第四章 知らないふり

「まだ見つからんのか!」
 数ヶ月分の苛立ちを込めて男が怒鳴りつけると、若い秘書は肩を一度震わせ、頷いた。秘書として雇用されてまだ一ヶ月にしかならない彼は、仕事はできたが、まだこのワンマンな経営者に対応する術を身につけていない。適当に話を聞き、おだてるという方法を知らなかった。
「捜査員を増員されますか?」
「してどうする。調査報告もろくに上がってこんのだぞ!」
 男は爪を噛んだ。
「一体どうなっている。何かに邪魔されているとしか思えん。思えば、あの『鍵屋』も妙なことを言っておった」
 秘書はその報告を直接は聞いてはいなかったが、面会のアポを受け付ける際、『あれはヤバい。あの人形はヤバい。ヤバいヤバいヤバいヤバい』という呟きを聞いていた。何かとてつもなく恐ろしいものを見たとしか思えない震え声だった。
 男は『鍵屋』と呼ばれるような犯罪者とまで繋がってまで、ゲームのアイテムのような名前のついた本を欲しがっていた。学校法人の理事長としての権利が手に入るらしく、その身分でもって男は起死回生の策を練っているらしい。ようやく傾きから回復しつつある財政だったが、男は更に貪欲に手を打とうとしていた。
「内藤家を探らせる必要がある。内藤蓉子が持っているのは間違いがないのだ。もしかしたら孫が持っている可能性もある。やはり孫の方に手を打つべきか……」
 ぶつぶつと呟く老人に、秘書は犯罪の片棒を担ぐことになるなら退職届を書こう、と決意した。
 扉を開け、一礼して部屋を後にすると、廊下に少年が立っているのが見えた。色素の薄い、優しげな容姿をした令息だ。しかし目にはいつも無ほどの淡白さがあり、歪んだ人形のようにも見える。
「どうかなさいましたか?」
 しかしそんなことはおくびにも出さずに問いかける。少年は何の感情も浮かべない顔を……しているはずだったのに何故か戸惑った困惑を浮かべている。初めて見せた年相応の表情に驚いてまじまじと顔を見ると、少年は言った。
「……おじいさまは、内藤家のことを何と言っていますか」
「は……? はあ、あの」
「……婚約について何も言っていませんか?」
 どこまで話していいものかと微笑みの裏で考えるが、それを見透かしたように彼は背中を向けた。
「もう、いいです。ありがとう。ご苦労様でした」
「あ……! 坊ちゃま……」



 忙しなくなる胸の鼓動を抱えて、彼は何度も思い返している。
 あの人の笑顔。
 あの人の指と、その温もり。
 他愛ない、好意の言葉を、もう何百回と。

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