ミルナの結婚が決まった時、兄フィールはとても喜んでくれた。唯一の家族。唯一の兄妹。周りに助けられながら、二人で支え合って生きてきた。兄は人々に感謝し、神に感謝した。病弱でほとんど臥せっている自分にはそれくらいしか出来ないのだと、淡い笑みを浮かべて。
兄が毎朝毎夕祈っているのを、ミルナは嫁ぐ日を数えながら見ていた。自分の結婚が決まってから、フィールはいつもより熱心に祈っているように見える。しかしその様子を見ると、少し罪悪感がもたげてくる。自分だけ幸せになるという、少々傲慢な罪悪感。一緒になるセズンはフィールに一緒に暮らそうと言ったけれど、兄はそれを頑なに拒んだのだった。一緒に暮らすつもりはこれっぽっちもないとはっきり口にし、ミルナに向かって、嫁いだら両親の命日以外帰ってこなくて良いと言った。そしていつもの穏やかな口調に戻って、申し出はとても有り難かったと述べた。だからそれ以上ミルナも何も言えず、セズンと二人きりになった時に、結婚しても毎日フィールの様子を見に行くという事を取り決めたのだった。
結婚式までは忙しかった。嫁ぎ先に持っていく物を選び、式に必要な衣装などを揃え、自宅と嫁ぎ先とを行ったり来たりした。食事は常に兄と取ったがミルナの気はそぞろで、食事を終えると慌ただしく出て行くような日が続いた。
式の前日、ようやく忙しさが落ち着いた。ミルナが一日いる事を知ると、フィールは嬉しそうにミルナを散歩に誘った。今日は調子が良いんだと言う兄の顔色は、赤みが差していてとても元気そうだった。フィールにしっかり服を着せ羽織る物を持たせると、二人は近くの丘まで行く、フィールには少し遠出の散歩をする事にした。
丘には緑が萌えていた。柔らかい草が一面に広がり上等の絨毯のようで、小さな花が所々について模様のようだった。日射しが優しく、明るく世界を照らしている。大地がとても暖まっているのが感じられて、寝転ぶとさぞかし気持ちが良いだろうと思った。しかし明日嫁に行く娘がと笑われそうだったので、ぐっと我慢した。
丘を一つ越えようとしていると、そういえば、とフィールが言った。この先には花畑があったね。昔、みんなと行っただろう。覚えてるかい?
ミルナは頷いた。覚えてるわ。父さんと母さんと行ったわね。紫の花が咲いていた。ミルナはくすっと笑った。そう、確か蜂が私を刺して、大泣きした私を父さんが抱いて飛んで帰ったのよね。そして首を傾げた。今もあるのかしら。
どうだろうね、とフィールは微笑んだ。丘を越えればすぐに分かる。
とてもゆったりとした足取りで、二人は丘の頂上にたどり着いた。果たして、眼下に広がっていたのは、あの日と変わらない美しい花畑だった。
ミルナはわっとその花畑の中に駆けていった。紫色や桃色の美しい花が咲き乱れ、風に揺れている。ぽっかりとそこだけ何かの祝福があったかのように花が広がっていた。何という花なのかは知らない。兄なら知っているかもと思った所で、自分がその兄を放り出して走ってきたのを思い出した。慌てて振り向くと、フィールは苦笑しながらゆっくりと歩みを進めているところだった。
随分狭くなってしまったねと追いついたフィールは言った。それとも僕らが大人になったんだろうか。ミルナは考え、頷いた。きっとそうね。だって、昔はもっと広かったように思うもの。
二人は花畑の中に立って風に吹かれていた。温かな土と緑と、花の甘い匂いがする風だった。空の青さや雲の淡さを見つめて、ふっと涙が出て来た。多分兄とは最後だと、こうして散歩に来るのは最後だと思ったのだ。
両親を早くに亡くして二人きりで生きていた。兄は病弱で、誰かに助けて貰わねば生きていけなかった。二人きりの家。温かな食事をしながら、兄は外に出られない事が多かったから自分がたくさんの話を聞かせた。笑って相づちを打つ兄。それとは正反対に、熱を出して苦しそうな息の中で無意識に兄は何度も謝った。正直自由でない事を恨んだ事もあったけれど、そんな兄の様子を見ていると切なかった。この人は幸福でないのだと。誰かに頼らねばならない自分に苦しんでいる。そんな兄に、肉親である妹が頼らせてやる事が出来なくて、誰が出来るだろう。だから、一生兄の側にいるつもりだったのに。
ぽろぽろと涙が零れた。ごめんね、ごめんねと何度も呟く。一緒に兄を支えようと言ってくれる男性が現れて、ミルナは結婚を決めた。家族になれば支え合っていけるのに、フィールはそれを良しとはしなかった。きっと兄は自分を手放すきっかけを探していたのだ。愛してるの。愛してるの……。フィールを。セズンを。結婚を止めれば良いのにそれをしないのは、セズンが好きだからだ。結局私は、自分の幸せを選んだのだ……。
突然泣き始めた妹を、フィールはいつもミルナがするように、優しく背中をさすっていた。ミルナは泣き止み、もう一度ごめんなさいと言った。フィールは穏やかに微笑んだ。それを言うのは僕の方だよと言った。知ってるとミルナは最後の涙を拭って言った。フィールがそれ以上を言う前に、続けて言った。私たちは家族よ。永遠に家族なの。だからずっと頼りにして良いの。フィールは澄んだ瞳で妹を見つめた。そして不意に、足元に咲く花々を摘んで束にし始めた。そうして出来上がった少しばかりの淡い色の花束をミルナに手渡す。
僕は何もあげられない。この花を明日の彩りにするくらいだ。せめて贈るこの花が明日枯れても、覚えていて。僕はお前の幸せを願っている。ずっとずっと、誰よりも願っている。
フィールはミルナを責めもせず、ただただ、それだけを祈っていた。二人きりで食事をしている時も、熱に浮かされている時も、神に祈っている時も。そしてミルナは、それを知っていた。
幸せになりなさい。
結婚式は美しい晴れ空だった。村の小さな神殿で式は行われた。ミルナは伝統的な白い衣装で臨んだ。全身の白い衣装の中で浮かぶのは、美しい季節の色をした花冠。昨日フィールが渡してくれた花でこの冠を作った。この日の為の衣装と花は美しく、ミルナ自身も自分が美しくなったのではないかと錯覚したくらいだった。女神のようだねと笑った夫となるセズンは、一層頼もしい男性に見えたのだった。
賛美歌が歌われ神官が祭詞を読み、式は進む。祭詞が最後、神の代わりに祝福を述べようとしたところで、ミルナの頭上の花冠の重みが増した。ぎょっとした。同時に背後で悲鳴が聞こえたのだ。振り返ると、皆がミルナの花冠を指差している。花冠を取ろうと手を掛けた所で、ひんやりとした固い感触にまたぎょっとした。そろそろと頭から冠を引き抜くと、ミルナは目を奪われた。
透明な冠を光が照らし、透き通るような光に変えて周りに投げかけている。重いのはそれが水晶だからだ。花冠はまるで魔法の如く、不可思議な事に水晶に変わっていた。
再び悲鳴が上がった。今度は参列者の中でだ。中心にいるのが兄フィールだと知って、ミルナは駆け寄った。兄さん、兄さん、何度も呼ぶ。村の医者が彼に触って首を振った。もう神に召されている。
フィールはこれまでにないほど安らかな表情でいた。ミルナの幸福の中で逝けた事に、満足しているようだった。
誰かが言った。フィールは神様に愛されたのね。ミルナを置いていくフィールの為に、祝福を下さったのよ。その花冠がその証。
ミルナは泣きながら何度も頷いた。この花は永遠の証。兄が自分の幸福を永遠に願っているという事の。思い出は薄れゆくけれど、この花は決して枯れない。
ずっと覚えてるわ、兄さん。あなたが私の幸せを願っていたという事を。ずっと。
澄み切った空の下で、水晶の花冠は清い光を投げかけている。
水 晶 蓮 華
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