物語ノ終

物語ノ終

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 母上、と泣く声がする。
 それはいつかの冬始め。子守も近習も追い払い、まとわりつく我が子を置き去りに、時子は一人、道を外れ、枯れ立つ草原に分け入った。
 長患いとなった身、本来なら遠駆けに耐えうるものではないが、比良氏当主の気まぐれに末席の側室の時子が否やを言えるはずも、その気力もない。言われるがままに近くの比良一族に縁ある寺までやってきた。その寺近くの草原である。
 あの日見た光を探していた。仄暗い水底に沈められつつある時子に最も必要なものだった。けれどあのときとは違い、何をするにも身体に痛みを覚え、歩くだけで息が切れた。
(影朝様――影朝様)
 こうしていると、三人で出掛けた日のことが夢幻のように思える。いまこのときを、かつて影朝と朝光とともに在ったものと思い込んでいるのではなかろうかと。しかし払った草で切った指の鋭い痛みはまことであった。指の腹の浅い傷跡から、小さな小さな、珠のような紅い雫がつぷりつぷりと現れた。たったいまもいできた、南天の紅い実のようだった。
 まだ、生きている。何故、生きている。
 それを固く握り締めて一歩踏み出さんとした時子を、裾を掴んだ者が引き留めた。ぐちゃぐちゃの泣き顔に草の汁と傷を付けた幼子が、しゃくり上げながら時子を見上げていた。黒々としたまなこが、時子の背負う空を見た。
「母上。綺麗」
 振り返った曇天には、梯子のような光が降り射していた。雲の行く音と聞きまごう風渡り、いずこよりか花を運ぶ。触れれば溶ける、白の花。差し出した手に刹那留まり、溶けて、こびりついた血玉と混ざり合った。
 いつか見た南天にも白雪にも似つかぬ。だというのに何故この胸は痛むのか。
 誇りを、と声がする。誇りを持て、と言う。
 時子、誇りを持て。
 風花が時子の頬に触れ、小さな雫となって滑り落ちる。
 傍らで稚児の呼ぶ声がする。天を指し、綺麗、綺麗、と繰り返す。そうすれば時子が応えてくれるものと思っている。望むものが与えられると信じて疑わぬ。霜枯れた草の原に、子の泣く甘えた声が響く。いつまでも。
 いつまでも。



 幻氏と比良氏の最後の戦は、天下を二分する大戦となった。すべてを根こそぎ薙ぐ大嵐の如く、あるいは大波の如く。数多のつわものが露と消えた。比良氏に随行した女たちも身を投げたのは悲劇と言わざるを得ない。比良氏のまなこのような暗い水に飲まれたのだろう。何もかもを倦んでいたのに孤独でいられなかった、一人で逝くこともできなかった弱く憐れな男であった。
 驕れる者も久しからず。幻氏、比良氏、後の朝廷ですら平等に。

 時子は都を出た。残っていた雑人たちに幾ばくかの金子や衣などを与えてから、東へ向かった。比良氏が西の海で逝ったのなら、東の山に行こうと思ったのだ。側仕えだった老女が一人、供をした。我が子のために敵の頭領の側室となり子を産み身体を壊した時子を、ずっと哀れに思っていた女だった。
 東へ、時子は側仕えの女を励まし励まし、歩みを進めた。歩むほどに時が遡るようだった。一歩進めば一日、十歩行って一月、さらに歩んで一年。三十四の時子。二十一、二十の時子。十五の時子。十二、九つ。
 そうして六つの時子にたどり着く頃、雪を冠る山々が立ち現れた。
 時子は老女を呼ばわり、金子の入った小袋を渡して告げた。
「ここからは私一人で行きます。いままでよく尽くしてくれました」
「なりませぬ。奥方様、お止めください。長患いの身でお一人になるなど。どちらへ行かれるつもりですか」
 時子は首を振った。目眩がする。弱った身体は、もう多くの血を作れぬのだという。冷気が堪え、衰えた手足はいまにも砕けそうなほどに痛む。喉の渇きが止まない。全身が悲鳴を上げていた。しかしそれにもまして胸の叫びが大きかった。
「行かねば」
「奥方様」
 時子は、行かねばならぬ、と繰り返し、最後まで随伴した忠実な老女に背を向けて、ゆっくりと歩き出した。その後から、風もないのに、ひょうひょうと甲高い音が天を覆う梢を掠めていった。

 枯れゆく木立の間を進み、段々畑を行き、石を踏んで、山を目指した。通り過ぎる人里を残雪が彩り始める。馥郁とした泥が時子の足元を汚す。足元が黒く染みるごとに、人の気配は遠ざかった。わずかな獣の気配だけが寒々しさを慰めるように漂っている。
 そば道からは里が見下ろせた。小さな山里。向こうの森。その森はまた山に繋がっている。時子の来た道、そして若武者たちが駆けた途だ。彼らは草を踏み、太刀を握り、行ったのだ。そして帰ってきた者も、帰らなかった者もいる。時子はいま、ようやく戻った。小さな足を擦り切れさせ、まめを潰しながら。衰えた身体に鞭を打って。
 彼方へ。高みへ。叶うならあの真白の雪の近く。
(影朝様)
 気付けば、その名を呼んでいた。
(都はまことに遠い。帰ってくるのも一苦労です。こんな思いをするのなら早々に馬を教えていただくのだった)
 道なき道に沿うのは季節外れの彼岸花。渡り損なったのか、夏鳥のちりちり、じりじりという鳴き声がする。その向こうから響くざんばら雨に似た音はなんだろう、何故か蝉時雨のように聞こえる。
(朝光は大きゅうなりました。もう立派な幻氏の頭領です。あの目をご覧になりましたか。時子は影朝様に初めてお目にかかったときのことを思い出しました)
 くすくす、と女童のように笑う。
(ああ、遠い。時子は疲れました。本当に本当に疲れました。都は遠い。屋敷は寒い。寝間は殺風景で、寝床は湿っていて。何もかも絢爛なくせに侘しくて)
 思いを馳せたのは、あの日。影朝の死を知ったあの瞬間。あのとき死を選べばよかったのだろうか。比良氏に殉じた女たちのように、影朝を追っていくことができたなら。
 しかし現実は、影朝の妻として仮の当主を名乗り、比良氏に朝光と一族の助命を乞うた。その対価として比良氏の子を産んだ。無事に成長した朝光と目見え、送り出した。そうしていま時子は一人、望んだ道を行く。よろよろよたよたと足を引きずりながら。
 生きていた。何故か生きてきた。
 誇りを捨てられなかった、ただそれだけの、いまであった。
 果たしてそれは真の誇りであったのか。朝光を救うべく幻氏から比良氏に鞍替えしたこと。誇りを持てと告げながら敵の子を産んで命を繋いだ。それは本当に誇れることか。影朝の妻であると、しがみついただけではなかったか。問いかけるも答えはない。
 ああ痛い。痛い。身体が痛い。いや冷たい。凍えるようだ。膝が崩れる。病み衰えた腕で己を支えられずに倒れ込む。底なしの闇に磨耗した心身が引きずり込まれていく。比良一族の女たちが沈んだ水底を思う。この闇の向こうに影朝はいないだろう。
 思い出されるのは、褥の上の腕ではなく、幼い時子を軽々と抱き上げたあの手、あの腕。それから不自由と束縛の居心地悪さと、溢れんばかりの歓喜を覚えたあの刹那。影朝の手には力があった。時代を切り開き、作り出し、時子の運命を変えた。
(影朝様。影朝様に会いたい。何処においでですか。時子が参りました。ようやっとここまで来たのです。会ってくださってもよいではありませぬか。それとも……)
 ぽたり。涙が流れた。影朝を喪って初めて流す涙だった。
(もう、待ちくたびれて、しまわれた……?)
 そのとき、ちかり、と瞬くもの。
 火花の瞬きを思わせる光が、時子のまなこをこじ開けた。冷たい泥に預けていた身を起こし、ゆうらりと仰いだ天は薄曇り。そこにひらり舞う雪結晶。天より降り来る清らの花。
 誇りを持て。誇りを持つことこそ、生きることと心得よ。
 時子。
(影朝様)
 それは、ずっと、ずうっと、聞きとうて聞きとうて止まなんだ、かの人の声であった。
 冷たくも温かな風花が、時子の指に、手に、髪に、瞳に降る。伸ばした手は天へ。光の方へ。そうすれば届くやもしれぬ。あの声に。かの人に、時子のたった一人の恋しい男の御座す場所へ。
(影朝様の側にいるためなら、時子は、どこまでもどこまでも、この世の果てまで行けますれば)
 再び影朝に目見えるとき、時子は堂々と胸を張り、勇ましいほどに自惚れてみせるだろう。
 時子は、生きました。誇りを持って、あなた様のいない世を十分すぎるほどに生きたのです、と。



 旧和が終わり、平定が終わる。
 その後も、乱世である。
 幻氏影朝の妻、時子の生没年は、他の女たちに等しく、いまなお正しく記されてはいない。そういう時代であった。


了   



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