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「だめだ」というのが親方の返事だった。ヴォーノの屋敷にある柱時計を調整する仕事に、ノアが同行する件だ。
 親方はそれ以上詳しく言わなかったが、ヴォーノが何と言って追い払ったかは想像がついた。大方「薄汚いがきを連れてきて、屋敷のものを壊したら弁償できるのか」というところだろう。
(屋敷を探るいい機会だと思ったんだけどな)
 あの男を追い払うために証拠集めをしよう、というのが、ノアたちの活動の基本的な方針だ。法外な値段で土地や店を売ったり、過重労働をさせたり、無頼者を雇って脅し付けたりということは、実際はヴォーノの下につく雇われ人が行っていることだ。部下が勝手にやったと、あの男はすでに何度か言い逃れをしている。
 それでも機工都市の職人たちがヴォーノを追い出さないのは、やはり彼の持つ人脈と金が、太く、この街を支えているところもあるからだ。あの男が連れてきた他都市の人間や商人たちが、職人たちの住居や、食生活などの水準を引き上げたと、以前エリックが説明していた。
 しかし、あの男の罪はそんなことで消えはしないのだ。

 真昼を過ぎた街は、明るくて眩しい。家々の屋根の赤い色も、立ち話している奥さんたちのつましい服の色も、一枚の絵に描いたようにきれいだった。〈動かない時計塔〉の上に広がる空は浅い青で、刷毛で描いたような雲が浮かんでいる。
 ガルド夫婦の小間物屋は、賑わっているというわけではないけれど近所の人たちが毎日ぽつりぽつりと訪れる便利なお店だ。ノアが時計修理に使う工具から、農具、調理器具や、砂糖や塩といった、生活に必要なものが大抵揃う。
 ゆるくくねった道を歩いて店の前に差し掛かると、ちょうどティナが扉を開けて入ろうとしているところだった。
「あら、ノア。……リトスに会いに来たの?」
 何故そこでちょっと不機嫌そうになるのか理由が分からないのだが、頷いた。
「エリックから聞かなかった? リトスに街を見せて回るっていう」

 昨夜の別れ際、ノアは、エリックとシャルルに呼び止められた。リトスはティナとルースに挟まれて前を歩いている。世話焼きなティナと穏やかなルースは、ほとんどの物事を『わからない』というリトスにとって、いい先生になっているようだった。
「リトスは、前より少しずつしゃべるようになってきているだろう」
「ああ、そうだね。よかったよ。不調っていうわけじゃなくて」
 笑顔でノアが言うと、シャルルが眉を吊り上げた。
「ちょっとノア、呑気すぎじゃない? 僕たちのこと、誰かに話されると困るでしょ! あの調子だと聞いたそばからぺらぺらしゃべるよ、絶対」
 シャルルの言い方には悪意があるが、内容としてはその通りだった。リトスは身近な誰かに、見聞きしたことを無邪気にしゃべってしまうことだろう。
「だからノアは、明日中の任務としてリトスへの口止めを行うこと!」
「は……?」
 ぽかんとするノアに、エリックがいい顔をした。
「要するにデートしてこいということだな」
「は……はああっ? ちょ、ちょっと待って! く、口止めはいいとしても、デートってまずいでしょ! ヴォーノの関係者にリトスのことを見られたら……! それに、それに街の人たちにも俺たちとリトスが関係してるってことが知られるし!」
「それが狙いなんだ」
 前方にいるティナがあはっと声をあげて笑った。何かおかしいことを言ったらしいリトスはきょとんとして、笑いを噛み殺すルースの顔と見比べている。後方にいる三人は心持ち声量を落とした。
「街を歩いて、俺たちの知人や関係者にリトスの顔を売っておくんだ。リトスに何かあったら彼らが教えてくれるようになるだろう。その分、敵も近付いてくるが、これからそうやって来るやつらは危険だと認識できるようになる」
「今のところ、ヴォーノが誰かを捜させてるっていう話はないよ。誰かがリトスのことを聞き込みをしてるっていう噂もない。ちょっと変だよね。リトスのことを知らないんじゃないのって思うんだけど」
 その可能性はありそうだった。思い返してみれば、忍び込んだあの時柱時計の鍵はかかったままで、解錠したのはノアが最初のようだった。柱時計に少女が入っていることを誰も知らなかったということだろうか。
「今は古い機構を調査しようとして商工会と揉めてるんだって。ほら、〈動かない時計塔〉とか廃工場地区とかは一応商工会の管理でしょ」
「その辺りの動向も含めて調査中だ。新入りの女中が頻繁に殴られているとも聞くし、その証言を取らなければ」
 というわけで、と逸れていた話を戻して、エリックとシャルルは、ノアにリトスを連れて街を歩くという任務を課したのだった。

 その辺りの話をティナにはしなかったのだろうか。伝え忘れなんてエリックにしてはめずらしい。不思議に思いながら説明を終えると。
「ふーん」
 返ってきた相槌はどこか棒読みだった。ちょっとむっとする。
「なんだよ。言いたいことがあるならはっきり言ってよ」
「別に? ノアはほんっと優しいわよね!」
 叩きつけるような言い方で褒められても嬉しくない。だがノアが何か言う前に、ティナは扉を開けてリトスを呼んだ。
「なあに、ティナ……」
 奥から出てきたリトスは、ティナの後ろに立つノアに目を丸くした。と思ったら次の瞬間頬を紅潮させて「ノア!」と叫んだ。両手を伸ばして飛び込んでくる。
 そして今度も受け止められなかった。また二人で倒れこむ。
「ノア、どうしたの? わたし、ノアに会いたかった!」
 ――どじゃーん!
 音の出るあらゆる楽器を地面に叩きつけたようなひどい〈音〉が鳴り響いた。
(き、きっつぅ……)
 いくら普段からすべての〈音〉を聞かないようにしていても、こうして近くにいると彼女の心が奏でる〈音〉がよく響いて聞こえてしまう。〈音〉の強烈さにめまいがして立っていられない。
「り、リトス、ちょっと落ち着いて……」
「うん」
 彼女の気持ちが落ち着くと〈音〉も静かになる。頭を押さえながら、この〈音〉が危険なものなのかどうか、ノアは考えてしまった。
(〈音〉そのものが何かに影響するっていう状況は、まだ遭遇したことがないけど……大きな機構は〈音〉も大きい。リトスは、それだけの力を持っているってことだろうか)
 リトスはティナのお下がりの服を着て、ノアを期待に満ちた目で見上げている。世界を変える機械人形〈ロストハーツ〉だというのに、その力がいったいどんなものなのか、いまの彼女からは分からない。純粋にノアやティナを信じて、他人が自分を傷つけるなんて微塵も疑っていない。
(守ってあげたい)
 ふとそんな思いが湧いた。
 世界を変えたいという願い事は、傷付いたり、どうしようもなかったり、悲しみに耐えられなかったりという、現状に不満を抱くからこそ生まれてくるものだろう。だから、大事にされ、守られ、透き通った気持ちを抱き続けていれば、きっとそんな力を使わずに済む。リトスは普通の女の子のままでいられる。そんな風に思ったのだ。
 その時、さっと水の入った器が差し出された。ティナが水を持ってきてくれたのだ。ちょっと怒ったように言われてしまう。
「体調が悪かったらちゃんと親方に言いなさいよ。無理して仕事しても、いいことなんてないんだから」
「ごめん……」
 喉を潤すと人心地ついた。あははと誤魔化し笑う余裕も出てくる。
「『しっかり食べて、しっかり寝ろ』でしょ? それ、よく言われたなあ」
 笑えたのは一瞬だった。それが誰の台詞だったのかを、ノアとティナは同時に思い出したからだ。
「……ノア? ティナ? どうしたの?」
 不安げなリトスの声に、二人して同じ笑顔を貼り付ける。
「しっかりしなさいよね! ふにゃふにゃのあんたよりリトスの方が働き者よ。今日はずっとあたしの手伝いをしてくれてたんだから」
「そうなの?」
 ノアの声が一段上がったのに気づいて、リトスが嬉しそうに笑った。
「おそうじと、荷物はこびをしたの」
「うちの店、仕入れた物を運び込むのと片付けが結構手間だから、リトスが手伝ってくれてすごく助かったわ。意外とこの子力持ちよ。それにすごく身軽」
 まじまじとその手足を見てしまうノアだった。ぱきんと折れそうな細い手首、座り込んでいるせいでスカートから小鹿のような足首が覗いている。
 そしてノアは、後ろ頭をばしっと殴られた。
「殴った理由は言わないわよ」
「……はい、すみません、気をつけます」
 でもそこにあったら見てしまうのが悲しいところだ。いきなりティナがノアを殴ったのでリトスは目を丸くしたまま固まっていたが、今度は泣きそうな顔でおろおろしている。やっぱり綺麗な子なのでそんな顔をされると悪い気がしないのだが、ティナの笑顔が怖くて「大丈夫」を繰り返すノアだった。
「リトス、話があるんだ。今からちょっとおれと二人で街を見て回らない? この街のこと、よく知らないよね?」
「うん! ノアとみてまわる」
 いまいちよく分かっていない反応なので苦笑いしてしまう。
「ありがとう。でもその代わり約束をしてほしいんだ」
「わかった。約束する」
 そういうことではないのだが、と思いつつ、ノアは彼女の目を見ながらゆっくりと言い聞かせた。
「これからは、なんでもかんでも人に話しちゃいけない。多分これからもっと色々な人と話す機会があるだろうし、知ってほしいと思うことも増えると思うんだ。そんな時、おれたちが集まって話していたことを他の人に言っちゃだめだよ。いいね?」
 リトスはしばしぽかんとし、不思議そうに首を傾げ、ノアが言ったことを咀嚼していた。少し難しかったらしく時間がかかったが、最後にひとつ頷いて言った。
「どうして、ひみつにするの?」
「うーんと……悪い人におれたちがやっていることを知られると、その人がおれたちを捕まえにきちゃうから、かな」
 ティナが口の動きだけで「嘘つき」と言ったのを目で制し、だからね、と続けて。
「おれたちが何をしているのかはみんなには内緒。悪い人に見つからないように、そして、いい人たちにも知られないようにすること。それがリトスの役目だ」
 こういうことだよね、と心の中でエリックとシャルルに確認する。
 リトスの無垢さに危険だ。自分たちの活動に連れまわして、興味関心を抱かれて秘密を知られて、彼女が何の疑問も持たずにそれらのことを人に話してしまわないか。自分たちは暗躍する身、知られれば街を追い出されてしまう。
 だから二人は、リトスが最も懐いているであろうノアに、とにかく口止めをしろと言ってきたのだった。
「おかみさんにもないしょ? たいしょうにも?」
「そう。おれたち〈黒鎖団〉だけの秘密だ。できる?」
「うん。できる」
 返答にためらいがないのは今だけだと知りつつ、「頼むね」とリトスの頭を撫でた。リトスは首を竦めて目を丸くしたが、すぐに柔らかく頬を緩める。どきりとノアの心臓が高鳴った。
「ひみつ。ひみつにする」
「う、うん、じゃあ、行こうか」
 ノアがティナに「二人で行ってくる」と告げると、彼女はむっとした顔で腕を組んだ。
「どこに行くつもり?」
「とりあえず、みんなの仕事場を回るつもり。何かあったらそこに行けばいいって知っておいてもらった方がいいと思うから。あとはぐるっと一周ってところかな」
 ふーん、とこの時のティナの返答もどこか気にくわない様子だった。
「……まあいいわ。あんまり遅くならないようにね。ノア、あんたちゃんとリトスを見てなさいよ」
「分かってるよ。ひとりにしないから。リトスも、ひとりでどこかに行かないようにね」
 リトスは頷いた。
「ノアといっしょにいる」
「……この無邪気な態度を見てると、自分がすごくいやな生き物になった気がするわ……」
「ティナ、何か言った?」
〈音〉が弾んで大きくなってきていたのでよく聞き取れなかったのだが、ティナは首を振り「さっさと行かないと日が暮れるわよ」とノアたちを送り出した。

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