第1章 愛されない婚約者
 

 そんなはしゃいだ気持ちも、馬車に揺られて王城にやってくると途端に消え失せる。
 予定の時間にも関わらずマリスが現れないまま一時間待ちぼうけを食らったコーディリアは、室内に控える王宮侍女に少し出ると言い置いて奥庭に向かう。庭か奥の宮の自室、それがマリスのおおむねの行き先だとコーディリアは知っている。
「コーディリア様!」
 すれ違う貴族たちが道を譲って一礼するのに軽く応じていると、慌てた様子の高官に呼び止められた。
「マリス殿下の居場所をご存知ではありませんか!?」
 何かと多忙で見かけるときはいつも焦っているような人物だが、今日に限っては真っ青でいまにも倒れそうな狼狽ぶりだった。おっとりと首を傾げてみせつつ、穏やかに質してみる。
「いいえ。わたくしも、お約束した時間においでにならないので困っているところです。そのように取り乱されていったいどうされましたの?」
「実は、神殿島の使者をずいぶん長くお待たせしておりまして……」
 まあ、とコーディリアは眉をひそめた。
 神殿島。いまなお神の血筋が生きている神鳥を信仰する聖地からの使者だ、いくらマリスがこの国の次期国王とはいえ蔑ろにしていいわけがない。
「わかりました。お見かけしたらすぐに向かわれるようにお伝えします」
「ありがとうございます!」と平身低頭する高官の心底安堵した様子に対して、コーディリアはため息を禁じえなかった。
 王太子のマリスが政に情熱も関心も持たないのは幼い頃から変わらず、周囲もそれを諌めることができない。ひとえに報復を恐れるがゆえに。
 本来なら兵士に止められる通り道をしずしずとやってきた王族のための奥庭は、コーディリアが初めてマリスと顔を合わせた場所だ。取り巻きの悪童たちが騒いでいた庭はいつの間にかひっそりとして、誰も不用意に立ち入らないようになっている。
 そこへコーディリアが現れると待機していた護衛兵たちがあっという顔をして恭しく一礼した。
「殿下はこの奥ね?」
「あっ!? い、いけません、コーディリア様、いま殿下は」
 制止の声を無視して小道を回り、茂みに隠れた東屋に目を留める。
 かすかでささやかな笑い声。鳥の声に混じる囁きは甘く男女のやりとりを思わせ、コーディリアは静かにため息を飲み下す。
「こんなところにいらしたのですか、殿下」
 東屋にいたのは、紫の瞳で冷ややかにこちらを睨みつけるマリスと彼にしなだれかかる黒髪と緑の瞳の美しい令嬢だ。
 我ながら物語の悪役のような立ち位置だと思う。実際二人にはコーディリアが仲を割かんとする悪者に見えるのだろう。
「何の用だ、コーディリア。俺たちの邪魔をするな」
「申し訳ありません。お約束の時間を過ぎてもいらっしゃらないので、心配になってお探しておりました」
 責めるような態度は見せないよう気を付けて、コーディリアは微笑んだ。
「他にも殿下をお探ししている者がおりました。なんでも神殿島から使者が来ていて、殿下にご対応をお願いしたいとか。わたくしのことはお気になさらず、どうぞそちらを優先して差し上げてください」
 ちっとマリスが舌打ちをする。
「くだらん。神殿島だと? 遥か鄙の島の人間が、突然やってきて王族に謁見できるなどと思い上がりも甚だしい。奴らは大陸の常識を知るべきだ」
「恐れながら」とコーディリアが警句を口にしようとしたところで「その通りですわ」と令嬢の天鵞絨の声が追従した。
「マリス様はご多忙の身なのですからきちんと休息を取るべきです。ご無理をなさってはいけません。婚約者ならマリス様の身を案じるべきなのではないのですか、コーディリア様?」
「オードリン男爵令嬢」とコーディリアは苦いものを噛んで続く言葉を飲み込む。
「俺のためを思ってくれるんだな、レイラ。可愛いやつだ」
「とんでもありませんわ、マリス様」
 男爵家の生まれで髪色は黒,瞳は緑。身分は低く魔力も弱い、王国の価値観でも取るに足りない立場の女性だが、彼女のくびれた腰にはマリスの大きな手が触れ、甘えるように豊かな胸と柔らかな身体を彼にもたせかけている。
 レイラ・オードリン男爵令嬢。公的な身分は王太子付き女官だが、その実態はマリスの恋人であるのは宮中では周知の事実だ。
 マリスの甘い言葉にレイラはくすくす笑い、ちらりと上目遣いにコーディリアを見た。勝ち誇った目つきはコーディリアに「婚約者のくせにこのような優しい扱いを受けたことはないでしょう?」と問いかけている。
 悔しいとは思わないけれど不愉快ではあった。だが立場上歯牙にかけるほどのものではない。コーディリアはレイラの非難を聞き流し、あくまでマリスに訴える。
「殿下。わたくしはいいのです、左様に構わずともいいと婚約者であるわたくしをお身内に数えてくださっているのでしょうから。しかし国外からお越しになった方を放っておかれるのはアルヴァ王国の品位に関わります。他国の誰もが、この国を友好的な見方をしてくれるとは限りません。戦の火種になったらどうするのです?」
「そのときは俺が自ら打って出ればいい。魔法の力で敵を一掃してやる。歴代の王がそうしてきたようにな」
 戦場で先陣を切ったかの王に匹敵する魔力をお持ちだと本当に信じているのですか?
 戦をするためにどれほどの財源や人員を確保せねばならないかご存知ですか?
 戦いの場がもし自国であればその土地は一定期間農作に適さなくなりますが、民を飢えさせることはありませんか? 開放するだけの食料の備蓄はありますか? 例年と同じように税を課すことは不可能だと理解しておられますか?
 勇ましいことを言うがそれが真に何を意味するのか、マリスはわかっていないだろう。亀裂が走る微笑みを伏せて隠し、コーディリアは唇を引き結ぶ。
(いつもこうだわ。この方は猫を虐めていた少年の頃と変わらないまま)
 その顔のすぐ横を、ひゅっと音を立てて茶器が掠めた。
 コーディリアの背後で、がしゃんっ、と激しい音を立てて薄い磁器が割れる。微かに触れた感触と砕ける音に驚くともなく肩が揺れた。はっとして顔を上げれば、マリスが暗い紫の目でコーディリアを睥睨している。
「どうやら俺のやり方が気に入らないようだな」
「そのようなことは、っ!」
 びぃいい、と布が裂けた。薄い下衣は重ねていても繊細で脆く、無造作に掴んだマリスが強く引き寄せたことで呆気なく破れた。二の腕が露わになり、コーディリアは慌てて己を抱くように身を引く。
 しかしマリスが許さない。退くコーディリアを引き寄せたかと思うと乱暴に突き飛ばした。
「そんな翼を模したような服を着て魔力の高さを誇示するなんて、下品な女だ。いつもそうだ、お前は俺を、お前より魔力が劣る俺を下に見ている」
 倒れ伏したすぐそばで茶器が叩きつけられ、コーディリアはびくっと肩を跳ねさせて身を固くする。覆い被さるマリスの影が高く腕を振り上げて。
「おくつろぎのところ誠に恐れ入ります、マリス殿下」
 国王付きの侍従が声をかけて割り込んだ。
「国王陛下がお呼びです。至急王の間においでください」
 冷たい声で淡々と告げられたマリスはちっと舌打ちをし、コーディリアに興味をなくした様子で身を返す。
 やがて破れた袖から入り込む寒気に、コーディリアは我が身の無事を実感して深く息を吐いた。
 青い瞳を持つ強い魔力持ちのコーディリアは、どれほどマリスの勘気を被ろうとも、魔力を宿した後継ぎを産む存在として命を奪われることだけは決してない。
(けれどそのことが幸せだとは、とても思えない……)
 しかし妃となる予定の婚約者の目の前で堂々と別の女性と睦み合い、本当に愛しているのは彼女だけと公言して憚らないマリスに、婚約破棄を考えたことは一度や二度ではなかった。
 黙っていろと言われたかと思えば数刻後にはお前の陰鬱さが気に食わないと詰られ、会話を試みるとお喋りな女はみっともないと嘲笑される。拳だけでなく刃物で危害を加えられそうになったこともあるし、被害はコーディリアに限らず、親切にしたというだけで立場を失った者は官にも貴族にもいる。
 婚約後からそうした積み重ねを経て愛情を抱けるほど、コーディリアは強くない。
 ただ大勢の人間が彼をはじめとした王族や高位貴族に処罰という名の残虐な仕打ちを受けるこの国で、唯一命を奪われない人間として、せめてその発言や振る舞いに諫言を呈することが務めだとコーディリアは思っていた。婚約破棄しないのも、いずれ王妃になる自分が防波堤となってマリスのような王侯貴族の暴力から弱者を守らなければならないと思っているからだ。
 成功した試しは、ないけれど。
 歪に割れた茶器の無残な様に目をやり、コーディリアは青い目を伏せた。



 

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