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 アイサイトから用意してくれた何着かから晩餐用のドレスを選び、髪を結い上げ、首飾りと耳飾りをつけた。手袋をはめ、鏡に映る自分に手を伸ばすと、相手は顔を歪めて笑っていた。
 滑稽すぎたからだ。例え着飾っても、青い髪の女は、剣を持つ習慣があるために下がった肩や、和らぐことのない目つきをしていた。
 城の一室を使い、質素ながらも豪勢な晩餐が始まった。室内の明かりはもったいないほどまばゆく、目を射られるような気がする。型通りの挨拶をし、席に着いた。
 このためだけに貴重な家畜を屠ったのだろう。肉は柔らかく味付けは濃い。だが、腹立ちのせいで味がしなかった。国境でこんな席を設ける公爵も、空気を読まず王子を追いかけてくる妃も、笑って何も言わない王子も、何もかもうんざりだ。
(助けるんじゃなかった)
 誰のためにこんな格好をしたと思っている? 誰のために捨てた過去の自分を装っている? アウエン・グレイとの間には何の盟約もない。何の誓いも交わしていない。それでも、レシュノルティアは彼を助けたいと思った。理由は、分からない。ただ、胸が柔く脈打っている。どんな冷たい風の中でも、内側から守ってくれる灯火のようなものが、身体の奥に感じられる。
 なのに、お前には何も望めない、と言われたとき、その暖かさが吹き消されたように冷えて凍った。
 助けるのではなかった。こんなに、無力感に拳を震わせるくらいなら。
「こんなものしか用意できなかったようですが、ここでは最高級の食事です。お口に合うとよろしいのですが、やはり食材が足りませんね。王都に戻ったら、挽回の機会をいただきたいものです」
 レシュノルティアは苦みを隠した微笑を浮かべた。――馬鹿を言うな。この料理に手間をかけるより、兵士たちの食事を賄う方がずっと大事だ。
「さあ、葡萄酒を。酒だけは一級品を手に入れることができまして。妃殿下のお気に召すとよいのですが」
 酒を飲ませて口を滑りやすくさせようという魂胆か。そんなことをしなくとも、問われるままににこやかに嘘を吐き出し、魔術師の詳細な容貌を語ってやるというのに。
 公爵は追っ手をかけるだろう。レシュノルティアが人相を詳細に話して、公爵が魔術師を追ってくれるなら効率のいい。正確には嘘は言っていないはずだ。ジェシカの遺体を奪ったのは、あの男なのだろうから。
 レシュノルティアは杯を受けた。血のごとく赤い酒だった。卓の上の燭台から落ちる光を受け、妖しい色に輝いている。輝いているのはこの酒が含んでいる時間だろうか、年代物なのは間違いなさそうだ。
 しかし、このくらいでは酔えない。少し酔ったふりでもしてみようか。王女になったり傭兵になったり花嫁になったりしたのだ、そんな嘘は、鳥よりも達者に歌うことができる。
 金を施された杯に口をつけ、静かに飲み下す。嚥下される酒精が、喉をじんわりと暖めていく。思ったより、かなり甘い。
「…………?」
 その甘みが奇妙なくらい舌を刺す。口の中が痺れるくらいに。
「っ!」
 声を出そうとした瞬間、頭の中がぐわんと鳴り、たわんだ。視界がぐんにゃりと力をなくし、霞んでいく。取り落とした杯から溢れた葡萄酒が胸元を濡らした。椅子に座っていられず床に倒れ込み、胃に入れたものを吐き出そうと腹の力を込めるが、代わりに咳が出て、食事もろとも吐瀉した。
 汚れた手袋で床を掻く。
 ――毒を盛られた。
「ふ、ふふふ……」
 公爵が笑う。立ち上がり、這いつくばるレシュノルティアを見下ろす。
「『かわいそうに……』」
 彼にかぶさるようにして何者かが影を重ねている。公爵の意識はそこにはない。
 その瞳の、青い光。
 レシュノルティアは目を見開き、叫んだ。
「ルガン――」
 毒が内側から身を焼く。叫んだ途端に胃が壊れた。血が噴水のようになって止まらない。声が出なくなる。感覚が遠くなる。
「『痛い? 苦しい? 死ぬのってどんな気持ちなの? どれだけ苦しい思いをして私を追いかけてきたの。その思いの強さを語ってよ。ねえ』」
 揺れる。消える。何もかもがこぼれ落ちていく。伸ばした手は、実際は床をか細く辿っただけ。隠し持っていた剣にも届かない。目を見開き、相手の薄笑いを焼き付ける。
「……待っていろ、」
 沸騰する怒りのまま、レシュノルティアは笑っていた。
 ――もうすぐ、殺してやるから。
 そうして、心臓の最後の音を聞きながら死の闇に沈む。



「レシュ!!」
 グレイが扉を蹴破った先には、凄惨な光景が広がっていた。
 胃液と吐瀉物、そして血のにおいが混ざり合い空気は混沌としている。倒れ伏したレシュノルティアを見た瞬間、グレイは剣に手をかけていた。
「『あは……あははは!!』」
 迫る剣を目前にゆらりと立ち上がった公爵は、口が裂けんばかりに引きつった笑い声をあげた。怒鳴り声や叫び声に近い笑声が響き渡り、グレイの目には、何かおかしな影のようなものがゆらゆら揺れているのが見えた。
「『待ってるよ、姫』」
 何者かの声がそう言うと、その幻影は炎が尽きるように解けていった。
 公爵がぽかんとした表情で空中を見つめたまま、膝から崩れた。グレイを見上げる目は焦点が合っておらず、何も考えていない腑抜けの顔になっていた。
(狂ったか……)
 剣から手を離し、レシュノルティアの側に膝をつく。
 公爵が不振な行動をしていることを善心で報告に来たアイサイトを連れて部屋に来たが、部屋の周りは人払いされ、静かなものだった。公爵が王子妃を暗殺するにしては犯人は自分だと名乗るようなお粗末な状況で、レシュノルティアがむざむざ死ぬはずはない。
 そう思ったのに。
 レシュノルティアを起こしていたアイサイトが、グレイを見て顔を歪め、首を振った。
「脈が、ありません。呼吸もない。瞳孔が開いています。心臓も聞こえない……死んで、います」
 信じられないと声を震わせ、目を伏せる。グレイも、のろのろと目を向けた。
 青ざめた血の気のない頬。瞳は強く見開かれているが、いつもきらめている晴れ晴れとした命の輝きはない。青髪も、身体も汚れ、伝説の女剣士が剣を持たない。彼女の武勇を、伝説を知る人間には信じられないことだったろう。グレイですら信じたくない。
 明らかなことはひとつだけ。
 彼女を殺したのは、自分だ。

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