いつも通りとまではいかないが、日常はまた平穏に戻った。
 文化祭の大騒ぎは、広報の新聞で生徒会の演出ということにされた。本文の大幅な添削が会長によってなされたと槙野は嘆いていたが、予算を例年通りにすることで妥協したらしい。
 佑子は常磐との一件、噂やら文化祭の騒ぎやらのせいで校長と教頭に呼び出されたが、嵯峨と香芝は「あれは演劇です」という主張を押し通し、広報の新聞もそれを裏付けていたから追求しきれなかったらしく、疑惑の目を向けられつつも、佑子は職を失わずに済んだ。羽宮氏も、嵯峨、香芝の両氏も、文化祭以降、佑子には手を出してこなかった。多分、子どもたちが水際で止めてくれたのだろう。やはり、なかなか、侮れない。
 理事長職の後任については、熟考の末に決めることになったと、教諭たちが噂していた。まだ少し、時間がかかりそうだ。
「あのー、この本って入ってないですか?」
「はーい。タイトルと作者、分かるかな?」
 図書館は本来の姿を取り戻した。佑子への無視はなくなり、嫌がらせもぱったり止んだ。生徒たちは普段通り、調べ物をしたり新聞を読んだり勉強したり、本を借りたり返したり、時々隅でおしゃべりをしたりしている。
 常磐はときどき放課後の遅い時間に図書館に来て、新聞や本を読みながら佑子の仕事を終わるのを待って一緒に下校する。彼は最近よく香芝やバスケ部の木野下たちと一緒にいるらしい。香芝はあれ以降常磐を誘うようになったらしく、常磐は「面倒なんですけどね」と言いながらも、ピロティを通り過ぎていく三人は楽しそうだ。

 佑子と常磐の婚約は宙に浮いていた。佑子は筋を通すべく、一連の事件を祖母に報告し、判断を委ねた。婚約解消されるなら、それでも構わない。仕事を取り上げられても、それは仕方がない。常磐の側にいようと、そう決めていた。繋がりは、そう簡単には断たれない。断たせない。
 祖母は、静座する佑子の顔を見て。
「自分でお決め」
 とだけ言った。
 まったく関係していなかったのに、佑子の心情も何もかも知っているように泰然とお茶をすする祖母は、まさに山のようだった。本当に、強すぎて太刀打ちできないくらい、勝手だった。
 でも多分、羽宮氏が横暴な振る舞いをしないよう、目を光らせていたのも祖母だったはずだ。
「ばあさま」と佑子は呼んだ。
「ばあさまは、隠し場所、知ってたんだよね」
 祖父が持っていた『黎明暁星』。その前の持ち主は創立者の孫、つまり祖母であると加瀬理事長は語った。どういう経緯があったかは分からないが、たぶん、祖父が一緒に守っていこうとしたのだろう。ミキ様の力を借りて。
 そう考えると、やっぱりじいさまが一番得体が知れないなあ。にっこり……と余韻が残るような顔で笑っている人だったけれど。
「さてね。私は妙な夢を見ただけだよ」
 創立者の孫であるがゆえに黎明学院に通ったはずの祖母は、ミキ様が言う『黎明の子どもたち』の一人でもある。湯のみを静かに置いた祖母はしらを切る。額の髪の生え際を、指先でちょいちょいと掻きながら。
「夢?」
「お前がちょうどあの人形をじいさまに渡された時。夢に派手なセーラー服の女学生が出てきて、『引き出しに触らせないで、今はまだ』と言ったんだ。本人にも、触らないよう、ちょっと脅しておくからよろしく頼むってね」
 脳裏にひらめいたのは、あの夢だった。
 長い髪の、口が裂けるように笑った、あの少女。あの恐ろしさだけが記憶にこびりついていたが、もっと何か、別のことを言っていなかったか。
『引き出しにいいいいい……触るんじゃないよおおおおお……!』
 そんなようなことを。
 夢の中の暗闇でごめんなさいごめんなさいと泣き叫ぶ佑子に、彼女はにやっとしたのだ。でも、『にやっ』という言葉では形容しきれない、凶悪な顔で。
『約束――したからねえええええ!!』

 思い返して、やっぱり納得しきれず、佑子は図書館に置いたミキ様のガラスケースをふくれて見つめた。
 結局、あの日の不運は何が原因だったかが分からない。そういうものだろうとは思うけれど、羽宮氏の周辺に散々な呪いをかけたのだから、この人形は本当に底知れない。
「ずいぶんばあさまと私で態度が違うじゃない、ミキ様。……一緒にいるの、ばあさまの方がよかったんじゃない?」
 孫にも得体の知れない祖父と結婚した祖母が一番の大物だということで解答終了、といったところだろう。私にはその二人の血が……と嬉しいような先行きが不安になるような気持ちになったところで。
 ――悪かったわ。
 困ったような調子で囁かれた気がして耳を押さえる。一瞬、少女が肩をすくめたのが見えたのは気のせいだったのか。良心の呵責を覚えて「……ごめん」と呟いた時、ガラスの向こうの廊下には常磐がいた。扉が開く。
「佑子さん」
「常磐君。あれ、今日は一人?」
「香芝は委員会。木野下は部活です」
 その顔を見ながら、本当に穏やかに笑うようになったなあと思う。硬くて尖っていたものがそぎ落とされて、丸く、優しく。見ていて温かくなる表情をするようになった。
「にやにやして、どうしたんです?」
「にこにこと言って! ……もう、せっかくいい顔するようになったねって言おうと思ったのに」
「佑子さんが、くれたんです」
 彼の表情から、光がこぼれるのを見る。優しさ、愛おしさ、喜びといった感情の輝き。
「違うよ。それは、君の中にいつでもあったものだよ」
 ミキ様が誰かと交わした約束が黎明学院とその生徒たちを守ることだというなら、佑子は彼女の言葉を借りようと思う。
 常磐がしあわせになるように。
 歪むことなく、優しい心のまま大人になれるように、見守っていよう。
 恥ずかしいから、本人の前では言えないが。
「……う、わ!?」
 腰を引き寄せられた。常磐の顔が近くなる。
「ちょ、ちょ、ちょ、待った!」
 加速した心音に負けないように声を張り上げると、「なんです?」と常磐は微笑む。その顔が心から楽しんでいる本気の笑顔だと感じられるのは喜ばしいのだが。
「外にカメラを持った槙野君が」
 常磐はちょっと表情を消し、ガラス張り窓の向こうを見てため息をついた。
「だからこの体勢は……」
「仕方ない」
「わ!」
 腰を引き寄せられ、半回転。右手を取られる。
「踊ってることにしましょう。文化祭で踊れなかったし。だったらおかしくないですよね」
 くるりと回った。もたもたと足がもつれる。世界がくるりと回転すると、なんだか楽しい気持ちが込み上げてきた。
「……王子様だね、ほんとに!」
 言った瞬間ばつの悪そうな顔を引き出せて、佑子はにやつく。言い訳のように常磐は言う。
「近くの女子校の子たちが言っているのが、黎明でも定着したらしくて。木野下たちも、ああいう計画を立てるからいけないんだ。実物は王子にほど遠いのに」
「そんなことないよ」
 白い制服の、王子様。
 対する佑子は単なる一万二千円のセットスーツ。
 普段だったらおかしいだろうと指摘するところだったが、それを言うのは野暮な気がした。何故なら、図書館の本たちは観客のようで、かれらが自分たちを見ているのだと思うと、ここがどんな宮殿にも負けない素晴らしい大広間のように思えてくる。
 図書館は舞台に。二十五歳の司書は姫君に、年下少年は王子様に変わる。
 笑った。心から。
 そうして誰もいない図書館の、たくさんの本たちに見守られ、二人はくるくるとワルツもどきのステップを、いつまでもいつまでも踏んでいた。

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