視線を動かすと、立っている自分の前まで黒い箱を座ったまま高く差し上げた皺だらけの手の持ち主はやはり老婆で、流れる民の物売りだと思われた。
「どうだい見ていかないかい? さっきから行ったり来たりしているようだが」
厄介なのに引っかかったかな、そう思ったが船の出発まで時間を持て余していたのも確かで、土産話に見ていくのもいいかなと明るく考えると、汚いござの前に屈み込んだ。
「なんですか、おばあさん、その箱は」
皺だらけの手の上にあるそれは、周囲を取り込むような滑らかな黒で、蓋らしき上部の面に小さく紋章が浮彫にされていた。
その紋章に注意を寄せる。銀らしき白い金属で彫られた紋章だったが、誰の、何の紋章だろうか。物体を簡略したものなのか、素人の自分の目では判別できない。ただ左右対称になるよう最高峰の職人が細かく文様を彫り上げたように感じられる。
「ふふ、中を見せてやろう」
老婆の手が敬意を払っているかのように不思議と恭しく蓋を持ち上げる。
同時に中を閉じ込めるような黒い内側から迫り上がってきたのは、小さな人形と模型だった。
人形は女性で、二対の髪型の違う、だが同じ人物の娘人形は、背中を向け合った下半身の片側がくっつき、上半身がそれぞれ別の行動をしている。一つは鎧を着て剣を向ける女性、もう一つはドレスを着て赤ん坊を抱く女性。
鎧を着た娘の側の台にはもう一本剣が刺さっており、赤ん坊を抱く娘の側にはゆりかごがある。
ざわめきの中で、どんな音よりも澄んだ子守歌が流れ出す。
すぐに赤ん坊を抱く娘が歌うものだと知れた。彼女は繰り返し歌い続ける。ゆったりと身体を揺らして、波のように。
歌を終えると、
「――良いオルゴールだろう?」
はっとして老婆の声を聞いた。
「オルゴール? 今のは確かに……」
誰かが歌っていたはず。言いかけて、口を噤んだ。まさかそんな事があるわけない。
呼び込みが行き交うこの通りで、多分誰かが呼び込みの歌を歌ったのだろう。それが一つの音楽に聞こえただけだ。きっとこの街の子供は、そんな声が子守歌に違いない――焦る自分の思考が幻想的な夢を語る。
「どうだい、買っていかないかい? 安くしとくよ」
「え。えっと、すみません、いいです。いりません。すみません」
足早に立ち上がりそこを離れる。なんだか気味が悪い。背筋がぞくぞくする。
追いかけられはしないか、と思ってしまった事もあって、ちょっとだけ振り返った。だが、人の波に埋もれて老婆の姿は、座っていたござらしき物の縁しか見えなかった。
「……まあ、いいや。久しぶりに帰ろう。あいつびっくりするかなあ。早く見せてやりたいよ、枯れない花なんてさ……」
彼は気付かなかった。
蓋の内側に、銀で刻まれた文字が浮かび上がった事に。
――この剣は我が姫君に。
この誓いは我が愛する人に――
外側を取り込み内側を閉じ込める漆黒。
黒いオルゴールは物語を語る。
文字が流れ変貌する。
――その花は祝福と呪いの花。
決して枯れない思いは澱む――
今度は、枯れない花の物語。
黒 い オ ル ゴ ー ル
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