――戯曲【歌と踊りの草紙】小作品『序幕と終幕より』
 序幕、もしくは終幕。



 白い部屋では影は黒くならない。薄墨の色になる。影すらも色を変える、作られた部屋。ぴったりと閉じたように、世界から切り離されたもの。狂気の所行。
 つるりとした壁、床。窓枠も白く、窓があるという事自体が奇跡のよう。白と灰で塗り固められた人形の家のような部屋では、外の世界に接するあの窓だけが彼女の心を解き放つ。扉ではなく、大窓だけが。
 美しく晴れた日の風が、彼女の髪を攫い、床に散らばる模様のような無数の紙を飛び立たせる。舞い上がるもの、滑空するもの。そのどれもが生きていない言葉や記号だけで終わっている。
 何故彼は気付かないのだろう。無からは何も生み出せない事。私たちは有を感じる事でそれを取り込み、新しく生み出そうとするのに。どんなものだって、無からは生み出せない。世界だって女神レーヌティエラの遺体から生まれたのに。
 長い時間を掛けて、風に捲られていた一冊の本がある。彼女の歌もそこにある。純粋な子供の頃に作った、学校で誉められただけの何の変哲もない歌だ。誰かに読まれるだけでも稀であるというのに、本――ひとつの世界となってそこに在る。
 出会った彼に勧められるままに彼女はその本に古い純粋な頃の歌を書いた。そうして――それからこの部屋で過ごす生活が始まった。
 彼を狂人と人は呼ぶだろう。けれど優しい心を持っている。この部屋の位置は高い。外へ続くのは鍵の掛けられた扉と自由に開いた大窓だけ。閉じ込められた鳥が選ぶのは、当然。
 彼女は着せられた白いワンピースからのぞくすらりとした長い足でベランダに出て、外の光を存分に浴びた。自由になる足で、両手を広げて回る。くるくる、くるくる。そのまま踊っていれば舞い上がると信じているかのように。
 そうしてそのまま、ベランダの手摺から落ちていった。

「新しいうたを紡ぐ、次はだれ?」

 歌うように弾んだ声が問い掛けたように聞こえた。
 風が白い部屋の本を捲る。彼女の作品ではない、うたの頁が開く。



   ***



 ――戯曲【歌と踊りの草紙】小作品『序幕と終幕』より。
 幕間。



「こんにちは」

 声を掛けてきた青年は、ここ最近よく見掛ける人物だった。よく散歩をしていて、目が合うとにっこり笑ってくれる。名前も知らなかったけれど、心に留め置くにはそれで十分だった。

「君、いつも僕と会うよね」

 頷くと、彼は笑った。

「――の詩みたいな事になったら面白いのにね」

 ――の詩というのは、ある中年の男が美しい少女と交流を深めていく物語の中にある詩の事だ。作者と主人公の名前が――という。
 あなたはそんなに年を取ってない、とても若いと言うと、彼はそうだねと笑った。

「では、若い男と女の物語を一緒に作りませんか?」

 彼は美しく澄み切った笑顔で手を差し出した。



   ***



 ――戯曲【歌と踊りの草紙】小作品『序幕と終幕』より。
 終幕、もしくは序幕。



 白さばかりが際立つ部屋だ。滑らかな白い壁には継ぎ目が四隅にしかなく、床までも模様すらない。模様と言えば床を一面に埋め尽くす紙の重ね合わさった影が模様と言えるかもしれない。陽と窓枠が作る灰色の影の上で、薄い波のように白いレースのカーテンがそよぎ、ずっとぱらぱらと紙がめくれる音が聞こえていた。大きく揺れたカーテンと共に舞い上がった、鳥のような紙を掴む。今日は風が強いようだ。
 白い箱のような部屋。無を表現するとすればこんな部屋。本当は白すらも色なので色など付けたくなかったのだが、壁を透明にするとどうしても不備が出来るので、こんな部屋になった。
 掴んだ紙は書きかけの五線紙。書かれているのはト音記号のみで、その記号は大雑把に書かれていて、きちんと最後が止められずに線がずるずると下に伸びて下の行の五線紙を汚していた。
 床に散った紙には、一文字ずつ、多くは「あ」といった、書く気がないか書く事が思い付かないかで、ただ書いたという屁理屈を捏ねているような文字が置かれている。彼は苦笑して、開いた大窓の前に座り込む少女に声を掛けた。

「全く書けてないじゃないか。どうしたんだい。ずっとこんな調子だね」

 少女はぼんやりとした表情でだるそうに振り向く。
 無言で彼を見遣り、また視線を元に戻した。

「ねえ、あの言葉の数々はどこへ行ったんだい?」

 彼は彼女の隣に膝を付いて、細い肩に触れた。そのまま抱き込む。顎に手をやり、上向かせる。
 彼の扱いは完全に人形に向けるそれで、少女は無言でなされるがままになっていた。

「君が持つ言葉を僕に聞かせておくれ。あのうたのように、僕の心を震わせる言葉を」

 ぱらぱらと紙がめくれる音。床に置かれた一冊の詩集を見遣る。

「僕の心を震わせ、天上の光と地上の光を感じさせる言葉はどこへ行ってしまったんだ? 老人を歌わせ赤ん坊も踊る物語はどこへ消えたんだい?」

 少女は彼の腕の中で、腕を天へ伸ばした。その腕がくるりくるりと回転して、手首がくるりくるりと回って、まるで踊っているようだった。

「無から有を生み出してくれると思ったからこの部屋を用意したのに、君は何の言葉も紡いでくれない。ただ古い歌を歌い、古ぼけた踊りを踊るだけ。僕は悲しいよ。君もまた、新しい歌と踊りは生み出せないんだね」

 彼は少女から離れる。少女は支えを失ってずるりと後ろに倒れた。手は伸ばされたまま、単純な踊りを踊る。扉を開けて出て行った彼を見遣る事なく、手だけで踊り続けた。微かに紡がれる古いメロディーと共に。
 床の上で風によって何枚ものページが捲られた。どのページの文字も筆跡が違う。その詩集には彼女の作品もあったし、この部屋で過ごした幾人の者たちの作品もあった。





歌 と 踊 り の 草 紙

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