その女は、【滅びの魔女】と呼ばれている。
女は特徴的な銀朱色の髪をしていた。多くの街や村を焼いてきた魔炎のような色の髪から、【炎の魔女】と呼ぶ者もいた。
『【滅びの魔女】現る所に死あり』と、人々の間で噂は広がった。多くの者は彼女を恐れ、ごく一部の者は、魔女の力を利用しようと彼女を召喚した。
召喚の声に答え、契約者の願いを叶えて都市を焼く。炎を放つ魔女の目は淡々としていた。自分が願ってもいない事をする悲しみと苦しみも映っていない。ただ、見届けるのが役目であるかのように立っている。
彼女の炎は彼女自身を焼く事はないゆえに、美しかった街がゆっくりと滅んでいく様を、炎に包まれながら見つめていた。
その瞳が、春の若草の色をしている事など、誰も気付きもしない。
――だから。
綺麗な瞳ですねと少年が言った時、魔女は少し眉を顰めた。
不機嫌に細められた草色の瞳を、彼は青い瞳で笑って見つめ返す。
「春の、青空の下で風に揺れる草の色だ。名前はないけれど、確かに生きて輝く緑の色」
少年は、魔女の長く朱い髪に触れる。細い指が髪を梳く。
「髪は夕陽の色。赤く染まる直前の太陽の色。あなたはとても素敵な色を持っているのですね」
僕なんかよりも、と自分の髪を摘んで言う。少年は真昼の光を集めたような、濃い金色の髪と真っ青の瞳をしていた。
魔女は深々と息を吐いた。こういうタイプの契約者は初めてだ。多くは下らない復讐心や狂気じみた探求心や征服欲を持つ輩が魔女を『喚ぶ』のだが、寝台に身体を横たえたままのか細い少年がそんな心を持っているようには全く見えなかった。
「……お前は、滅びを願って私を喚んだのではないのか?」
「はい、そうです」
「だったら何故今すぐ願わんのだ。すぐに炎を放ってやるのに」
しかし少年は首を振る。
「もう少しだけ、待って頂けませんか。あなたともっと話をしたいんです」
魔女に断る道理はない。一度召喚に答えたという事は契約が成されたという事だ。
少年は手を伸ばす。魔女の手に触れた彼の手には恐れがない。
何故かそれに恐怖を覚えて思わず振り払ってしまえば、彼は少し笑った。
「怖がりですね」
心外だと言わんばかりに見返せば、少年は病的に白い顔でまた笑った。
そうして少年と魔女の付き合いが始まった。契約者である少年の声に逆らう事は出来ないから、喚ぶ声があれば魔女はいつでも参じた。だが、少年はいつまでも契約を施行しなかった。
【滅びの魔女】と喚ばれる女に、少年は恐怖の一つも見せなかった。幾つもの街や村を焼いてきた女に、「笑って下さい」と言う神経が解らない。【滅びの魔女】にそう言ったなどと人が聞けば震え上がってしまうだろうが、少年はいつも、いつでも、微笑みを浮かべて魔女に接していた。
たわいのない会話の、と言っても少年が一方的に話しているだけだが、その合間に、彼は銀朱の髪を手に取る。羨ましそうな眼をして、いつまでも弄っている。流石に居心地悪くなって声を掛ければ、綺麗な髪だと宣う。真っ直ぐに眼を覗き込んで笑う。気まずくなって視線を外したのは何度あった事だろう。
つくづく妙な者と契約してしまった、と魔女は息を吐く。
一度訊ねてみたのだ。「私が恐ろしくないのか」と。
そうしたら、彼はやはり笑ったのだ。
「あなたという人は恐ろしくありません。恐ろしいのは、僕たちが持てない強力な【力】です」
こうも真っ直ぐに言い切ってしまうのも、妙な人間だと感想を抱くのに申し分ない。
それに、と小さく付け足す。
「……本当に恐ろしいのは、人の心ですから」
彼の容姿に似合わぬ大人びた横顔をじっと見つめていると、魔女に気付いて彼はにこりと笑った。
契約がされて、一月が経った。暑さが次第に増し、新しい季節の空気が感じられるようになる。開け放たれた窓から吹き込む風は涼しかった。だが、魔女は暑さや寒さから自然と守られてしまうので、服を着こんでも汗一つ掻かない。
今日も、深紅のローブを着た魔女は、少年の枕元にいた。
「失礼ですけれど、お幾つなんですか?」
少年はそう訊ねてきた。最初に会った時よりも幾分か生気を取り戻しているように見えたが、病的な白さや痩せた身体には変わりがなかった。この年頃なら、走り回るのが常だろうに。
魔女は少し肩を竦めて答えた。
「さあな。数えていないから分からない。だが、見た目よりずっと長く生きている事は確かだ」
「寂しくは、ないのですか?」
「……そんな感情はもう忘れてしまった」
ふと、『寂しい』とはどのような物だったのか、『喜び』や『怒り』はどんな形をしていたのかを考える。
そうすると、身を切られるような痛みも、胸が苦しくなる事も、頭が真っ白になるほど激しい感情も、すべて遠い昔に無くしてしまったのだと気付く。
「――……僕は今までこうして生きてきたけれど、それでもずっと寂しかった。でもあなたは寂しさを忘れてしまうくらい、長い時間を生きてきたのですね」
言った少年の目は遠い。
彼は先天性の病で、生まれてから殆ど外に出た事が無く、寝台に縛り付けられるように生きていたのだという。親兄弟は彼を疎み、離れに閉じ込めて全く接しない。彼はひとりだった。
細い、細い手足。痩けた頬に浮かぶ優しい笑みの中の、深い孤独な心に、【滅びの魔女】は喚ばれたのだ。
『お前の望みを叶えよう。私の炎で何を願う?』
召喚に応えた時、初めて見た契約者に、何と生気のない者だろうと思った。どんな狂人でも生きる意志があれば、身体は力を纏う。彼にはそれが薄かった。けれど、虚ろな彼の目にはこれまで見てきたどんな狂気もなかった。
呼び掛けに応えるとは思いもしなかったのだろう。驚いたように少年は眼を見張った後、笑った。心からの安堵を、涙と共に滲ませて。
『僕を――』
「魔女さん?」
現実に声に引き戻される。遠かった草色の眼が、ゆるりと少年を見る。
彼は、まるで彼女が過去を思っていたのを解っているかのように、何も言わず、微笑みながら、ただ自分の言葉を続けた。
「僕は、あなたが来てくれて良かったと思っています」
手が伸ばされて、魔女の手に触れた。
まだ遠い意識が、ぼんやりと考える。
どうしてこの手は触れてくるのだろう。何の恐れも、打算もなく。
「あなたと一緒にいると楽しい。僕はとても嬉しいんです。……あなたに会えて良かった」
静かに温もりは染み渡る。
「――……どうして」
けれど言葉は喉の奥に貼り付いて出てこない。どうして、そんな事を言うのだ、と。
――だって、私は、お前を。
少年はすべてを見透かしていた。そうして魔女に向かって言うのだ。
「僕が死んだら、泣いてくれますか?」
魔女は何も言わなかった。言えなかった。
どうして良いのか分からずに、ただ伸ばされた手を握りかえした。
「初めて手を握りかえしてくれましたね」
「……お前は、本当に妙な契約者だ……」
すると少年は眼を見張り、「初めて笑顔を見た」と嬉しそうに笑った。
その女は、【滅びの魔女】と呼ばれている。
『【滅びの魔女】現る所に死あり』と、人々の間で噂は広がった。多くの者は彼女を恐れ、ごく一部の者は、魔女の力を利用しようと彼女を召喚した。
召喚の声に答え、契約者の願いを叶えて都市を焼く。
けれど、彼女は自分の為に力を使った事はなかった。人から離れ、精霊に近い所に身を置いていた彼女には、使う理由がなかったのだ。
本当に恐ろしいのは人の心だ、と陽の光のような少年は言った。全くその通りだと魔女も思った。
人と違うからと彼女の力を疎んじたのは人の心だ。魔女と罵り武器を向けてきたのも人の心だ。破壊と破滅を望んだのも人の心だった。
――嗚呼、何故気付かなかったのだろう。
人の心はいつだって、異端を忌み嫌い、弾き出す。
自分は現れる所に滅びを与える【滅びの魔女】。
その契約者は、忌まれて当然だったのだ。
それは、いつもと変わらない日だった。胸騒ぎもしなかったし、助けを呼ぶ声も聞こえなかった。
契約者の声に応えて出向いてみれば、そこは惨劇の跡だった。
流れる濃い血の臭い。赤く染まった部屋。視界が暗い。
壊された家具の残骸を蹴り、ゆっくりと寝台に近付く。そして――何も考えられなくなった。
寝台に横たわる少年の腹部には、凶器が無数に突き刺さっていた。剣や槍や農耕具が、細い身体をこれ以上ないくらいに蹂躙して、命を流させている。そうして流れた赤い血液は、光色の髪を汚していた。
ふと、少年の目が開いた。これで生きているのかと思えるほどの状態だというのに、魔女の姿を捉えると、青い瞳を輝かせて笑ったのだ。
「……よかった……会えた……」
けれど声は掠れていた。風に掻き消されるほどにか細い。
「何が、……何が、あった……」
縋り付くような問い掛けが震えていた事に、魔女自身気付かなかった。
少年は手を伸ばす。腹部を押さえていた為に血に濡れた白い手が、魔女の手を探す。
「……覚えて、ますか……契約……」
契約。召喚に応えた時に交わされる言葉を持って成されるもの。
契約者は、孤独な少年だった。誰も彼を構わない。だから一人で死んでいくだろう。
それゆえに望んだのは。
「――僕を看取って下さい……」
望んだのは、その間際に誰かがいる事だった。
あまりにも変わった契約に、魔女は顔を顰めたのだ。了承したのは、一瞬の気紛れのようなものだった。
「……了解した……」
滑る手を握りかえして、魔女は答えた。少年が浮かべた笑みには、もう力が残されていないと悟るには十分に弱々しかった。
「ありがとう……」
そうして若草の瞳を見つめたまま、少年はゆっくりと瞼を降ろした。
魔女の視界が光を捉える。魂と呼ばれる、彼の髪と同じ金色の光を。それはゆっくりと大気に溶け、小さな風となって吹き抜けていった。
その瞬間、魔女は契約から解放され、自由になる。
全て終わり、見届けたにも関わらず、魔女はその場から離れようとしなかった。惨劇の場所に立ち、死を迎えた少年の顔を草色の瞳で静かに見下ろしていた。
「お前!! 【滅びの魔女】かっ!!」
新たな声が聞こえてゆるりと振り返る。入り口に立った、武器を持つ人間たちが後退る。
「悪魔に呼ばれて来たのか!」
「その悪魔と手ぇ組んで、俺たちの街を滅ぼす気だったんだろ!!」
忘れず、人間たちは好き勝手に吠える。それを聞けば、大方の事が解った。
少年が殺されたのは、自分の所為。魔女の髪を夕陽の色だと言って触れ、魔女の瞳を春の草の色だと微笑んだ彼は、異端だ悪魔だと罵られ、ここにいる人間たちに殺されたのだ。
会えて良かったと彼は言った。会えて嬉しいと彼は笑った。
心優しい、孤独な少年だった。
魔女は気付いた。彼と共に過ごした日々が、かつてないほど幸福であった事に。
魔女は理解した。その事に気付いた時、すべては既に瓦解した後だった事に。
視界が、暗くなった。何も考えられない。呼吸が苦しい。頭が痺れる。全身が震えた。
忘れてしまっていた感情が激流となって襲う。五感は遠くなり、聞こえる声は意味のない不快な音にしか聞こえない。現実は分解され、断片的に認識される。
もう彼はいない。
死んだ。
光が消える。
人に殺された。
もう笑わない。
殺された。
人の心に。
ぽたりと雫が伝った瞬間、戦慄いた唇が呪いを放った。
「――悪魔はお前たちの方だ!」
赤い光が爆発した。
血の臭いに変わって、焦げた臭いが世界を支配した。全てを燃やし尽くす魔炎が、高い空を舐める。
そこには街の残骸があった。人一人の姿も見当たらなかった。
そこには少年の死体と、それを抱く【滅びの魔女】しかいなかった。
「……どうして呼ばなかったのだ……力を使えば、お前は死なずに済んだのに……」
呼びもしなかった。呼べばすぐに現れるのに。
契約もそうだ。自分を孤独にした世界に、復讐と称して破壊を与えても良かったのだ。
魔女は空を見上げる。黒煙と紅蓮の炎の合間に、空が見えた。
もう微笑みかける事はない、彼の瞳の色だ。
「――ひとりには、させない……」
こんな場所で葬りたくもない。悪魔のような人の心があった場所に、置き去りに出来るわけがなかった。
血に濡れた、かつては光のようだった少年の身体を抱き上げる。力を使っている為に、重くは感じなかった。
その身に炎を纏って、【滅びの魔女】はゆっくりと立ち去る。初めて自分の意志で破壊した街を。
魔女と少年の姿は、全てを焼き尽くす銀朱の炎に紛れて消えた。
銀 朱 色 の 髪 の 魔 女
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