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 ばしっ! と音が響くほど頬を打たれたメイドが、床に倒れこむ。その上から、今度は彼女が入れたばかりのお茶がひっくり返された。
「糸くずが入った茶を出すなんて、お前は私をなんだと思ってるんだ!?」
「お許しくださいっ、ご主人様、申し訳ございません!」
 甲高い声を張り上げ、短く太い足を踏み鳴らす。涙目で震えるメイドをさらに足蹴にし、悲鳴が上がればうるさいと言いながら蹴り続ける。メイドが歯を食いしばって耐え、呻き声も上げられず静かになると、しばらくして満足したように鼻を鳴らし、「見苦しいから出て行け」と命じた。メイドはぼろぼろの姿のまま、逃げるように部屋を後にした。
 本当に糸くずが入っていたかどうかは怪しかった。何故なら、ヴォーノは帰宅した後、自身が不在の間に運び込まれたある品を確認した後、顔を真っ赤にして激憤し、執事や他にメイドを怒鳴り、部屋の空気が悪い、お前の顔つきが気に入らない、などといった理由でわめいていたからだ。
 それなりに気持ちが収まったらしいヴォーノは、たっぷり綿の詰まった椅子に腰を下ろすと、深く息を吐きながらそれまでその一連の出来事を見守っていたこちらに「それで」と何事もなかったように話しかけた。
「あんたがたを呼んだ理由は理解してもらえたかな?」
「はあ……」と答えたのは、暴力を目の当たりにし、顔色を真っ青にしたまま、思考を硬直させていた眼鏡の男だ。
「わ、わたしの研究を知ってくださっていて、調査を依頼したいとのことでしたが……」
「そうだ、クレス・バートン。あんたが遺物研究の新鋭だと聞いてな。遺物の研究者たちは年寄りで偏屈ばかりだ。あんたのように若い方が丈夫だし、よく動けるだろう?」
 同意を求められて、クレスは「はは……」と力ない笑いで誤魔化している。すると、ヴォーノはねっとりした目つきと声で語りかけた。
「バートンさん、あんたには期待しとるんだよ。この街は昔から職人が住み着いとるせいで、戦前の文明に関する調査がほとんど行われていない。職人たちが勝手をするなと反対するからだ。だが、それはこの街を粗末に扱っているということだ。見たまえ、あの時計塔を。あの機構を。捨てられた工場を。あれらを動かす力がここにはあったということだ。それを用いれば、私たちはもっと豊かになれる。工場が稼動できるようになれば、労働者が必要になり、仕事がないと路上に迷う者もいなくなるのだ」
 やつらはそれが分かっていない、とヴォーノは親指の爪を噛んだ。
「この街に眠るといわれる、賢人の遺産――世界を変える〈ロストハーツ〉を見つけ出せ。この街に、富と栄光をもたらすのだ」
「――あんたはそれをひとつ、見つけたらしいと聞いたがね」
 そう呼びかけると、それを聞いたヴォーノの顔は、まるで茹でたばかりの川海老のように真っ赤になった。椅子の肘掛に拳を叩きつけ、唸るように言う。
「お前……それをどこで聞いた」
「この屋敷の中で、世間話に聞いたんだ。〈ロストハーツ〉の秘密に関わるという品を、別の街のオークションで競り落としたらしいじゃないか。その様子を見ると、どうやらはずれだったようだが……」
 ぎりぎりとヴォーノは歯を鳴らした。
「ふん! 最初から、信じてなどおらんかったわ! 眉唾だったんだ、〈ロストハーツ〉の【棺時計】など、たいそうな名前をつけおって!」
 それを聞いて、かすかに息を飲んだ後、ゆらりと笑う。帽子の下に隠した目が輝くのを自覚する。
「リエルト! 余計なこと嗅ぎ回るんじゃないぞ。私がお前を雇ったのは〈ロストハーツ〉探索の手足にするためだ!」
「分かってるさ、ヴォーノさん」
 黒い帽子をかぶりなおし、その下で、リエルトはひそかに唇で弧を描く。

「俺の探し物も、あんたと同じなんでね――」

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