序章 王太子との不幸な婚約
 

 銀の髪に大人のような宝石の飾りをつけ、とっておきの薄紫のドレスを着た六歳のコーディリアは、この日も好奇心で大きく胸を膨らませていた。
「王子様は何がお好きなのかしら? 読書? 乗馬? お散歩? お勉強だったら少し困るけれど、それはそれで素敵ね!」
 初めて顔を合わせる王子様と一緒に遊ぶ玩具の厳選に厳選を重ね、とっておきのお菓子を籠に詰めて、どんな話をしようかとあれこれと話題を考えて、行きの馬車では父母にそのことばかりを夢中で喋る。
「王子様ってわたくしの婚約者なんでしょう? 婚約者って、いつか結婚する相手のことよね? だったら仲良くなりたいわ!」
 それを聞いていた両親の反応は、どうだっただろう。たとえ笑っていても心は引き裂かれるように痛んでいたはずだけれどよく覚えていない。穏やかで優しくときに厳しい父母が、この車中ではコーディリアのはしゃぎっぷりを嗜めることはなかったように思う。
 小高い丘から街を見下ろすアルヴァ王国の白亜の王城はコーディリアにとって絵本の世界そのものだ。
 うっとりするくらい豪華で美しい、鏡のように輝く大廊下。水晶の吊り照明。貴婦人が微笑む古い絵画や陶磁と黄金の壺。古代の王の彫像。そして神鳥(かみどり)が描かれた天井画。
 青い翼を羽ばたかせる神鳥に祝福された花々の荘厳な色彩。コーディリアの知る空を描いているはずなのに、それは間違いなく神話の一場面で、目を輝かせながら口を開けて見入ってしまった。
(この世界を創った青い翼の神鳥様……なんて綺麗……)
 その翼のはためきがこの世界に魔力を満たしたので空は青く、その身を横たえた大海は紺碧の色をしているという。
 コーディリアは無意識に神鳥と同じ色をした自らの瞳に手を伸ばしたが、置いて行かれそうになっていると気付いて慌てて両親に追いつき、すまし顔を取り繕った。
 やがて槍を手にした兵士が守っていた物々しい扉を開け放つ。
 絢爛な装飾の施された柱廊が続く広間の中央を貫く真紅の絨毯の先に、一際眩い椅子に座る男性の姿があった。
「国王陛下」
 両親が恭しく膝をつくのに倣い、コーディリアはそっとその人の様子を伺った。
 薄茶色の髪と薄水色の瞳の、美しい顔立ちの人。ただその目は色味に反して奇妙に暗い。
「その娘がそうか」
 陰った薄水色の目がコーディリアを捉えると、美しい顔にひきつれのような歪んだ笑みが浮かんだ。
「確かに、素晴らしい青の瞳の持ち主だ。でかしたぞ、エルジュヴィタ伯爵。これで王家は安泰だ」
 両親は深く首を垂れるのにコーディリアは胸騒ぎに襲われた。その仕草がまるで誰にも表情を見られないようにするみたいに思えたからだ。
 大人はこれから大事な話をするというのでコーディリアは広間から連れ出され、侍従の案内で王子がいるという奥庭を訪れた。国王陛下との対面はよくわからないまま終わってしまったけれど、王子に会って仲良くなるのが今日の目的なのだから、と気持ちを改める。
 奥庭は王族の住まう宮に近く、滅多な人間は立ち入ることができない。そんな場所で数人の少年の声が響いていた。
「そっちへ行ったぞ!」
「逃がすな、捕まえろ!」
(追いかけっこでもしているのかしら?)
 案内役の侍従はさっさと戻っていってしまったので、コーディリアは一人、声のする方へと近付いていく。
「きゃっ!?」
 がさっと目の前の茂みが揺れたかと思うと、小さなものが飛び出してきたのでつい受け止めてしまった。
 猫だった。ふかふかふわふわの黒い毛に覆われた金色の瞳の猫が、すっぽり抱えた腕の中で丸い目をきょとんとさせて見上げてくる。
「まあ! いったいどうしたの、可愛い猫さん?」
「あっ!? 誰だ、お前?」
 最初からそこにいたように大人しく抱えられている猫に話しかけていたら、猫が来たのと同じ方向から次々に少年たちが現れた。
 見知らぬ少女であるコーディリアをじろじろと無遠慮に眺め回す小さな紳士たちに、コーディリアは躾けられた通り微笑をたたえて挨拶を述べる。
「ご機嫌よう、わたくしはエルジュヴィタ伯爵家のコーディリアと申します。マリス王子殿下にお会いするためにお城へ参りました」
 少年たちのコーディリアを見る目が変わった。
「エルジュヴィタ伯爵家! じゃあお前があの」
「『あの』? ……ええと……?」
 ぎょっとしたように、あるいはしげしげと、瞳の色を確かめようと身を乗り出してくるのに驚き不安を覚えて身を退いたそこへ、不機嫌な声が響く。
「おい、何してる! あいつはちゃんと捕まえたんだろうな?」
「マリス様!」
 次に現れた金の髪と紫の瞳をした少年に、コーディリアを取り巻いていた子どもたちはぎくりと身を強張らせて後退りする。
 紺碧色の地に金の釦がついた華麗な衣服に身を包んだ彼は、くっきりと整った高貴な猫のような顔に怪訝な表情を浮かべてコーディリアをじろじろと見回した。
「お前は誰だ? ここは王家の庭だ、忍び込んだやつは牢に繋いで鞭打ちの刑に処す」
「あっ、あの、マリス王子殿下にお会いするために案内されてきたので、忍び込んだわけではないのです……」
 コーディリアはドレスの裾を摘もうとし、猫を抱えているのを思い出してそのままちょこんと軽く膝を折った。
「コーディリア・エルジュヴィタです。あなたがマリス王子殿下で、きゃあっ!?」
 途端に強く腕を引かれ、鞠球を掴むように顎を捉えられて瞳を覗き込まれる。
 コーディリアの青い瞳に映るマリスは、先ほどの国王とそっくりだった。国王ほど暗くはない、けれどいずれ同じ影を宿すと想像できる目つき。
 見つめながらその瞳を持つコーディリア自身を、まったく、顧みない。
「青い瞳の魔力持ち。お前が俺の妃になる伯爵家の娘か」
 コーディリアは薄紫のドレスの裾をぎゅっと握って怯えを見せないよう必死に表情を無に留めていたが、次の瞬間、緩んだ腕から黒猫が飛び上がり、目の前のマリスに躍りかかった。
「うああっ!!」
 凄まじい悲鳴が上がり、地面に倒れ込んだマリスは顔を押さえて悶え打った。爪が走ったのだろう、激しく牙を剥いて威嚇する黒猫にマリスは幾ばくかの血で汚れた目元を怒りと憎しみで吊り上げる。
「こ、この……動物風情が! 殺してやる! 切り刻んで生きたまま犬に食わせてやる!」
 マリスの紫の瞳がじわじわと輝きを帯びる。
(いけない!)
 魔法の発動を察知してコーディリアは黒猫の前に飛び込んだ。
 一瞬にして瞳が燃え上がるように熱くなる。
 その熱が膨らみ、眩い光になって瞳から生まれ、破裂した。
 二人の魔法がぶつかり、相手のそれを打ち消してもなお威力の衰えなかったコーディリアの魔法を受けてマリスが吹き飛ぶ。
 一方のコーディリアは咄嗟のあまり制御を失ったせいで、自らもその反動を受けて倒れ伏し、目を押さえて激痛に耐えていた。
 絶え間なく流れる涙が視界を覆い、激しい痛みは目だけでなく頭にも及んでいた。視界は白濁し、何もかも判然としない。ただ叫び声が、呪うような怒りの声が痛みに追い討ちをかける。
「よくもやってくれたな! 俺に逆らってただで済むと思うな! 何がこの国で一番の魔力持ちだ、その目玉をえぐり取って二度と魔法なんて使えないようにしてやる。お前は世継ぎを産めばそれでいい、青い目なんて必要ない、王族(おれ)より強い魔力の持ち主がいていいわけがないんだ!」
 王子が負傷したとあってすぐさま大人たちが駆けつけ、コーディリアもまた両親に抱えられるようにして連れ出されて治療を受けた。目を使わないよう包帯を巻かれるも、後から後から涙が溢れるせいで何度も巻き直さなければならず、その間ずっとコーディリアは熱に浮かされながら、マリスの行いを訴えた。
「マリス殿下は魔法で猫を傷付けようとしたの。私はそれを庇おうとしたの。魔法を使ってマリス殿下を攻撃するつもりじゃなかったの。信じて。本当よ。信じて……」
 包帯を交換する合間に見る両親は泣いてばかりいて、発熱して寝付いたコーディリアがうわごとのように繰り返すのに「信じている」「大丈夫だよ」と返してくれていた。
 後から聞くと、マリスやその取り巻きの貴族令息たちはあの庭で猫を虐めて弄んでいたという。あのときコーディリアが庇わなければ遠からずひどい目に遭わされていたと思われた。そしてそういうことは日常的に行われていたのだそうだ。
(マリス殿下は、私の婚約者は、とても、とてもひどい人間だ)
 事故とはいえマリスを攻撃したことは死刑になってもおかしくなかったけれど、『婚約者』であることで不問に処された。
 けれどこのとき婚約を解消できていれば、と後々までコーディリアは思い返すことになる。



 

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