「携帯は持っているか」
「ううん。司書室に置きっぱなし」
「俺もだ。教室に置いてきた」
お互いに冷静に言葉を交わして、会話が途切れた。厚い壁に覆われているせいか、音がかすかにも聞こえない。常に動いている冷暖房の音さえも。お互いに忙しなくなりそうな呼吸を押さえる沈黙が、やけに耳をついた。
(これってやっぱり、私を狙ったんだよね)
ため息が出た。
(一体なんなのよ、もう……)
これが『暁の書』を狙ってのことなのか、それとも単なる新任司書いじめなのかは分からない。香芝がここにいるから、いじめの方かもしれない。香芝を巻き込んだのが非常に痛かった。生徒を巻き込むことになってしまった。
泣きたいが、泣くほど弱くない。
こほん、と香芝が咳払いした。
「この時間、まだ生徒はいる。奥まったところとは言え、人の通りは皆無ではないはずだ。俺がいなくなれば尾野辺が探すだろうし、お前も、図書館が開館していないと不審がる生徒も出るだろう。ここは換気が出来るようだし、窒息死はしない」
香芝の視線を辿ると、天井に近い壁の隅の方に、換気扇のようなものが見える。動くのかは謎だが、通風口があるのは確かだろう。そのまま視線を戻してくると、彼はぱっと視線を逸らした。おや、と思う。
(慰めてくれてるのかな……?)
「まったく、とんだとばっちりだ」
けれどやれやれと肩をすくめられた。感謝して損したとちょっとむっとしたところで、で? と香芝は言った。
「何があった」
二人きり、他に聞かれることもないだろうと、手短に起こったことを説明した。実は、はっきりそうだとは言えないいくつかの出来事もあった。紛失本が続出したり、図書だよりが切り裂かれて佑子の目につくゴミ箱に捨てられていたり。
香芝は首を振った。
「お前と口を利くなと通告はしたが、他は指示してない」
「だったら誰が?」
「『暁の書』関連なら、俺の他は嵯峨と羽宮。だが嵯峨はこんな陰険な手は使わん。残るは羽宮だが、あいつは何を考えているのか分からん」
呆れたような不機嫌のような顔をして香芝は言った。
「ときわ……羽宮君って、普段どうなの?」
香芝は綺麗な眉をひそめた。
「どう、とは」
「学校でどんな風に過ごしてるの? 友達とか、普段の様子とか」
「成績はいい。勉強もスポーツもできる。だが基本的に一人だな。まあ、分からないでもない。身内が理事というだけで色眼鏡で見るやつもいるし、親の七光りと陰口も叩かれるし、本当の友達というやつはできにくいな」
「香芝も?」
「俺の話はいいだろ!」真っ赤になって怒鳴る。目をそらすから、照れがあるのはすぐ分かる。
香芝がそんな風に思っているのは意外で、でも少し、嬉しい。この子はいい。すごくいい。それまで見ていた香芝という子が、ずっと身近になって、好きだな、と素直に思える。胸が温かくなって、言わずにはおれなかった。
「常磐君の友達になってよ、香芝。君たち、分かり合えると思うな」
「羽宮と? 冗談言え。あいつはそういうガラじゃない」
自分の台詞におせっかいだなという気持ちがあったので、そう、とだけ呟いて、埃っぽい壁にもたれた。
「疑問なんだけど、どうして君は『暁の書』が欲しいの? それから、嵯峨生徒会長が疑われない理由は?」
こうなったら気になることを聞いてみよう。話を振ってみると、香芝はしかめ面の不思議そうな顔で言った。
「学校法人の理事長職だぞ。権威の象徴じゃないか」
「…………えっ、それだけ?」
他に何があると、そう言われては返事のしようがない。額を押さえる。金持ちの思考は分からん。
「それで嵯峨だが、嵯峨英明というのがそういう人物なんだ。起こった事態に効率的に介入して、相手をうまく言いくるめて最後をかっさらって、気付かれるまで素知らぬふりをしているのが嵯峨だ」
「じゃあ君は自分から突っ込んでいって沼にはまるタイプなわけだ」
「うるさいっ!」香芝の怒鳴り声が、ぶつかって落ちるような響き方をして、どちらも黙り込んでしまった。ここが声の届かない密室だと思い出してしまったのだ。
だが暗くなっているわけにはいかないだろう。
「……香芝。私、嵯峨理事と香芝理事に会いたいって言われたけど、聞いてる?」
明るくも慎重に切り出した言葉に、香芝も調子を合わせた。
「ああ、聞いてる。お前がいることを話したのは俺だしな。学校で会うんだろう、俺も同席するぞ。嵯峨も来ると言っていたな」
「嵯峨君とは親しいの?」
「幼稚舎小学校中学校と同じだった。あいつは一つ上だったが」
「羽宮君は違うんだ」
「そうだ。祖父殿の選んだ学校で教育されていたと聞いたことがある。黎明学院に入るのならここという中学があるんだが、あいつはそれにも行かずに、別の私立と家庭教師で……というのが、俺の祖父が話していた羽宮の経歴だな」
羽宮氏の笑い声を思い出し、何か重いしこりのようなものが生まれる。それに対する静かな常磐の姿が、そのしこりをどんどん大きくしていく。
常磐は、祖父の命令には逆らわないだろう。
その考えにたどり着いた途端、血の気の下がるようないやな予感が、背筋を突き抜ける。震え始めた自分に気付き、思わず身体を抱えた。
夏休み前。『暁の書』課題が出され、三人が本の捜索を始めた。
夏休み。佑子と常磐が婚約相手として引き合わされた。
夏休みの終わった二学期。『暁の書』を求めて佑子が追い回されている現在。
ここから導き出されるのは、羽宮氏が、誰よりも早く内藤家に接触していること。嵯峨氏と香芝氏が、羽宮氏を除外して佑子と会おうとしていること。お互いを出し抜きたいと思っているだろう三氏の思惑を考慮すれば。
――羽宮氏は何かを知っている。おそらくは、確信。
内藤家が『暁の書』を持っているという、確かな事実を。
(……常磐君が私に近付いてきた理由は……『暁の書』?)
『恋をさせてください』と言ったのが、彼なりの手で『暁の書』を求めてのことだったら。あの優しく笑う男の子の本性が、同級生たちに対するような、あの冷たい態度だったとしたら。
香芝が目を剥いた。佑子が扉に殴り掛かったからだ。鉄の板が響くが、そのまま構わず叩き続けた。靄は拳を叩き付ければ簡単に散り散りになるのに、すぐにまた新しい形を作る。
「やめろ! 無駄に叩くな、拳が割れる!」
香芝が手を掴む。
「どうしたんだ!?」
歯を、ぎりぎりと噛み締めた。熱い、しかし暴力的な衝動がどうしようもなく頭を支配し、感情を塗りつぶす。
「ずるい……!」
思わず吐き出した声の低くかすれたさまに、香芝は硬直する。
何を信じればいいのだろう。人当たりのいいそのままの常磐か。それとも疑いを抱いている自分か。彼を信頼できないのは、佑子が大人だからだろうか。それは簡単に信用できない、警戒心が強いことが世慣れているということなのかもしれない。
息が、苦しい。焼けるようなそれを吐き出し、空気を求めて吸い込むが、ちっとも楽にならない。
苦しくなるのは、佑子が常磐を疑いたくないからで。自覚する。そう思えるくらいには、彼が好きだ。もしかしたら、もう少し。
ふと目を上げ、佑子は腕を突き出した。
「ぐ!?」
「近い近い近い!」
鼻を押さえてうずくまる香芝に、佑子は叫ぶ。
「この状況では大事故だよ!」
「知るか! 俺だってなんでここにいるのがお前なんだと思ってるぞ!」
「失礼な!」
「迷惑なのか嬉しいのかどっちだ!?」
近所の犬だってこんなに吠えない、というくらいぎゃあぎゃあ言っていると、やり取りに我慢ならなくなったのか、香芝は押し通す勢いで言った。
「泣いてる女を男は慰めるものだ! 黙って慰められろ!」
絶句した。
そして不覚にも、じわっと涙が出た。
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