第4章 楽地を来離る
 

 ――…………。
「コーディリア様?」
「何か、聞こえない?」
 静かにしてくれるよう指を立てながら耳を澄ますと、アエルとカリトーにも聞こえたらしい。はっとした顔で注意深く周囲を探っている。
 ――…………、……ル……。
「人の声? いったいどこから……あっ、コーディリア様!?」
 アエルの声を背に聞きつつ、直感に突き動かされて部屋の奥にある鏡台を開いた。三面鏡に映るコーディリアが曖昧にぼやけたかと思うと、正面の鏡に別人の姿が結ばれていく。白い髪、毛織物の肩掛けで全身を包んだ背の高い細身の老女が、火の消えた竃の前で祈るように目を閉じている。
 ――……アデル……。
「グウェン?」
 信じられない思いで名を呼ぶと、ロジエの魔女の片割れは振り向くようにしてコーディリアを探す。
 ――……アデル? 姿が見えないけれどアデルよね? 私の声が聞こえている?
 声が届く。驚きに一瞬息を飲んだが、コーディリアは慎重に鏡の向こうに話しかけた。
「聞こえています。グウェン、いったい何をしているんですか? どうして声が……」
 背後にいるアエルとカリトーを見るが、二人とも自分ではないと首を振っている。魔法には違いないがいったい誰の力なのか。疑問を覚えるコーディリアに鏡に映るグウェンがおっとりと微笑んだ。
 ――いま翼公の城にいるのよね? それがあなたの力を強化して私の声を拾えるようになったのだと思うわ。だからよく聞いてね、アデル。絶対にこちらに帰ってきてはいけない。
 そう告げたそこに微笑みはない。常に優雅にたたえられていたものが失われた、嫌な予感の象徴たる真剣な表情で告げる。
 ――マリス王子の手の者が来ているわ。
 その瞬間、世界から色が消えた。
 ――ロジエはまだ無事だけれど、麓の街は占領されたそうよ。じきこちらにも手が回るでしょう。
 穏やかなグウェンの声が遠くから聞こえる。ぐらぐらと意識が揺れる中、思い出すのはあの男の言葉、笑い声や歪んだ顔。怒りを感じる強さも悲しめる弱さも抱けなかった自分自身への嫌悪感。気付けばぎりぎりと軋むくらい手を握りしめていた痛みでコーディリアは我に返った。
「……目的、は」とひりついた声に我ながら動揺し、一度口を閉ざしてから再び尋ねる。
「マリス殿下が来訪した目的は何か、わかりますか?」
 ――はっきりとはわか…………ロジ……人たちは………………噂で……。
 不意に声が揺らぎ鏡像もぼやけ始めた。コーディリアは引き止めるように鏡の縁に手をかける。
「グウェン? 聞こえません、グウェン!」
 像が歪んでは戻ることを繰り返す遠くでグウェンの悲しげな声がする。
 ――微々たる……私の力……限界…………絶……帰ってきては……。
「グウェン? グウェン!」
 呼び声も虚しく、ふつりと声が途切れた。
 正面にいるのは顔色の悪い、昂る感情に目を爛々とさせたコーディリア自身だ。幽鬼のような己に失意を感じると同時に、ああこれが私なのだと、鏡に映し出される暗い笑みには安堵が混じっていた。
「コーディリア様、いまのは……?」
「確か師と仰ぐ薬師の一人ですな? 伝言をお持ちしたので覚えております」
 アエルとカリトーが言うのに「ええ」と答えながら鏡の扉を閉じる。そうして薄布を留める頭部の飾りを丁寧に外し、耳飾りと首飾りも取って鏡台の上に置いた。
「アエル、私が最初に着ていた服を持ってきてもらえる? カリトー、追い出すようで悪いけれど着替えをするから外してちょうだい」
 驚きうろたえるアエルに「ごめんなさい、急いでいるの」と微笑むと、彼女はちらりとカリトーを見てから部屋の外に走り出る。視線を受けたカリトーはじっとそこに立ち、にこやかな笑みで尋ねてくる。
「着替えをして、どちらへ?」
「帰ります。グウェンにああ言われて戻らないわけにはいかないわ」
「帰ってくるなと仰せのように聴こましたが、師の意志に背くおつもりですか」
「ええ」
 こういった手合いはさっさと話を切り上げるに限る。会話を長引かせて引き止めるなんてお手の物だし、余計なことを話して情報を得られてしまうと邪魔をされる確率が高くなってしまう。だからコーディリアがくっと胸元を広げて服を脱ぐ仕草を見せると、さっと目を背けて後ろに下がった。
「主を呼んで参りますのでしばしお待ちを」
「必要ないわ、急ぐから。彼には後日ちゃんとお礼の手紙を差し上げるつもりよ」
 なおも引き止める気配を感じてコーディリアは薄暗く笑った。
「このまま帰ってもいいけれど、素敵な衣装を汚すのはさすがの私も忍びないの」
 わかってくれるわよね? と言外に滲ませたコーディリアと目を眇めたカリトーの視線がばちっと火花を散らした、そのときアエルが戻ってきた。素肌を見られても構わないと今度こそコーディリアが本気で服に手をかけたので、カリトーは一礼して退散していった。
 着替え始めるとどこまでも実用的な衣服に銀の髪と青い瞳は不似合いだった。だが染めている時間はない、と考え、ふと思いつく。
(魔法なら髪と目の色を違って見えるようにすることができるわよね?)
 目を閉じてかつての自分を思い描きながら魔力を形作っていくとあっさり成功した。粗末な毛織りの衣服に防寒用の肩掛けを着ると、そこにいたのはコーディリアではなく山奥に暮らす魔女の弟子、灰髪の娘アデルだ。以前は隠すことができなかった瞳も、魔力を持っているか判別しづらい微妙な暗い色合いに変えられている。
(きっとアルグフェオスもこうやって見た目を変えていたのね。青い髪を隠さなければ港街を自由に散策することなんてできそうにないもの)
 どんな色にしたのだろう、できれば見てみたかった。つい笑っていた自分に気付いたとき、その笑みは寂しいものに変わっていた。
 きっとそんな幸せな時間は二度と訪れない。
 帰宅する支度を終えて外に出たとき、沈黙してしまった祈りの木のことを思い出してしまった。美しく咲いたかと思うとあっという間に花を終えてしまった、非現実的で、しかし懐かしい夢のような光景をコーディリアは一生忘れないだろう。もしかしたら命を終えるときに思い出す光景の一つになったかもしれない。
「アエル、いままでありがとう。どうか元気でね」
 気付けば遠く思いを馳せてしまう心を引き戻し、泣きそうな顔で後ろを歩いていた少女に告げると、彼女は込み上げたかのように表情を歪ませた。
「コーディリア様、お願いですから思い止まってください。すぐカリトーがあるじ様を連れてまいりますから」
 それはできない。けれどそう言っていまにも崩壊しそうな彼女の涙腺にとどめを刺す気はなかった。コーディリアはただ微笑み、足に魔力をまとわせた。青い光がコーディリアの足を小さな翼に変える。
「ありがとう。――さようなら」
「コーディリア様……!」
 まるで見えない手がコーディリアを高く跳ね上げたかのようだった。たった一度の踏み込みで高く飛び上がった遥か下方に廃城がある。
 初めて見たときと変わらず灰色に覆われていたが、よく目を凝らせばうっすらと青みがかった幕に映し出された虚像だとわかった。これがルジェーラ城と呼ばれる頃には、きっと威容を取り戻し、緑深いロジエの誉れとなる美しい城として語られることになるだろう。そしてアルグフェオスの青い髪も瞳も、穏やかな気性とともに人々の尊敬を集めるのだ。
 過ごした日々や交わした言葉、声、触れた手の思い出に絡め取られそうになりながらもコーディリアはロジエに向けて発った。



 

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