この世界で、これほどの幸福が存在する事は、奇跡に近いと思う。
腹部に手を当てて、マリィは小さく歌を口ずさむ。
奇跡の欠片は、先日訪れた吟遊詩人が歌った古い歌だった。
吟遊詩人は女性で、黒い髪と青い瞳のとても綺麗な人。同い年くらいだと思ったのに、年齢を聞けば一回り年上で、思わず悲鳴を上げて物を取り落としてしまった。
吟遊詩人って年齢不詳だ。マリィは知り合いの何人かを思い浮かべる。
歌姫は若々しい声で歌った。村の人々にとっては耳慣れない歌を。
けれどマリィにとっては聞き慣れた懐かしい古歌。それは遠く離れた故郷の歌。故郷と共に捨ててしまった歌だった。
止まっていた自分の内の故郷の時間が、ゆっくり流れ出したのを感じた。思い出は掠れ、色を失いつつあるものの、まだはっきりと思い描く事が出来た。
小さな自分、見上げた母の笑顔、秋空の青、白い雲の大きさ、金色の草波、繋いだ手の安心感も、全て。
この場所に望む物は何もない――そう思っていたマリィが家を飛び出したきっかけは、ほんの些細な事。あれこれ言ってくる父との喧嘩だった。随分早くに母が亡くなり、男手一つで育てた娘は男勝り。今思えば心配していたのだろうと思えるけれど、マリィはまだまだ子供だった。私は一人で生きていけると思い込んで故郷を飛び出した。
戦乱の世で、一人で生きていくのは大変だった。死の淵に立った事もある。苦しい時は故郷が浮かび、そしてその度に絶対帰るもんかと意地を張っていた。
歴史は大戦を刻み、時代は変わる。ようやく落ち着いた頃に、同じ傭兵だった男性と結婚した。幸福な日々の中で、故郷を思わない日は無かった。
そしてある日、吟遊詩人がやって来て、故郷の歌を歌った。奇跡のようだった。早くに亡くなってしまった母の姿が浮かんだ。母がもたらしてくれた、同じ母となる自分にくれた贈り物だと思えた。
この世界で、これほどの幸福が存在する事自体が、何より幸福だと思う。
歌姫はマリィが妊婦だと知ると特別に歌ってくれた。祝福の歌。世界の光が降り注ぐように、世界が輝くように、闇を進み行く強さを貴方に、と。短いながらも透き通り、きらきらと煌めく光のように、染み込んでいくようだった。
そしてマリィは、丸みの帯びた腹部に手を当て、愛しい子に聴かせる為に故郷の歌を歌う。あの歌姫のようには美しくないけれど、一生懸命に。
――あなたは多くを知り多くを忘れ、多くを得て多くを失う。人が繰り返すものを生きて、やがて自分だけのものを見つけるでしょう。母さんは出来うる限りの全てを貴方に伝えるわ。あなたが幸福である世界を作る為に。
この歌を覚えていてね。あなたが生まれてもいっぱい歌うわ。母さんの故郷の歌よ。新しい歌も歌うわね。母さんに刻まれた、母さんの母さんの思い出のように、あなたの思い出になるように。
そうしていつか、あなたも、愛しい子供に受け継いでいくのでしょう。
知 識 の 継 承 者
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