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 日差しが傾き、わずかな光は薄れつつあった。虫食の建物である廃墟には似つかわしくない、大いびきが響いている。反響していた泣き声も疲れ果てた結果小さくなっていた。
 それだけ時間が経ったということは、ノアたちがきっと異変に気付いているはずだ。
(あーあ。絶対エリックが、めずらしいな、なんて皮肉に笑ってるんだわ、きっと)
 ほんの少しのあいだ街外れまで出るつもりだったのが、運の悪いことに無頼者に捕まってしまった。知らない顔だったので外の人間だ。機工都市は、こうした外の人間が根城を作って悪い商売をすることがたまにある。それぞれの工房が順調に動き出した今は少なくなったが、少し前までは人買いがのさばっていたものだった。
 ティナは何度となく空を見た。時間があまり残っていなさそうなのだ。
『仕事』に出ている仲間を、酒を飲みながら待っている人買いたちの話を聞くともなしに聞いていると、男たちは人攫いの他に盗みもやっているようだ。どこそこの家はしけていた、なんて管を巻いていた。そして、そろそろ移動しなければ足がつくと考えているらしかった。だとすると、移動は辺りが暗くなる今夜だと思われた。
 ちらちらと壁を見る。自分たちなら通り抜けられそうな穴が開いている。何かあったら、自分が男たちの注意を引きつけて、リトスにそこから逃げるように言うつもりだった。
「リトス、大丈夫?」
「うん。おもくないよ」
 ミリーを膝に載せていたリトスは囁いた。ちなみに、セレナの頭はティナの膝の上にある。昨夜から行方が分からなくなっていた彼女たちは、やはり廃工場地区をうろうろしていたらしく、ティナたちに先んじて捕まっていた。怯えて泣いていたところにティナとリトスが現れたものだから、すがりついて離れなくなってしまったのだった。
 そうすると、リトスの変化がよく見えた。ほんの数日前、膝に乗せている少女のように無垢であどけなかった彼女は、幼い子どもを抱きとめてあげられるくらいに成長している。ミリーをいたわる小さな仕草も、小さい子を見守る微妙な表情も、どきっとするほど大人っぽい。
 リトスはとても美しかった。普通の少女よりもとびきり綺麗だ。作り物だから当然かもしれないけれど、人工物にはない何かを感じる。皮膚の上、瞳の奥の奥、胸の深くにあるきらめきのようなもの……。
(ノアが気にするのも仕方がない……)
 そんな声が忍び寄り、ティナは急いで首を振った。
 いけない、何を考えているのだろう。
 だが、リトスの睫毛が光をこぼす様や、色づいた唇、白く輝く輪郭を見ていると落ち着かない気持ちになる。泣きそうになるのだ。胸をかきむしりたくなるし、どうしてと飛びかかりたくなる。そして、ノアの顔が浮かぶのだ。
「ふふ」
 小さくリトスが笑ってぎくりとした。見透かされて嘲笑されたように思えたからだ。しかし思い違いだったようだ。彼女は少女に目を落としたまま、ぽつりと零した。
「わたしも昔、こうやって、ひざの上にのせてもらった。リエラのひざ、あったかくって、やさしくって、だいすきだった」
「……リエ……? リトス、記憶が戻ったの?」
 驚く声をひそめて尋ねると、リトスは小さく頷いた。
「すこしだけ。きょうだいがいたことと、ねむってしまう直前のことだけ……」
(そうか、機械人形だからきっと機能を封じられて思い出せなくなっているだけなんだわ。何かがきっかけで徐々に思い出していくようになるのかも……)
 最初よりかなり語彙が増えて、感情豊かになってきた。彼女はどんどん人間に近付いている。その心は赤ん坊から少女へ、いつか大人になるだろう。そしてその先は――。
(――……人間を超越した何かになる……?)
 背筋が凍るような感覚がした。
 この子はあたしたちと違う。違う『モノ』なんだ。いつまでも一緒にいられるものじゃない。この子はいつか遠くへ行くんだ……。
 そう思った時、ティナの心にあったのは、悲しみと、表裏になった暗い喜びだった。
(リトスがいなくなれば……ノアはあたしを見てくれる……?)
「ティナ? どうしたの? どこか、痛い?」
 様子がおかしいと思ったのか、心から案じているその声が耳障りだった。
 放っておいて、と鋭い声を投げつける直前、外から声がした。
 荒々しい足音とともに現れた男たちは、転がった酒瓶と寝息を立てている仲間、そしてへつらうような笑みを浮かべる下っ端を眺めやると「ちっ」と鋭く舌打ちしながら、担いでいたものをティナたちの方へ投げ捨てた。
(女の子! こいつら、またさらってきたのね!)
「今晩出立する。支度しろ」
 にわかに男たちの動きが慌ただしくなった。うつらうつらしていた姉妹が起き、人数が増えた男たちが動き回っているのを見てティナとリトスにしがみつく。ティナはそれを抱き寄せながら、投げ捨てられて転がっている小柄な少女に「だいじょうぶ?」と声をかけた。
 半身を起こした少女の、長い金色の髪がこぼれる。
 その間から少女はちらりとこちらを見て、――にやり、と、笑った。
「………? ………………っ!!?」
 悲鳴をあげかけたティナは必死にそれを飲み込んだ。
(シャルル――!?)
 金髪のかつらをつけ女物の服をきて、少しぐったりした演技をしている。小柄なシャルルなら幼い少女を偽装することは可能だろう……とは思うけれど。
(無茶しすぎ! ばれたらどうするの!?)
 視線で咎めると、シャルルはかすかに笑って目を逸らした。
 けれど彼がここにいるということは、みんなにティナとリトスの居場所が知られているということ、救出のために近くまで来ているということだ。
(よかった……あとは、逃げ出す機会を見つけられれば……)
「おい、お前ら」
 その時、新しい声の持ち主が現れた。
 その男は長身の持ち主で、首は太く、肩周りには力仕事をする者であることを証明するようにたくましかった。それだけの人なら街にも大勢いるが、目が違った。
 鋏のようだ。簡単に人を切り刻める者が持っている目。
 もうずっと幼い頃、人買いの客がこんな目をしていた。上客だったというその男は、自分のものにした小さくて華奢な少年少女たちに首輪をつける趣味があった。所有された子どもたちは、みんな人形のような目をしていた……。
 この男は、危険だ。
 男は、警戒するティナを見下ろしてくる。ティナはみんなを庇うように腕を伸ばし、心持ちシャルルの顔が見えないよう、位置をずらした。男はそれを嘲笑し、適当に持ってきた廃材を椅子にしてティナたちの前に座り込んだ。
「お嬢ちゃんたちは、あの街に住んでるんだろう?」
 ぞわぞわと悪寒が走る猫なで声だった。
 誰も答えずにいると、男は懐からナイフを取り出した。姉妹が明らかに怯えてティナとリトスにしがみついた。ちらつかされる刃先の行方を見逃さないようにしながら「……そうよ」と、ティナは慎重に答えた。
「だったら『賢人の宝』の話を聞いたことはないか?」
(『賢人の宝』?)
 賢人の宝――おとぎ話めいたものはいくつか聞いたことがある。あらゆる扉を開く鍵や、絶対に折れないナイフ。濡れない本。火を放つ宝石。けれどそれは、厄災戦争の時代の物語だ。
 しかし、その一言を聞いただけで、すぐそばにいたシャルルの様子が変わった。
 警戒してる? 何に対して?
 はっとする。賢人の名前を最近聞いたばかりではないか。
 ――賢人イグノートス。七体の機械人形〈ロストハーツ〉を作った者の名だ。
 そしてその反応は男にすべて見られていた。気付いた時には、ティナは片手で掴みあげられていた。
「ティナ!」
 驚いたリトスが声を上げた。姉妹は声を引きつらせて何も言えなくなってしまっている。
「じゃじゃ馬そうなお嬢ちゃん。お前は『賢人の宝』に心当たりがあるんだな?」
「し、知らない」
 そう言った瞬間、打たれた。
「ティナっ!」
 リトスの呼びかけが悲痛な響きを帯びる。
「知ってることは全部話した方が身のためだぜ。そこにいるかわいいお嬢ちゃんたちのためにもな。この辺りにあるんだろう? 世界を変える場所への入り口が」
 いったい何を言っているんだろう。『世界を変える場所』?
「ずいぶんな噂になってるんだ。この機工都市は『賢人の宝』を守るために作られたってな」
 笑った男は、もう一方の手に持っていたナイフをティナの頬に当てた。ぞっとした瞬間、その先端は、ティナの襟元をまっすぐに切り裂いた。
 悲鳴を上げないのは矜持だった。こんな脅しに屈したりしないと、そう思っていたのに、投げ出された途端、涙がじわりと浮かんでしまい、すうすうする襟をかき合わせる。ティナの羞恥を、男は恍惚とした表情で見下ろしていた。
「さあ、切り刻まれたくなかったら、知ってることを全部話しな」
 その時、シャルルが立ち上がった。
「…………」
 立ち上がったはいいが、強く拳を握り、俯いたまま動かない。
「どうした、ちび。お前も何か知ってるなら、何もかも話した方がいいぜ。このお姉ちゃんみたいに裸に剥かれたくなければ、」
 シャルルは懐に持っていたものを素早く空へ向けた。
 ぱん、と乾いた音が響き、天井を突き抜けたそれは、空の上でぼんと弾け、白い煙を雲のように形作る。
 発煙弾。居場所を知らせるための信号弾だ。
 ぽかんとしていた男は、真正面から嘲笑するシャルルに怒声を張り上げた。
「てめえ……――ぶっ殺すっ!!!」
「こっちの台詞だ腐れ外道が!」
 シャルルが飛びかかると同時に、ティナはリトスたちに「走って!」と叫んだ。からんっ、と音高く投げ込まれた何かが、もくもくと煙を吐き出し始めた。数秒とたたず、廃工場は真っ白になる。発煙筒だった。
 ティナはずっと目をつけていた壁の穴に姉妹を押し込んだ。外からそれを抱え上げてくれる少年がいる。
「ルース!」
「静かに! 隠れ家に行こう」
 廃工場地区は自分たちにとって慣れた遊び場だ。余所者なんかには到底見つけられない隠れ場所がたくさんある。
 合流を知らせる笛を吹いたルースとともに、煙が漏れ出す廃工場を後にしたティナたちは、見つからないよう崩れた建物の間を進み、街に一番近い隠れ家まできた。
「リトス、大丈夫?」
「うん。へいき。ルース、ありがとう」
「どうってことないよ。でも、無事でよかったぁ……心配したんだよ」
 それでも気を抜かないまま、小声で話す。しばらく待ったが、他の仲間たちの姿がない。
「ノアとエリックは?」
「撹乱役で、近くにいたよ。きっとすぐに来るよ」
「シャルルは無事かしら……」
 発煙弾はきっと街からでも見えたはずだ。何事かと思った自警団がすぐに様子を見に来るだろう。
 だが飛びかかっていったシャルルのその後が心配だった。喜怒哀楽の激しい子ではあるけれど、いつもならこういう時に怒りをあらわにして無謀にも飛びかかっていったりしないのに。
 ばん。ばん!
「何っ!?」
「また発煙弾だ……!」
 空に煙が上がっている。再び発煙弾が打ち上げられたのだ。
 それに誰よりも表情をなくしたのはリトスだった。
 血が通わないはずなのにその顔は真っ青に見え、張り詰めていた。細かく震える唇から、小さく名前が紡ぎ出された。
「ノア」
 そして、ティナやルースが声をかける間もなく飛び出していってしまったのだった。

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