第6章 月に誘われて
 

 壁に備え付けられた棚にも花を飾ればいいだろう小机にも本と書類が置かれている。片付けられた執務机で誰かが調べ物をしていたようで、銀盆や書類箱には仕事が山と積まれてあった。
 だが人の姿がない。裸足なのに絨毯に触れていない不思議な感覚で外に出ようとすると、扉が向こうから開かれた。
 すらりとした長身に青い髪。緩やかに流している髪は大雑把に一つに結われていて肩から落ちている。手にした書類を繰っていた彼が入ってくると後ろで勝手に扉が閉まった。魔法という見えない手で扉を開閉したようだ。
(贅沢な使い方、というか……ものぐさ?)
 この人でもそういうところがあるのかと、くすりとしたときだった。
 その声が聞こえたようにぱっとアルグフェオスが振り返り、目が合った。しまった、と口を抑えたが見えも聞こえもするわけがないと思い直す。だが美しい眉が優雅に顰められて思い違いを悟った。
「コーディリア。こんなところで何をしているんだい?」
(……気付かないわけないわよね……)
 神鳥の力を持つ一族、魔力の調停者である翼公に、コーディリアのことが察知できないわけがなかった。愚かな期待と自らの行動を反省してがっくりため息をつくと、今度はアルグフェオスがくすりとした。
「そろそろじっとしているのに飽きてきたかい? 体力が戻って寝てばかりだと寝付けなくて当然か」
 恥じ入ったコーディリアは裾を掴み、それが夜着であったことに気付いてさらに赤面した。心持ち身をよじるようにして正面を隠すが、アルグフェオスは気付いているのかいないのか、部屋を見回し、何事かの結論に至ったようだ。
「コーディリア、部屋に戻っていてくれるかい? いまからそちらに行くよ」
(まだ仕事があるんじゃない? 無理をしなくていいのよ)
「今日予定していた作業は終わっているから大丈夫。それに、たとえ予定が詰まっていたとして無理をしても会いたいと思うときは私にもあるんだよ」
 ぱちっと目を瞬かせたコーディリアが遅れて言われたことの意味を理解して赤くなったので、アルグフェオスは楽しそうに目を細め、ほら、と促した。
「すぐに行くから、早くお戻り」
 優しい声に手を引かれるようにして、コーディリアは自分の寝台の上で目を覚ました。
 静かに起き上がり、顔を押さえる。夢でもよかったのにしっかりと熱を持っていて、鏡を覗けば真っ赤になった自分が映るのがありありと想像できた。しばらく無言でじたばたしていたが、はっとそんな時間がないことを思い出す。
(来るって、行くって言っていたんだったわ!)
 羽織り物を引っ掛けて寝室を出ようとすると、扉を開けた途端にイオンの声が聞こえてきた。
「取り次ぎを……ですか? お嬢様はすでにお休みなのですが……」
「恐らく起きているから私のことを知らせてほしい。寝ているならそのままで構わない」
「起きているわ」
 そっと出て行くとイオンが「まあ」と目を見張り、微笑むアルグフェオスへ丁重に頭を下げて後ろに控えた。その目がいささか夢見るようにうっとりしているのが気になるが、コーディリアも似たようなもので、頬の熱を冷まそうと落ち着きなく触れている。
 称号で呼ばれるときとは違い、アルグフェオスは髪型も含めて多少くつろいだ格好をしている。脱いだ上着を肩にかけ、左右に合わせる襟元を緩めて広げているだけでいつもの穏やかな雰囲気がどことなく艶っぽい。
「改めて今晩は、コーディリア。無作法は承知の上だけれど、私と二人で夜の散歩はいかが?」
 きっと他の誰かに言われても時間を理由に断っていただろう。けれど彼にだけは差し出された手を拒みたくないと思ってしまう。そんな自分を不思議に思いながら、コーディリアは頷いた。
 イオンは着替えさせてくれようとしたが、そんなに長くならないからとコーディリアが断った。代わりにしっかりと外套で全身を隠す。起きたばかりで乱れていた髪だけはしっかりと梳かしつけたが、何故かイオンが笑っていた。
「どうしてそんなに笑うの?」
「だって、いつものリア様ならちゃんとお支度をなさるのに今日は色々とおざなりになさっているんですもの。少しでも早く翼公様とお出かけされたいんだなあと思うと、微笑ましくって」
 コーディリアは目を見開き、赤くなった顔を逸らして手早く髪を梳いた。
 含み笑いをするイオンに見送られ、アルグフェオスに先導されて庭に出る。
 翼公と関係者が滞在している城は、現在人の行き来があまり多くない。深夜帯になると出歩く者もおらず、要所に立つ警備兵だけが静かに仕事を果たしているが、アルグフェオスはそれらの目すら避けるようにコーディリアを奥庭へ誘う。慣例から入り口に警備がいるだけで、庭に入れば小さな箱庭のような静かな別世界が広がっていた。
「寒くはない?」
「大丈夫。夜でもずいぶん暖かくなってきたわね。いつの間にかすっかり夏の夜空だわ」
 梢の上に淡い月が昇り、星々が空を彩っている。ロジエの星の方がより美しいけれど、王都の星空は懐かしくて慕わしい。無邪気な気持ちで夜更けまで起きていた子どもの頃を思い出す。
「夜の湖に降りた白鳥のようだね」
 不意にアルグフェオスが言うのでコーディリアははにかんだ。
「それは褒めてくれているのよね?」
「うん。この国にはないのかな……呪いをかけられて白鳥に変えられた姫君の伝承だ。日の落ちた夜にだけ元の姿に戻ることができるので、羽を休めるために湖に降りてきた彼女を偶然通りかかった若者が見染めるんだよ。地域によって若者の素性は変わって、その国の王族だったり最後に神鳥の一族の者だとわかったりするし、姫君が実は一族の者だという展開もあるね。最後は呪いをかけた者との対決を経て姫君の呪いは解けて若者と結ばれるという内容だ」
 幻想的なお伽話だったのでコーディリアはふむふむと興味深く耳を傾ける。
「湖に舞い降りた白鳥があまりにも美しいので静かに眺めていると、その白鳥が儚いほど美しい人間の女性に変わって、心を奪われずにはいられなかったんだろうね。もし物語の姫君が現れるのだとするならきっと君のようなんだろうと思うよ。夢のように綺麗で、触れれば消えてしまいそうなのに、手を伸ばさずにはいられない……」
 ひやりとした手が、コーディリアの頬の熱を自覚させる。軽く首を竦めたのを宥めるみたいに優しく触れられて、落ち着くどころか鼓動が速くなっていくのでいますぐ逃げ出したくなってしまう。
「消えないね。よかったよ」
 抑え付けた動揺を見透かされてくすりと笑われる。軽く言い返そうと思ったらこめかみにちゅっと口付けられて何も言えなくなってしまった。思考停止しているうちに手を引かれて、少し奥へ誘われる。
 黙って付いていくがコーディリアは激しく混乱していた。
(こ、こ、こんな人だった……? なんというか、……すごい……)
 人が変わったようにというか、情熱的で甘いとはこういうことを言うのか。そろりと後ろから様子を伺ってみると、目が合ったのでびっくりした。
「どうかした?」
「う、あ、あの……そ、そう! 聞きたいことがあったの! マリスの偽証行為のことや、あなたがいつから私を知っていたのか。詳しい話を聞けないままだったでしょう?」
 苦し紛れだったし部屋に戻って聞いた方がよかったかもしれないが、ずっと気になっていたことではあったのでいい機会だと思った。アルグフェオスも思うところがあったらしく、落ち着いて話す場所を探して東屋に足を向けた。
 隣り合って腰を下ろすが外の小道が気になってついそちらを見つめてしまった。不思議そうに呼ばれて、何でもないと首を振る。
 いつかそこで茶器が砕け散った。マリスの逢引を邪魔し、不興を買ったコーディリアに投げつられたもの。
 当然清掃されただろうからその破片が残っているわけがない。そんなことあったなんてきっとみんなおぼろげだろうけれど、あのときと同じ東屋でマリスとは違う男性と婚約破棄した自分が座っているのが滑稽に思える。
 けれどコーディリアを取り巻くすべては、そのときよりも少しばかり遡った時点で始まっていたらしかった。



 

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