夕暮れの道を行くと、庭先がぼうっと光っているのが目に入る。
(こんな時刻なのに、白い花が咲いているのか)
慎ましくささやかで淡い輝きがあちこちにある。先導するルルの持つ洋燈の火が不自然に感じられるほど、優しい光。何の花だろう。庭に植えられる観賞用の美しい花々の名前をエタニカはほとんど知らない。シンフォードに聞けば分かるだろうか。
館の警護兵に訪れを告げ、目的の部屋まで来ると、ルルはにっこり笑ってから戻っていった。
入室を窺うと返事があった。
ほっとしてしまった。扉を開けても、彼がきちんと衣服を身に着けていたからだ。あの日のことが何故かまだわだかまっているらしい。鼓動が怯えるように早く打ってしまっていた。
「参りました。何かありましたか」
「ピアノの練習に苦心していると聞いた」
苦笑した。よほどひどいと聞いたのだろう。
「幼い頃多少やったのですが、やはり素養がないらしく、大変です」
「これからいくらでも取り返せばいい。今日はその用だ」
ピアノの件とシンフォードの用事が結びつかず、きょとんとしたのを笑われる。シンフォードはエタニカの手を取り、別の部屋に入った。すでに灯りが入れられており、煌々と照らされる黒木の巨大なそれに、エタニカは目を丸くする。
「私物のピアノだ。最近あまり触っていないが、手入れはしてある」
取り出した鍵で鍵盤蓋を開ける。屋根を上げて突上げ棒で支えると、譜面台を立てて、鍵盤に指を置いた。とーん、と凛と澄んだ音が響く。シンフォードらしい音だ、と素地がないエタニカでもすぐに分かる。伸びやかで、滑らかで、筋の通った一音。
「座りなさい」
言われるがままピアノの前に座る。まさか、披露させられるのだろうか。布を裁とうとして指を切った、というような見当違いな音楽を。耳の奥でくすくす笑いがよみがえる。さあっと血の気が引き、顔だけが熱くなる。
きっと、軽蔑される。何もかもこの人に及ばないのに、こんなこともできないと、呆れられて、笑われる。
見下ろす気配がする。何気なく零されたため息さえ、エタニカには恐るべきものだった。
「左手を、そこに」
言われる通りにするしかない。つっと、視線が向けられ、あえかな呟きが聞こえた。
「指が細い」
「っ……!」
獣の脚のようになった手の、薬指をなぞられる。
荒く使う両手は、皮が厚くなり、節が目立ってでこぼこしている。それが指を痩せて見えさせるのだ。
薬指は、それそのものだけを使用し何かを行うことに向かない。感覚も、人差し指や中指と比べてわずかにずれている。自身でもそう感じる場所を撫で上げられ、奇妙なくすぐったさにぞくっとした。
同じくして、ルルの言葉を思い出した。――抱きしめられてしまうだなんて、そんな。
「な、何を始めるのでしょう……?」
「練習だ。左手を、小指、親指、中指、親指で動かしてほしい。繰り返し」
運指練習だ。練習を見てもらえるのだろうか、そう思うだけで緊張した。
子どもがよたりよたりと歩く速度から始まった音が、染み出る水になり、細く頼りない流れになっていく。夜の空気の温度で、ゆっくりと続いていく。
きしりと椅子が軋み、彼が腰を下ろす。身体がぐっと寄せられて驚いたが「止めない」と強く言われて集中する。
単調なエタニカの音に、旋律が加わった。
たたたら、たららん、とシンフォードの右手が主旋律を慣らす。その艶やかで滑らかな音の並びにエタニカは目を丸くする。練習不足なんて嘘だ。シンフォードは、ピアノの前でも迷いない。奏でるべき音、繋ぐべき旋律を確実に結んでいく。
本来なら一人で奏でる曲を二人で負担している、自身の不足に縮こまる思いだったが、シンフォードは突然、エタニカの背中に左腕を回した。仰天するエタニカを腕で囲うと、左手が別の伴奏を奏で始める。邪魔をしていると思い、下ろしかけた手は「続けて」という言葉で再び戻される。
けれどエタニカの音色は、叩き付けた後に震えるようなとんでもない音になりつつある。片腕を回されたこの状態が「抱きしめられる」ではないかと思うと、頬が熱くなった。
(シンフォード様も、細身に見えて抱き心地が……って! 集中!)
「三度上がって」「三度下がって」「中指を薬指に変えて」とシンフォードの指示のままに動かしていると、必死になっていたいつの間にか、めいっぱいの音が溢れていることに気付いた。
今やエタニカの拙い音は、合流し、葉や花や魚や鳥といったものが集まり、どこかから光が射すという具合に華やかに彩られて、騒がしくも音曲として溢れ返っていた。ただ中に座っているエタニカは、それが何の曲か知らないながらも、めまぐるしく動く楽音の世界と、それを生み出し続けるシンフォードの手を見ている。
綺麗だ。音も、目に映るものも。
自分が流れを生み出すその一部担っているなんて信じられない。
溢れる大河はやがて遠い彼方へ吸い込まれて、静かに息をひそめていく。輝きはそのままに、エタニカの音だけを芯にして、音の水面に花弁が舞う。
シンフォードの手が最後の一音を奏でた。エタニカも、ゆっくりと動きを止めた。
そうして、まだ続くであろう余韻を残して、曲が終わった。
エタニカはシンフォードの顔を見つめ、二人同時に噴き出した。
以前にもこんなことがあったと思い出す。笑いが止まらなかった。おかしくておかしくて、楽しくて、嬉しかった。全身で安心して、胸の奥が暖かくなっている。エタニカは自身の手を見つめた。
妹の手では決して生み出されないものが、この手の中にある。
「今夜は、ずいぶん瀟洒な格好をしている」
つくづくと見たシンフォードが言って、透き通った翅を思わせるドレスを撫でる。更に煙る霧のような半透明の覆いを上にやると、照れた顔をするエタニカと目を合わせる。
「綺麗だ」
どきんとした。
今、とても邪なことを考えた――抱きしめてほしい、だなんて。
「あ、……ありがとうございます。その、身代わりも、よいものですね。今まで疎かにしていた分を少し取り戻せた気がします。当初なら、こんな衣装も似合わなかったと思いますから」
肩をそびやかし、胸を張って、足をわずかに広げて立つ姿勢をした自分を想像する。この衣装は腿くらいまで沿った形になっているから、きっと見苦しかっただろう。
「ドレスは嫌いか?」
「綺麗ですし女性は目の保養だと思うのですが、自分がそうなっているとは思えないので。私も、自分が着飾るより、見ている方が楽しいです」
シンフォードは柔らかく微笑した。
「とてもよく似合っている。今度またドレスを贈ろう」
「殿下に選んでいただいたなら間違いはないですね」
どうしてか熱くなる頬で笑った。社交辞令でも、シンフォードに言われると嬉しかった。そのドレスを着ていく日は、きっとないけれど。
「これを」とシンフォードはその手に何かを落とした。
くすんだ金属製の鍵だった。古びた錠前を開けるためのような物々しい、無愛想な細工だ。
「これを使えばどこにでも出入りできる。この音楽室を使うといい。誰に煩わされることもないだろう」
やっぱりエタニカの腕前が耳に入っていたのだ。肩を竦めた。小さくなることは、もうなかった。
「ありがたく、お借りします。しばらくはドール男爵令嬢が教えてくださるそうなので、時々」
「ユディナ・ドール嬢か。祖父殿が高名な音楽家で、彼女自身も様々な楽器を習得していると聞く。彼女なら、この館に入れても構わない。二人で練習するといい」
エタニカはぱっと顔を輝かせた。
「本当ですか? ありがとうございます!」
いそいそと鍵のついた鎖を首にかける。首飾りというには素っ気ないが、確かな重みが、心を預けてくれていると示しているようで、笑みがこぼれた。古びて輝きを秘めた鍵はどんな飾りよりも嬉しいものだった。
すると、何故かシンフォードがあさってを向いている。震えて見えるが、何かあったのだろうか。
「どうしたのですか?」
「……鍵ごときで目を輝かす貴方が、とても貴方らしかったので」
ここ数日で、エタニカは奇妙なほどシンフォードの感情の変化が手に取れるようになっていた。言葉少なで端的だった彼は、ただ冷静で自制がきくだけで、本当は普通の人と変わりなく感情が豊かだ。話していると、案外笑っている回数が多い。最近は特にそうだと感じるのは気のせいだろうか。
(嬉しい)
心を許してくれている。自分も心を穏やかにできる。生まれ育ちと仕事のために、性別を問わず相手に敬意を払い立場を尊重し、ただ血がわずかに青いというだけでエタニカは役職を与えられてきた。なのに膝を折ることも厭わず、かつ上に立ってきた自分にとって、敬意を払われることを当然とせず、むしろ対等に物を言いながら気遣いを見せてくれる存在は希有で、苦しくなる。
この人は、王になる。――妹の夫になる。
だからエタニカは、己の奥にある最後の扉をそっと閉ざす。開かないように鍵をかけて。
ゆえに、間際まで気付かなかった。エタニカは浮かれていた。美しい音楽と、何かが出来る己と、シンフォードの信頼に心を躍らせて、平静を忘れてしまっていた。だが、そもそもシンフォードはエタニカに慎重を期すようにとあれほどまで強く告げていた。それがユディナとの交流を深めることを奨励した。
だから、気付くべきだったのだ。
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