『城』とも形容される白い巨大な建物は女神信仰の象徴だった。大陸の中心に位置し、選ばれた者のみが足を踏み入れる事を許される女神の玉座。その城は今、戦場と化していた。城の周囲には様々な国の軍が待機するという前例ない変事が起きたのである。
内部は普段通りの静けさを保ったままだったが、道を切り開いた者達が城の主と対峙していた。
城の主は、城内の最も奥、柱が連立して高い天井を支え、幾つもの大きな窓が光を差し入れる広間の座にあった。
妙齢の女だ。地に付きそうなほどの長い金色の髪を持ち、額に花のような印がある。金色の瞳が少し細められ、花の色の唇が笑みの形をし、母親のような優しい表情を作っていた。汚れのない純白の衣装と、肩に古語の祝福を縫い取った布を羽織り、目の前にいる娘と同じ形の首飾りを下げている。
女の称号は『神』。現世の人の信仰を一心に受ける女神の名はフィルライン。
だが、彼女に対立する者にとっては、自らの欲望に取り憑かれた魔性と映る。
「幾つもの困難を越え、よく此処まで辿り着きました。聖女レイリス、そして人の子たち。此方にお出でなさい。わたくしの祝福を授けましょう」
朗々とした声で女神は言う。しかし、その場に跪く者は誰もいなかった。
女神と同じ紋章を首に掛けた娘レイリスは、厳しい目でフィルラインを見る。対になる銀の瞳が光る。
「――祝福は受けません。フィルライン。私たちがここまで来たのは、あなたにこの地を去って頂く為です」
レイリスは右手を持ち上げる。人や魔物の返り血によって汚れた衣装の影から、鈍く光る剣が取り出される。その切っ先が突き付けるように女神に向けられた。レイリスの後ろにいた者たちは一歩進み出、それぞれに武器の方向をフィルラインに定める。
女神は、笑った。喉を逸らして眼を細め、子供の悪戯を見るように深く笑った。
「聖女よ、貴女なら知っているでしょう? わたくしは神。この大地を治める女神フィルライン。人が神を殺す事など出来はしないのです」
「あなたは神なんかじゃない」
レイリスの言葉が、鋭い矢のように真っ直ぐ放たれる。
「私たちは知っています。あなたがもう力を失いつつあり、この世に存在するのが難しくなっている事。その解決策として、各地に争いの火種を巻き、幾人かの娘を聖女に仕立てた上に戦わせ、最後に残った力の強い聖女を取り込み、糧としている事を! 最初の犠牲者は、ユーテリシアだった……」
ユーテリシアは最初の聖女の名前。『聖女』という称号を生んだ人。戦乱の世に現れ、神から授かった不思議な力を用いて争いを収め、慈悲の心を持って敵を許し、平等を持って世界を平和に導いた。その功績が讃えられて神都に招かれ、永遠の聖女として人々の記憶に刻まれた。
しかし真実は、ユーテリシアが最初の生贄だと告げていた。戦乱を生き抜く強い心と世界から与えられた力を持つ人間は、力を失おうとしている者にとって恰好の食事だった。ユーテリシアをきっかけに、様々な時代の娘達たちが消えた。そうして長い時を生き、女神は人の上に君臨してきた。
「何を怒る事があるのです。聖女は、至高の存在であるわたくしと同化し、世界を統べる神の一部となれるのですよ」
「あなたは神じゃない。人間はあなたの供物じゃないわ!」
「レイリス。もう何を言っても無駄だ。長い間同じ事を繰り返してきたんだ。今更考えを変えるつもりはないだろう」
彼女の側に立つ男は、女神を睨んだままそう言った。
そうよ、と赤毛の女が口を開く。
「ユーテリシアの時点で歪んでしまったのよ。だから私たちはここまで来たんだから」
仲間たちの言葉を聞いた後、レイリスはゆっくりとフィルラインを見る。優しい微笑みのまま、こちらを見ている。
その姿に少しの恐怖と、少しの悲しみを感じながら、レイリスは告げた。
「私たちの願いは一つ。どうかこの世界からお立ち去り下さい。他の神々もすでに行かれました。残っているのはあなただけです。もうご存じのはずです。あなたがこの大地に存在出来なくなっているのは、神々の時代が終わりを迎えつつあるからだと。人が、神の手から離れる時が来たのです」
一度言葉を切り、最後、瞳の力を強くしながら宣言した。
「私たちは、もう神の助けが無くとも生きていける」
途端にフィルラインは笑みを消した。眉がひそめられ、眼が暗い色に染まり始める。その上で発せられた言葉は低く重かった。
「愚かな……母に守られた揺り籠を選ばぬとは、何と愚かな」
その背後で暗い炎が揺らめき始める。
「そうしてわたくしを否定し……自ら進んで神殺しの汚名を被るのか」
レイリスは唇を噛んだ。誰もそんな行為には及びたくない。彼女が大地を生み、守護してきた女神には違いない。しかしフィルラインは、その苦しい選択をさせる返答をしたのだ。もう彼女は修復できないほど歪んでいる。
フィルラインは再び笑い出した。くすくすと木霊する声がひどく恐ろしい呪文のように聞こえる。レイリスたちは見る。女神の仮面が徐々に剥がれ、狂気に囚われた女の素顔が覗くのを。
「何時の世もいるのだ。わたくしの守護を否定する血迷った者が。わたくしの力無くば、人は愚かな争いを繰り返し、世界を破滅させていくだけだというのに……」
空気が変わる。流れが変わる。フィルラインの足元で光が生まれ、地から突き出した槍のように、彼女を守る為の柱となる。
その身に光を纏いながら、女神は審判を下した。
「血に汚れた反逆者に神罰を!」
聖女はその手に力を手にしながら、静かに答えた。
「地に堕ちたあなたを討ちます。母なるフィルライン!」
どちらが善でどちらが悪なのか。血に汚れた聖女か、地に堕ちた女神か。
生き残る方が正なのか。その手を汚して生き残るのが正なのか。
歴史に刻まれる二人の女が、そこにあった。
汚 れ ゆ く 聖 女
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