「これが世界を滅ぼす、封じられた譜面です」

 人間の男は譜面を歓喜に震える手で受け取った。番人は笑いながらそれを見ていた。

 月影草の紙を三百六十時間月と星の光に晒し、黒百合の花弁を絞ったものを混ぜたインクで書かれたそれは、決して色褪せない魔力を持っていた。
 これを神々の国に託した男は人間世界における魔術師だった。その情熱の殆どは魔力を動力とした発明に向けられたが、楽師でもあった彼は音楽の魔力を増大させる事も研究していた。
 そうして生まれたのがこの譜面である。全四楽章。一つ一つはただの音。だが繋げられ紡ぎ上げられる曲は世界を滅ぼすというのに、春の芽吹きの奇跡、雲間から射す金の梯子、それ以上のもの、なのだそうだ。

 男が譜面を捲っていく。奏でるべき音楽を頭の中で想像しているらしい。
 この人間の男もまた魔術師で、己の力を試したいという欲望を持ってここまでやって来た。人間が神々の国にやって来るのは容易ではない。それほどこの譜面に魔力があるという事は、番人も認めていた。

 世界の滅亡、それは神の所業。番人は神の一人で、創造と破壊に憧れを持つ、若い神にはあまりめずらしくない者だったが、やはり若い者らしく世界を滅ぼしてみたいと思いながらそれほどの力を持たず、また封じられた譜面の音楽は人の手でないと効力を発揮しないというもので、番人は番人を任されながら歯噛みする膨大な時間を過ごしていた。
 そこで現れたのがこの人間である。番人は喜んだ。番人には求める者あらば授けよという魔術師と交わした制約があり、譜面が解き放たれた事を神々に知らせる役目だけを負っていた。例えこの譜面で世界が滅びようが、それは人間の領分で神々の関知する事ではないのである。求める声に応えて譜面の封印を解きながら、これで自分は破壊のきっかけを与えた者として新しく創造された世界の神話に語られるだろうとほくそ笑んだ。

 男が最初の一音を奏でた。深い弦楽器の音色は最初は弱々しかったが、次第に自信を持って大きく奏でられていった。低音から高音へ流れるような弓の運び。嵐の海となって激しく奏でられる音。唸る風の低音。絶えず落ちる雷の高音と、きりきりと鳴る人々の悲鳴。世界の壊れる音が高らかに。
 男は必死に音楽を奏でた。世界の命運が自分の手の中にある事も忘れて、曲に没頭していった。

「はは、あはははははっ!」

 崩れる世界の光景を見て、番人は声を上げて笑い出した。

「私が破壊を与えたのだ! 私がきっかけを解き放ったのだ!」

 己の欲望のままに封印を破って世界を滅ぼそうとした若い神は、音楽に取り憑かれた男を見た。曲が終わればこの男の命はないだろう。そういう音楽だった。
 だが不意に、男が顔を上げた。

「……あ……」

 手を休めずにか細い声を上げる。若い神はその不穏な空気を察知した。

「なんだ……?」

 男のように耳を澄ます。どこからか音楽が聞こえていた。
 始めからそうなる事が決まっていたかのように、男の奏でる滅びの音楽に合わさり、混じり合い、奏でられる。

「曲が聞こえる……あの曲は何だ?」

 呟きながら、段々と迫る嫌な予感を拭えなかった。あまりにも美しい笛の音色は不吉すぎた。
 清々しい朝の真珠色の雲、冬の日の朝の産声、美しい音色が聞こえる。

「……封じられた譜面の片割れ……世界を誕生させる音楽……」

 なに、と若い神は男を見た。
 彼の視線の先に、誰かいる。別の場所、別の次元が繋がっていた。笛の音は女の吐息から奏でられ、傍らには番人らしき神の姿があった。

 二つの音楽は重なって高まり、それに合わせて世界は新しい様相を示していった。崩れた大地が盛り上がって、雨が大地を潤し、新しい土の上に緑が芽吹き、海は穏やかさを取り戻した。太陽の光が再び射し、鳥の声が始まりを告げる。人々が笑う。

 吟遊詩人の歌が聞こえる。

『わたくしはただ、終わりを知っただけ。そこに始まりが生まれるのを見ただけ』

 様々な声が、音が、二つの音楽に唱和し、世界の歌を紡ぎ上げる。

 曲が終わった時、番人であった若い神々は新しく生まれ変わっていた。そして定められていた通り、新しく封じられた譜面の番人となった。そうして新しく来る者に番人は譜面を授け、破壊と創造、死と誕生を繰り返すのである。
 片方が奏でられる時あれば、もう片方が奏でられる――二部編成の最高の音楽。それが作曲した魔術師が吹き込んだ、お互いを封じる譜面の魔法だった。





封 じ ら れ た 譜 面

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