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 肉が断たれた。腱を断ち、剣が沈む感触に、レシュノルティアはおののいた。
「グレイ」
 アウエン・グレイが、殺意の固まりをその身で受け止めていた。
 初めてレシュノルティアを抱きしめるというのに、グレイは不格好に血を吐いた。深く剣を沈めてしまったからだ。それでも、その汚れた手で、レシュノルティアの頭を抱え、言った。
「……お前は、自分は魔物だと言った。人に人は殺せない、魂は殺せないと言いながら、だがお前は今まで誰の魂も汚しはしなかったはずだ。――最後の一線を、踏み越えるな」
 グレイはわずかに振り向いた視線で魔術師を捉え、告げる。
「……あなたに、渡しはしない」
 抱く腕に力がこもる。
 やめろ、剣が食い込んでしまう。柄まで滴り、手のひらを濡らす血に、思考が痺れていく。炎と同じ熱さの血で、グレイの声しか、聞こえない。
「あなたが手を伸ばすよりも先に、俺が手を伸ばした。例えその手に彼女が剣を向けたとしても、レシュノルティアが、この憎しみで身を滅ぼしてしまう前に、俺は何度だってこの手を取ろう。――あなたと同じ闇に堕とさせるものか」
「離せ!」
 レシュノルティアはもがいた。
「ここで退いては何も終わらない! 私の生きてきた五百年は、あの男のためにだけあった。今それを手放して」
 叫んだ。
「私に、どうやって生きていけという」
 グレイは息を吐いた。彼の腹部から血が吹きこぼれるのが、衣服に滲む感触で伝わる。
「許してくれ」
 痛みが、流れてくる。レシュノルティアをとどめる腕が震え、声が泣いているからだ。
「かつてあの人は、お前の家族を殺し、すべてを奪ったかもしれない。でも、今は俺の母親だ。エルディアを支えてきた女王だ。どうか、母を許してくれ」
「嫌だ!」
「レシュ」
「嫌だ、嫌だ、嫌だ! あれは仇だ、あれを殺さねば何も終わらない!」
 しかし剣が動かない。そのまま斬ることも、抜くこともできない。
 魔術師は驚愕の表情のまま、動けないというのに。
「聞け!」
 肺が壊れている音がする。伝わる鼓動が不規則だ。苦しいだろう、痛いだろう。奈落へ引きずり込まれていく感触を誰よりも知っているのに、自身の剣がその死を与えるかと思うと、身体が、心が、引き裂かれる。
 聞け、とグレイはもう一度強く言い聞かせる。
「お前が世界のすべてを失い、己を魔物と呼び、絶望と憎しみを抱いてここまで生きてきたとしても……あの人がいなければ、俺はお前に出会えなかった。俺は生まれず、お前はここにいなかった」
 グレイは髪に顔を埋め、レシュノルティアをきつく抱いた。

「あの人がいなければ、俺は、お前に巡り会えなかった」

 レシュノルティアは目を見開いた。
 グレイの肩越しに、呆然と立ち尽くす魔術師の顔を見る。
 灰色の瞳。息子と同じ色の、レシュノルティアが何よりも美しいと感じた宝珠を授けた、女王の瞳。今は青く光っていても、その薄灰は、グレイと同じ。
 すべてはひとときの夢のように儚く消えるだろう。
 だが確かに続く、世界と人による時間の積み重ねがある。魔術師もレシュノルティアも、人の理から外れて生きてきた。それでも自分たちは、その人の営みに関わっていた。
 それは、歴史。
 死も、絶望も、希望も祈りもすべてその言葉にある。
「……止めろ。きれいごとを、言うなよ」
 仮面の下の闇が、壊れていく。
 魔術師は絶叫する。
「お前と出会うためじゃない!! 私が……私が最初に姫を見つけたんだ!!」
 炎が巻き起こる。彼の感情に従って燃え盛り、天井を舐める。玉座が灰と化す。女王の足下は、素足で立つことが困難なほどの火の海だ。女王の黒衣がわななきにきらめく。
「私を理解するのは君だけ。君を理解するのは私だけだ。そのために五百年待ったんだよ。長く生きることの孤独を、世界の醜さと絶望を知ってもらうために」
 震える指を突きつける。
「でも君はその男を選ぶ。何故? どうして君が救済者に巡り会えるの? 私は今まで巡り会えなかったのに、どうして五百年ぽっち生きた君が救われるの? どうしてその男なの? 私が戯れで産んだ、そのアウエン・グレイなの!?」
「やめろ!! グレイを、侮辱するな……!」
 母親として魔術師は言ってはならないことを口にした。力つきたグレイの身体を横たえ、再び剣を握る。再び感情でたぎる瞳に、魔術師は笑いかける。
「そう、それでいい。永遠に私を追ってきて。私を追い続けて、そして出会って。何度だって遊ぼう? 一緒にいようよ。それだけで私は、千年の時を生きていけるんだ……」
 ひとりではないという喜びを、魔術師は黒々とした呪いの言葉にする。哀れなほどこの男は何も変わっていないのだ。レシュノルティアが五百年憎み続けたように。
「……私は、その孤独を知っている」
「そう。生きることは辛い。見送ることは」
「同じ命は二度とは産まれない。同じ存在に巡り会うことは絶対にない」
「だから私は君を選んだ。いつか君は訊いたね? 『死んでしまった人の魂は、どうなるの?』と。星神の信者たちは、死者は星となって輝き続けると信じている。寄進や、祈りや、信仰の度合いで、自分が永遠に輝く星になれると思い込んでいる。でも君は疑問を投げた。君は、神を信じていなかった」
 そして私も、と魔術師は告白した。
 ――どうしてお母様は帰ってこないの? 幼い自分がそう問う声がする。私を産んで死んだお母様。お母様の星? 星になんてならなくていい。星神なんていらない。お母様を返して……!
 闇へ至る炎の中で向かい合う自分たちは、死の果てに人は他の何にもなれず、魂は消え行くだけだと思っていた。
 きえないで。いつまでもそばにいて。
 けれど、星に憧れた。夜を照らす輝きに、いつか自分を迎えてくれる人々を重ね幸福な終わりを夢見た。空に溢れる無数の輝きを魂と考えることを、どうしても否定できなかった。――寂しかったからだと、今なら分かる。
「一緒に行こう? 一緒に生きよう。一人は辛い……でも、私たちならずっと一緒にいられる」
 ひとりにしないで。魔術師の言葉に叫びを聞く。すべてを焼き尽くす火炎の中で、その魂は叫び続けてきたのだ。
 寂しい、寂しい。一緒に行こう、いつまでも一緒にいよう。
 ひとりにしないで……。
「…………」
 レシュノルティアは剣を掲げる。
 魔術師が立ちすくむ。
 一度魔術師を狙った切っ先は、レシュノルティア自らの胸に向けられていたからだ。
「私は、お前と自分の魂が結びついているのを感じていた。……お前を殺すことでおそらく自分が消滅することも、自分を殺すことでお前が消滅することも気付いていた。だが、お前の身体を切り刻み、魂を貫き、苦しみを与えることこそ、私が果たすべき復讐だと思っていた」
 レシュノルティアの肺、胸の奥から、ふっと力が抜けた。自身をがんじがらめにしていた無数の鎖が、剣で断つように次々と切れていく。憎しみの重さも、時の積み重ねも解かれていき、残ったのは、安らかな覚悟。
 温かな寝台で得た、眠りと同じもの。一人ではないことの幸福を、レシュノルティアは知った。
「グレイが最後に、私に希望を教えてくれた。……人は、きっと星になれる。世界は終わらない。だから後悔はない。だから……もう終わろう」
「止めろ……」魔術師が首を振る。悲痛な声。まるで自身を切り刻まれるような、崩壊感を訴える表情で泣き叫ぶ。それをまじないの言葉で斬った。
「――世界に満ちる精霊よ、我が剣に宿れ」
 力よ満ちよ。誇りよ、剣になれ。レシュノルティアは柄を強く握りしめる。痛みに、決して剣を取り落とすことのないように。戦士の名折れにならないように。
「止めろ……止めて、姫!!」まろぶように魔術師が駆けてくる。
 レシュノルティアは己の剣でもって。
「止めて――!!!」
 自らの魂を、貫いた。

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