「そういえば……羽宮。お前、祖父殿が言っていたのは本当のことなのか?」
「なにが」
「この女が好きだとかいう……」
常磐はぴたりと口をつぐみ、佑子も息を詰まらせた。
こちらを見た常磐の視線を、何とも言えない気持ちで見守っていると「……そうだよ」というささやかな声で答えがあった。
「僕は、佑子さんが好きだ」
椅子に座った状態で、まるで捧げるように言われ、息ができなくなる。逃げようとしたのか、無意識に身体が後ろに下がって、ドアにぶつかった。
「……で、女史は?」
「わわわわ、私!?」
三人が、じいっとこちらを見ている。常磐を恨めしく思う。他に人がいないところで言ってほしかった。でも、だからと言って、汗を流すことなく答えられたかというと、……自信がない。
(嫌いじゃない。嫌いなんじゃないけど。だったらどういう意味って聞かれそうなんだよ! そうなったらなんて答えたらいいの?)
嫌いじゃないなら――『好き』?
目の前に佑子にだけ見える火花みたいなものが散った。ちかちかして、星か花が降っている錯覚。
自分の一言におかしいくらい動揺している。常磐のことを、友人として、人として好きだと言いたいのに。
言葉が出ない。本気で困っている。
綺麗な、内側からきらきらするような目で、彼が私を見ている。好きだよという言葉の厚みがなければ許されないくらい、強く。
大切にしてくれて、自分にだけ笑いかけてくれて、穏やかで、優しくて。恋人にするには年下すぎてと思っている自分がいた。
それは、逆を言えば、彼が年下じゃなかったらいいのに、ということだ。
もし自分が彼と同い年だったら。
嫌いだとは思えなくて、どきどきしただろうか。予感めいたときめきで、胸を満たしただろうか。
――今みたいに?
「…………っ!!」
「あっ逃げた!」と叫ぶ香芝の声をドアで遮断して、佑子は急ぎ足で図書館から逃げ出した。
中庭を突っ切って、東棟の階段を駆け上がり、行き止まりの体育館へと走っていた。木造廊下がぎしぎし鳴る。走ってはいけないから早足だが、一度も足を止めないのは運動不足にはきつかった。でも、苦しい思いでもしないと、爆発しそうだった。
身体を折った勢いで吐いた息が、まるでこの場所に一人だけみたいに体育館に響いた。
「…………?」
妙に静かな気がして、顔を上げ、たじろいだ。部活中であるはずの生徒たちが、全員、すべての動きを止めていた。
あれあれと思っていると、こちらを見てこそこそ言葉を交わす。あるいは好奇心に満ちた目で見てくる。
ざわっとしたものが、頭の後ろに張り付く。図書館では空気と同じ扱いだが、でも、何か悪いもののように扱われる心当たりがない。
「ゆう……内藤さん!」
小走りにやってきた常磐は、探しまわったらしい、肩で息をしながら、佑子を必死に見た。それにも悪感情の目が向けられていることを、目で見なくとも感じる。
「今! 聞いたんですけど大変なことになっているみたいです……! 話を、」
シャッターを切る音がした。フラッシュに目がくらむ。いつの間にか近付いていた槙野がカメラを構えていた。常磐が血相を変える。
「槙野、お前……!」
「そんなに慌てるところを見るとマジなの? 二年の羽宮常磐とー司書の内藤佑子女史がー、婚約してるって!」
愕然とした。
常磐の顔を見る。唇を引き結び、無表情であろうとしているが。
話が洩れたのだ。
体育館に反響する声は嫌みを伴っていた。放課後で、昼よりも断然少ないはずの生徒たちのひそひそが大きくなっていくような気がして、佑子はぐらりとする視界を必死に留めた。
強調するような言い方をした槙野がにやにや笑っていた。未成年に手を出した女だと思っているに違いない。常磐には嫌悪に似た好奇心。あんな大人と婚約した、同じ学校の生徒だということで。
(……どうする。どうすればいい!)
どうしたら彼を守れる!?
鋭く息を吸い込んだ音がした。
常磐が、前に出た。
「――それが?」
それは、ひどく冷徹で、薄暗い愉悦を含んだ声だった。
なにが、と佑子は思った。槙野や生徒たちもだろう。彼らに向かって、常磐は丁寧に、しかし強い感情でもって言い放った。
「好きな人がいて、何が悪い!」
それまでの音を払拭するくらい、高く、鮮やかなくらい反響したその声に、一番絶句したのは、佑子だった。
常磐の顔は上気し、清らかなくらい真剣で、その表情でもって、まるで全校に響くような声で言葉を放つ。
「この人がいて、僕の世界が変わった。この人はいつでも僕に色んなものをくれる。物理的なものじゃない。何かとても大切な……光、みたいなものだ。彼女は僕の世界に飛び込んできて、あっという間に僕の世界に色を付けていく。そんな人を好きにならないなんて、死んでるのと同じだ。――僕は、もう、そんな人間になりたくない」
体育館中の生徒が呆然とした心地で、常磐と佑子を見ていた。
凍りつくような彼の内側に、これほどの感情があったなんて知らなかった。
そんな風に、自分を見ているとは思わなかった。どうして私なのだろうと思っていたけれど、彼の世界に何かを投げかけたなんて、考えたこともなかった。佑子よりすごい人は大勢いるのに、なのに彼の前には現れなかったのだ。世の中は不平等で――彼の言葉は、佑子を目覚めさせるように、幸せにしていく。
直接言われるよりも、胸をいっぱいにしていく。あふれていく。
(私は、信じてきただけ。きれいな心を信じて、そうであってほしいと思ってきただけで……)
馬鹿みたいなきれいごと、夢見がちで、寝言みたいなものだと気付いていて。それでも信じていたくて。そうでありたいと願って。でも、社会や世界の、失業や、自分の能力のなさや才能の有無、自分を否定されるような言動といった数多くの現実に、苦しい思いをしてでも抱えていくべきなのか、自分を疑い始めていて。
(それでも、私の言葉は君に――?)
逃げようとした自分を、恥ずかしい、と思った。
倒れ込まないのが不思議なくらい、押さえた頬が熱すぎる。目の前が点滅し、感情が高ぶって泣きそうになっている。
「……君は」と無意識に言葉がついた。
「君は、私が『暁の書』を持ってるとしたら、欲しいとは思わない?」
「思いません」
常磐の否定は見事なまでに簡潔だった。
「もらえるなら」と彼はにわかに手を伸ばし、指先が触れたと思ったら、佑子の頬をさらさらとした手の甲でなぞった。
「……あなたが欲しいです」
棒のように立ち尽くした。
数秒、考えた。
考えて、一歩引いた。
引いて、引いて、引いて、両手を突き出して待ったを示した。
「……佑子さん?」
佑子さん!? と二度目に呼ぶ常磐の声と、生徒たちのどよめきが遠くに聞こえる。
(恥ずかしい。二十五にもなって初恋に出会った高校生みたいで恥ずかしい……!)
がつん! と痛みを覚えたのもつかの間、火が出そうな顔と涙目で、佑子は意識を手放した。
――こっそり目録を持ち出して一晩中めくっていたために、寝不足だったのである。
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