大きく息を吸う。ブラウスとジャケットの胸を大きく膨らまし、お腹を丸めながら深く、長く吐いて、頬をぱちんと叩いた。
「……うしっ」
大丈夫、ガラス窓に映っている内藤佑子はきちんと笑えている。
ミキ様が奪われ、行方が明らかにならず、新しい理事長を決められることが止められずに、これが最後の日なのかもしれなくても。
今日は、お祭りだ。
図書館にまで聞こえてくるのは、軽音部の演奏だろう。低いベース音とギターの音。いつの間にか十時を回っている。けれど、図書館内は切り離されたようにしんとしていた。
「ずいぶん、騒がしいね」
「森君」
浮かれた様子もなく、彼は今日も静かに佇んでいた。外の喧噪に興味がないようだ。
黎明学院の文化祭最終日、開始時間の午前十時よりも前に登校した佑子は、図書館で仕事を一通りやってから、校内に繰り出そうと思っていた。
「行かないの?」
「騒がしいところは得意じゃないからね。見ているだけならいいのだが」
「気が向いたら回ってきなよ。きっと楽しいよ。お祭りなんだから」
今しかないんだから。そう言うと、そうだね、と彼は口元を緩めて、佑子が机に置きっぱなしにしてあったチラシを、感傷の表情を浮かべて指でなぞった。日本洋画家、藤島武二の絵をパロディにしたものだ。女性の横顔と無数の蝶が描かれているが、男子校なのでこの女性は男子生徒がモデルである。
「祭りは非日常だ。古い約束は時を超え、異界の者も懐かしくまみえる。現世に霊界が混入し、起こるのは喧噪、混乱、最後に解放……といったところかな」
妙なことを言うなあと頭を掻いて、佑子は取りあえず鍵と財布を持った。
「私、一応鍵持ってくけど、出るんだったらスペアキーで鍵かけてから出てくれる? 鍵は職員室に返しておいて。あ、食べ物は持ち込まないでね。他の人も入れないでくれるかな」
「分かったよ」
鍵をかけた方がいいかと尋ねると、頷かれた。出て行く寸前、森は引き止めるというよりは見送るように、まるでうんと年上の、保護者の顔をしてささやいた。
「気をつけなさい。今日は祭り。ひきずられてはいけないよ。ヒトでない者が紛れ込んでいるからね」
いつもどこかしら古びてセピアがかっていた校内は、音と色で騒がしくなっていた。
くすんだ校舎は、屋上から下げた色とりどりの長い垂れ幕と、窓に貼付けた飾りで彩られ、各教室には、廊下を浸食する勢いで置かれた、大掛かりな段ボール製の看板が目立つ。呼び込みの声、生徒たちは女装あり着ぐるみ有り、海パン一枚だったりのなんでもありな格好で歩き回っている。一般客は女性が多い印象で、宣伝に歩き回っている仮装した生徒に話しかけられればきゃっきゃっとしていた。
「今年ずいぶん派手だねえ」
「ちょっとイロモノ? が多い気がする。あっほら今めっちゃかわいい女装の子通ったよ! すごいたのしー!」
「毎年こんなんだったらいいのに」
女の子たちとすれ違う。
この喧噪のどこかに、常磐たちがいるのだ。
ミキ様が奪われたことは、まだ三人に話していなかった。文化祭だからだ。彼らもそれぞれクラスの演し物や当番で忙しいだろうし、思い出をちゃんと作ってもらいたかった。
余計なおせっかいと言われても、日常はいつも「これが最後」だから。
理事長が決められてしまえば、佑子に出来ることは、もうないに等しい。
ごめん、と唱えそうになる自分を叱咤し、胸を張った。
何かしたいと願うけれど、もう佑子の手の届かないところにある。ミキ様も。きっと『暁の書』も。こうなったら、佑子に出来るのは、最後まで、常磐と香芝と嵯峨を繋いでやろうとすることくらいなのだった。
自分もほんの少しの間楽しむつもりで、何を食べようか考えていると、帽子を被ったスーツ姿のふくよかなお年寄りが目に入った。きょろきょろと辺りを見回しながら歩いている。おじいさんが行こうとしている方は特別教室棟で、今日は主に生徒たちの荷物置き場になっている。
「お困りですか?」
声をかけるとおじいさんは振り向き、ぱっと笑顔になった。
「二年三組はどちらかな?」
「二年三組ですか? よろしければ、ご案内しましょうか」
「どうもありがとう。助かります。あの辺り、なかなか人が通らなくてのう」
「あの棟にはあまり模擬店がないんです。教室棟はこの円形の棟なんですよ。あ、足下、気をつけてください」
「おお、これはこれは。そうか、教室は図書館棟に移ったんですな」
「図書館棟?」と聞き返すと、おじいさんはにっこりする。
「図書館があるので図書館棟です。あの棟だけは、学院が出来て何十年も経ってから建てられたものなのですよ」
知らなかった。とすれば、そんなことを知っているこの人は学院関係者なのだろうか。「あなたは、先生?」と尋ねられ、恥じ入りながら首を振った。言い訳にもならないが、「ただの事務職員です」と答える。
ゆっくりじっくり階段を上り、四階へ向かう。すると、やってきた下の方から聞き覚えのある声がする。
「長物の持ち込みは許可制だ。ちゃんと届けを出したか?」
きびきびとした質問の声は、やはり嵯峨だった。彼は仮装せずに、制服に腕章をつけただけの姿をしている。対しているのは宣伝で校内を回っていた一年生らしく、威圧感のある生徒会長を前にしどろもどろになっていた。
(頑張ってるなあ)
胸の中で応援して、階を上がる。
長物の届け出を怠った一年生に軽い注意と、一日限りの許可証を与え、解放する。長々とした説教は、できないことはないが文化祭に水を差す。後に引く可能性もあるので、自分としてはあっさりと解放したつもりだ。
しかし、ふと視界の隅に知り合いを捉えたような気がした。女性と老人が階段を上がっていった気がする。
(……気のせいか? 今の……)
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