細かい砂が風に舞い、目を脅かす。青い瞳にうっすらと滲んだ涙を彼女は手で拭った。眼球に傷を作るなどと言うが、あまりにも目が痛いのでそんな事は構っていられない。
見上げた空はどんよりとした雲に覆われている。風が鳴く山道を彼女は行く。緑の芽生えぬ剥き出しの岩肌が覗く乾いた道は少し外れれば真っ逆さまに転落してしまう。生き物の気配は感じられなかった。それだけがまだ良い事と言えた。
前を行く同行者が振り返った。
「大丈夫か。シュアナ」
「大丈夫だけど……。ねえ、オーリン、もう帰ろう。本気で帰ろう」
掠れた声で今日何度目かに口にする言葉を、彼は聞いてはくれなかった。
「何言ってんだよ。せっかくここまで来たのに。『詩が作れないー!』って泣きついてきたのはシュアナだろ?」
「言った。言いましたとも。でも何だってこんな所に来なきゃならないの? だってここ……」
辺りを見回し、恐怖よりも怒りで震えて、彼女は叫んだ。
「竜の山【エル・ドゥーラ】なのよ!?」
『三カ竜』という呼び名がある。一つは、火を噴く獰猛な火竜。二つ目は、首に花輪を掛けた温和な花竜。そして最後が、最も穏やかで賢い歌を歌う歌竜である。
シュアナとオーリンが探しているのは歌竜である。歌竜には、卵の中の自分の子供が孵化するまで、つがいで歌を歌って聞かせるという変わった習性があった。希少動物の歌竜、その歌を聴いた者には素晴らしい歌が授けられるという伝説が、吟遊詩人たちの間で囁かれていた。二人が探しているのは、その伝説の為だった。
幼馴染みのオーリンに相談したのは良いものの、こんな所に連れてこられるとは思ってもみなかった。いくら歩いて行ける距離だからと言って【エル・ドゥーラ】はないだろうとシュアナは思った。
「あのね、解ってる? 【エル・ドゥーラ】と言えば、歌竜の数少ない生息地で有名だけど、あの火の火竜の住む所でも有名なのよ!? しかも今は産卵期だし。もし火竜に出くわしてみなさい。気が立ってるからあっという間にぺろりとやられるか、ぷちっと踏み潰されるか、ごおっと火を噴かれるかで終わりよっ!」
嘆くシュアナを、オーリンは呆れ顔で見つめた。
「お前、俺が何か忘れてないか」
「何よ」
きっと睨み付ける。しかしそんな事はものともせずに、オーリンは誇らしげに胸を張った。
「俺は竜を従える者。古代竜族の血を引く、由緒正しい【竜人(ドラゴニアン)】だぞ!」
シュアナは冷ややかに一瞥した。
「ええ、そうね。例え古代竜族が五千年以上も前に滅んでいて、竜が言葉を忘れて数千年経っていても、一応あんたは竜人だったわね」
どうでも良いと思いながら一息に喋る。それを良いように取ったのか、更に自信満々に胸を張った。
「俺に任せとけって。絶対歌竜に会わせてみせるから」
「同じカ竜でも火だったりするのよ。こんな場面で良い方向に動く物語なんて絶対、絶対ないわ」
泣きたい。それがこの状況に対してなのか、自分に対してなのかは分からなかったが、とりあえず大きな声を出して、小さな子供のように泣き喚いてみたかった。
夢があった。詩人として良い詩を作る事だ。歌うのは駄目だ。自分には才能が無いと良く解っている。しかし詩を作る才能はまだあるほうだ、と思いたい。何より彼女は、詩が好きだった。
いくつか書いてみた詩は狭い村の人間にのみ好評で、それはお世辞なのか本音なのか分からない。悩むシュアナが思い出したのは、街からやって来た商人が話した、吟遊詩人たちが集う集会の話だった。
その集会はリジェンダが没した街で一つの祭りとして行われ、各地の詩人のみならず、多くの人々が、伝説の吟遊詩人リジェンダを偲ぶ為に集ってくる。
そこでは詩人たちの情報交換も行われる。その祭りで誰かに詩を見てもらい、歌ってもらえれば、自分の詩が認められた事になる。
しかしそれはとても難しい事だ。無名の小娘が突然やって来て「私の詩を歌って下さい」と言っても、誰もが顔をしかめるだろう。だからシュアナは素晴らしい詩を作らなければならない。吟遊詩人にその詩を歌って貰う為に。
『そんな事は止めてしまえ!』
厳しい声が蘇る。父の怒声と紙を破り捨てる音。
『芽が出るわけないだろう! 自分の声を分かっているのか? お前の声で、吟遊詩人になどなれるわけないだろう!』
分かってるわ。分かってるから詩を作るのよ!
潰れた声が更に涙で掠れる。
なれないから憧れる。醜い声だからこそ美しい詩を歌いたい。その夢を、父は分かってくれない。
潤んだ眼は風に曝されたからだろうか。ごしごしと擦って、前を行くオーリンに言った。
「……私、帰る」
「え?」
「帰るって言ってるの!」
ぼろぼろと涙を零しながらシュアナは叫んだ。涙は風の所為だと自分に言い聞かせながら、ぽかんとするオーリンに背を向けた。
「おい、ちょっと、待てよ!」
「歌竜なんてただの伝説よ! 私にはこんな所にいる暇なんて無いの。詩を作らなきゃ。認めてもらわなきゃ……」
ぶつぶつと呟きだしたシュアナの手を、オーリンは強く掴んだ。眼を見つめながら言う。
「シュアナ。必死なのは分かる。けどな、そんな根を詰めて作った詩に、誰が振り向いてくれると思う? お前、いつも言ってるじゃないか。心を静かにして自分の中に潜るんだって。そうしないと言葉は浮かばないって。そんなに苛立ってちゃ、歌竜だって出て来な、」
「じゃあどうしろって言うの!?」
見通せない未来。押し寄せる不安。静まらない心。全てが苛立ちとなって、オーリンにぶつかっていった。
「浮かんでくるのは在り来たりな言葉だけ。出来るのは有り触れた詩だけ。でもみんな言うのよ。『綺麗な詩だ』って。けれど心の底でみんな笑ってるの。この私が、この声の私が、吟遊詩人だなんて! 歌えない吟遊詩人だって! あんたもそうなんでしょう!?」
違う。そんな事を言いたいんじゃない。でも止まらない。
「もう、放っておいて!」
どん、とオーリンの身体を突き飛ばしたつもりだったのだが、蹌踉めいたのは自分の方だった。
「おい!」
涙と風塵で視界がきかない。少しの風で身体が傾いた。何度かの瞬きで手を伸ばす蒼白な顔のオーリンが見えた。しかし触れる事はなかった。
「え?」
身体が浮いた。何故浮くのだろうと不思議に思った。オーリンが遠ざかる。何故遠ざかるのだろうと首を傾げた。
「シュアナ――!!」
落ちているのだと気付いたのは、真っ暗な闇に呑み込まれていく寸前だった。
一瞬意識が消えたのか、気付いた時は闇の中にいた。静寂に満ちている。
身体に痛みはない。ぼんやりと夢を見ているようだった。
これは死の世界の淵だな、とシュアナは冷静に思った。死の神(レドゥーカ)が何処からか見ているかもしれない。
(……オーリンはどうしただろう)
思いっきり感情をぶつけてしまった。怒っていないだろうか。
いや、怒らないだろうな、と唇に微笑みを浮かべてシュアナは思った。彼はいつも怒らない。笑って受け流す。いつもそうだった。
竜人は常に鷹揚であれ、という教えがあるという。広い心で竜に接せよという事らしい。オーリンの場合、少々鷹揚すぎる気がするが。でも、いつも側にいる者を広く受け入れてくれて、思いやってくれた。
今回だったそうだ。自室に籠もりっぱなしのシュアナを、オーリンは連れ出してくれたのだ。歌竜に会えば詩を授けられるという伝説も、きちんと覚えていてくれた。苛立つシュアナに辛抱強く付き合ってくれて、側にいてくれた。彼は一度も、シュアナの夢を否定したりしなかった。
オーリンに会いたかった。会ってごめんなさいを言いたかった。それからありがとうを。そうしたらきっとオーリンは照れ臭そうに笑って「そんな事、忘れた」と言うのだ。それを見て、シュアナも笑う。
これからもずっと一緒にいて、そういう風に笑い合っていたい。
その日々はきっと、大切な宝物になる。
(あ……)
詩が。小さな言葉の欠片が震えている。
生まれようとしている。大きくなろうとしている。
身体の芯から言葉が広がって、指の先まで温かくなっていく。
満たされていくのを感じながら、シュアナは闇に向かって言葉を放った。
「私は、もう大丈夫だよ」
闇が切り開かれた。
シュアナは空を見ていた。乾いた空気に覆われた空の色だ。
手で周囲を探りながら身体を起こした。平らな岩盤の上にいるらしい。霧で辺りの様子は見えない。
しかしそこで、シュアナは妙な事に気が付いた。霧の色がおかしい。金色を帯びているように見える。瞬きお繰り返して、それが気の所為でない事を確かめた。確かに、空気が光っている。
それを認識すると同時に、耳に届くものがあった。
うた、だ。
誰かが歌っている。
周りの空気が歌に合わせて光る。何処までも澄んだ歌声は、自然に空に溶けていく。花、風、空、光、輝く物全てを合わせたって、こんな美しいものにはならない。
うっとりと、半ば呆然とその歌声を聞いていると、霧の向こうにゆらめく影が映った。細長い影は左右に揺れ、くるりと向きを変えた。そしてシュアナはあっと叫んだ。
細長い横顔。開いた口から覗く牙。首の尖った鱗。
――竜。
ではもしかしてこの歌は……。一つの答えに行き着こうとしたその時、シュアナを呼ぶ声が聞こえた。
「! オーリン、私ここー!」
歌が消える事を心配したが、大声で答えても歌は淀みなく流れていた。
やがてオーリンが手を振って現れた。しかしそれは驚くべき所からだった。
「オーリン!?」
「シュアナ! 無事だったんだな!」
霧が晴れていく。オーリンは動く足場の上にいた。動く足場は生き物だった。生き物は、信じられない事に巨大な竜だった。
「ど、ど、ど、何処から現れるのよ! ちょっと、大丈夫なの!?」
「大丈夫大丈夫。……っと」
竜の頭の上からシュアナのいる岩盤に降り立ったオーリンは、シュアナを一度抱き締めた。
「良かった。落ちた時はどうしようかと思った」
「私もまさか落ちるとは思わなかったわ」
そう言って、二人で顔を見合わせて笑った。久しぶりに笑ったような気がした。
この笑顔はオーリンがくれたのだ。
口にはせずにそう思いながら、オーリンの手を握った。オーリンは自然にシュアナの肩を抱いた。
「……すごい歌だな。これが歌竜の歌か……」
オーリンを頭に乗せていた竜が背を向けて歩いていく。いつの間にかもう一頭が現れていた。二頭は顔を寄せ合い、頬を合わせた。どうやらつがいのようだ。
二頭の歌竜の歌が天空から降る。
「歌竜の歌が美しいのは、誰かを思っているからなのね。子供を、連れ合いを、愛しく思うからなのね」
ふと口を噤んだシュアナは、しばらくして、あ、と小さな声を上げた。
「どうした?」
「詩が出来た。今。歌竜の詩」
まだもう一つ生まれた詩があったが、それについては何も言わなかった。ゆっくりと形を成していく言葉を感じながら、側に大切な人を感じながら、シュアナは遠ざかっていく二頭の竜を見送り、伝説の歌を聴いていた。
「物語はまだ続くけれど、本日はこれまで。
彼女の未来を掻い摘んで話すと、彼女は詩人として名を上げる事になる。
中でも彼女が有名となるきっかけになった歌竜の詩と、一人の少女が幼馴染みの少年の存在に気付く恋歌はとても人気があるという事は、この物語を聞いたあなたたちにはよくお分かりでしょう」
竜 の 卵 を 護 る 者
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