呪われし子よ! 呪いは祝福であるぞ!」
ぐんと視点が動き、少年の泣き顔、辛くとも歯を食いしばった顔に当てられる。黒い髪白い肌と青い瞳の子どもだった。
そうして、その子どもが大人になった。堂々たる体躯の肩に子どもを乗せている。男の肌は白く、子どもの肌は黒い。その二人の隣に誰かがやってくる。小さな草を踏んで、そっと柔らかく。小さな黒い肌の女性を、おかあさま、と子どもが振り向いた。その瞳は――祝福の月の金の色。
「え……?」
この光景は。
幸福な光景は慟哭する男の姿に変わり、しかしまたぶれて三人の光景が現れる。
『ならば、やってごらんなさい。夢見る者よ』
彼らが誰か分かった時、見えない力がこの場から引き離し始めた。夢を見る女性をそこに残し、上へ上へと上り始める。戻っていくのが分かる。
リワム・リラは目を覚ました。