第4章 未来の在り処

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 リボンやレース、綺麗なビーズ。膨らませた袖にひだを重ねたスカート。
 愛されるものの証のようなそれらはぜんぶ、ティナが大事な人を失ってから与えられたものだった。
〈黒鎖団〉の解散が言い渡されたとき、様々な工房の徒弟にされたノアたちだったけれど、ティナだけは、女の子だから徒弟になるより保護者が必要だろう、という話し合いがなされたらしい。決定された行き先は、子どもに恵まれずに歳を重ねたガルド夫妻で、彼らはがりがりで薄汚れたティナに、お風呂と食べ物、そしてたくさんの娘らしい衣装を与えてくれた。
 それを、運が良かったのだ、とティナは思っている。たまたま女の子で、たまたまガルド夫妻に子どもがいなかったから、普通の町娘のような暮らしができるようになっただけ。徒弟になったとしても召使いのようにこき使われたり、どこぞの娼館に売られるなりなんなりしていた可能性だってある。それとも、ルリアのように暴力を振るわれて死んでしまうか。
 だから年頃の娘らしい祭りの衣装を与えられると、ティアはいつだってルリアのことを思い出す。いなくなってしまった彼女は、生きていればいくつになっただろうかと考えるのだ。
「ティナ、着てみたよ」
 呼びかけられて顔を上げる。衝立の向こうから、リトスがおずおずと顔を出したところだった。彼女の全身を見て、ティナは大きく頷いた。
「うん、すっごくいい。わたしのお古で悪いけど、よく似合ってる」
「ほんとう? うれしい!」
 リトスが身につけたのは、絵に描かれたお伽話の妖精のように、裾が重なった可愛らしいワンピースだった。色は白。レースをふんだんに使った、ともすれば子どもっぽい衣装だが、年齢よりも幼く見える挙動と美しい顔をしたリトスに、よく似合っていた。
 ティナが笑顔を浮かべると、リトスはほっとしたようで、くるくると回り始めた。いつもと違ってふわふわした裾が面白いらしい。
「ティナもこれを着たの?」
「そうよ。この家に来て初めてのお祭りの日にね」
 今よりもずっと髪も短くて、きつい目つきをした、ぎらぎらした子どもだった。いまのリトスのように可憐とは言い難かった。服に着られていると言っても過言ではない。
 それでも、ガルド夫妻は、渋々白いワンピースに袖を通したティナが現れるなり「かわいい」を連発し、実はもう三着用意してあるのだと言って、袖を通して欲しいのだと恥ずかしそうにお願いしてきた。
 それを見たとき、なんだか力が抜けた。ここで突っ張る必要はないのだと、反抗するくらいなら、自分みたいな小娘に「着てみせてくれないかな……?」と照れ臭そうに頼むこの人たちを守る方がずっと、ルリアは喜んでくれるんじゃないかと、そう思ったから。
「リトス、とってもかわいい。これを着てお祭りに行こうね」
 いつかガルド夫妻がかけてくれた言葉を、リトスに言う。
「みんなで?」
「そう、みんなで」
「ノアも?」
 ちくり、と胸に痛みを覚えながら「そうよ」と笑う。
 けれど、反応がいつもと違った。リトスはぎゅっと胸を押さえて、どこか悲しげに立ち尽くしている。
「……どうしたの、リトス。もしかして、ノアに何かされた?」
 ぶんぶんと首を振られる。
「嫌なことを言われたとか。あいつ、自分の考えてることを言わないまま、突然怒り出したりするとこあるから」
「言われたけど、ごめんって、あやまってもらったの」
 驚くティナに気付かず、あのね、とリトスは話し出した。
「わたし、へんなの。ノアのこと、ずっと考えるの。いまなにしてるのかな、どこ歩いてるのかな、いっしょにお散歩したいな、って。でもね、やっぱり会いたくないな、って思っちゃうの」
「……どうして?」
「なんだか、こわくなるの。どうしていいか、わからなくなる。なにを話せばいいのか。どうすれば笑ってくれるのか。優しくしてくれるのか。そういうこと、いっぱい考えて、動けなくなる」
 リトス。リトス。
 あなたのその気持ちの名前を、あたしは知ってる。
「……ティナ? どうしたの? 泣いてる。どこか痛いの? おかみさん、呼んでくる」
「だいじょうぶ! だいじょうぶよ……」
 駆け出そうとするリトスの腕を捕まえる。立ち止まりはしたものの、困惑した表情で、ティナの顔を覗き込もうとする。そんな風にして、どこにでもいる普通の少女のような表情をするようになっている。もう、人間と変わらない。
 ――おれたちと同じ肉体じゃないからって、リトスが生きていないってことにはならないよ。
 リトスが〈ロストハーツ〉だと分かった時、ノアはすぐにそう言った。それが正しいということがよく分かる。
 分かるけれど、黒々とした気持ちと深い悲しみが、言いようのない形で渦巻いて、涙が出る。
 ――この子は人間じゃないのに、あたしよりずっと綺麗な気持ちで、ノアのことを思ってる。
「ティナ、やっぱりへん。おかみさん呼んでくる!」
 何も言えないティナを見かねて、掴んだ腕を振り払い、リトスが飛び出していく。
 そしてティナは、自己嫌悪のあまり膝を抱えて呻いた。
 未知の感情に戸惑う機械人形に、何を言ってあげられるだろう。言う資格はないかもしれない、とも思う。
 だってあたしは、この子がいつまでもここにいることはないだろう、と考えているのだから。
(あたし、最低だ。本当に本当に、最低だ……)
 心配したおかみさんがやってくる。ティナは顔を伏せて涙を堪えた。自己嫌悪で、どうにかなってしまいそうだった。


       *


 工房の床を拭いていると、扉が開く音がした。
「あ、親方、おはようござい――」
「なにいつも通り掃除してんだ!!」
 その声に朝の鳥たちが一斉に飛び立った。聞いた者の全身が上下に跳ねるばねになるくらいの大声だった。
 ノアは目を大きく見開いて雑巾を握りしめたまま棒立ちになった。親方の怒鳴り声を久しぶりに聞いたが、しばらく何も聞こえないくらい耳の中がびりびりする。遅れて、全身からぶわっと冷や汗が噴き出した。
「な……、何って、掃除を……」
「昨日事故ったくせにどうして寝てねえんだ! 寝ろっつっただろうが!!」
 廃工場地区の崩落による地震は街にも伝わり、ノアたちは駆けつけた大人たちのすぐさま救助された。気を失っていたノアはそのことを自分の部屋のベッドの上で知った。打撲痕はあるが頭を打った形跡はないのでじきに目をさますだろう、という医者の見立て通り、全身の痛みで深夜に目を覚まし、親方から気を失う前のことを聞いたのだ。
 そういえばそのとき「明日の仕事はいいから寝てろ」と言われた気がする。聞いていた時ぼうっとしていたせいか、すっかり忘れていた。
「いや、だって元気ですし。仕事あるから寝てるなんて……」
「ごちゃごちゃぬかすんじゃねえ!!」
 首根っこをつかまれて部屋のある離れに引きずられていく。
「いいか、今日店に出てきやがったら、明日丸一日ベッドに縛り付けてやるからな!」
 ばん! と音高く扉を閉められる。
 荷物のように離れに投げ入れられ、ノアは「えー……」と力なく声を漏らすしかなかった。
(別に怪我したわけじゃないんだし……所々痛むところはあるけど、そんな仕事を休むくらいじゃないし……)
 仕事を休まないことにあんなに怒らなくても、と納得しきれないところがある。忙しくないわけではないのだから、休まない方がいいに決まっている。それに心配する義理もないだろう。別に本当の親でもなければ兄弟でも恋人でもない。雇い主なのだから。
 だがまた仕事場に出て行くと、本当にベッドに縛り付けられそうだ。渋々、休むことにする。
(休むったって、寝るか掃除くらいしかすることないんだけど)
 寝るのは時間がもったいない、だから、リトスの様子を見に行こう、と思った。
 救出後、リトスはティナやガルド夫妻と共に帰って行ったという。怪我がなかったのはノアが庇ってくれたおかげだとリトスが説明したらしく、夫妻はノアに感謝していたらしい。
 外出の支度をしていると「ノア」と呼ばれた。ぎくりと動きを止める。
 扉を開けて、アダムがわずかに顔を覗かせていた。急いで後ろ手に上着を隠す。
「な、なんでしょう、親方!」
「客だ」
 その客が意味するのは店の客でなく、ノアに会いに来た誰かがいるということだ。
 親方は店に戻っていき、誰だろうと思ったノアが離れを出て行くと、小柄な二つの影がぴょんと目の前で跳ねた。
「わっ!」
「おはようございます、郵便です!」
「郵便でーす」
 つばのある帽子をかぶり、大ぶりの鞄を肩からかけている、まごうことなき郵便配達人の二人だった。彼らはつばをちょっと上げ、ノアににっかりと笑いかける。だがノアの頭の中では『?』が飛び交っていた。
「な、なにしてんの、リトス、シャルル……」
「郵便屋さんのおてつだい!」
「リトスのお守りだよ。見ればわかるでしょ」
 リトスはにこにこと楽しそうだが、シャルルはふっと皮肉な顔でため息をついた。
「街を見て回るの途中になってたんだって? ティナが続きをするつもりだったらしいんだけど、今日は調子が悪いんだって。だから僕に頼むって。ティナに頼まれたら断れないよ」
「はい、ノア! お手紙です」
 差し出された便箋を受け取る。だが郵便局で押される配達印がない。
「わたしから、ノアに。お返事くれる?」
 どうやら郵便局を介さずに直接持ってきた手紙らしい。ノアは笑った。
「うん、返事書くね。わざわざありがとう、リトス」
「リトス、行くよ! 午前中の配達をちゃんと終わらせないと。見習い配達人だからって甘くしないからね、ちゃんとついてきてよ!」
 くすぐったそうに彼女は笑い、シャルルに急かされて走っていった。その後ろ姿は、帽子のせいもあって本当に見習いの郵便配達人に見える。
(怪我はなかったかって聞くつもりだったけど、元気みたいでよかった)
 ティナやガルド夫妻が問題ないと判断し、外出を許したということだろう。何もなくて本当によかった。
 でも本当に何もなかったわけではない。
 廃工場地区の地下の機構での出来事――あの時のリトスの姿。
 機構に反応していた彼女のことは、誰にも話していない。さきほどのリトスはその気配すらなく笑っていた。記憶の混濁が起こって覚えていないのかもしれない。
 でもその顔が、なんだか自分を隠す仮面みたいに思えるのはどうしてだろう。
(やっぱり、様子を見に行こう)
 手紙は部屋の机の上に置いて、上着を着る。少なくとも午前中、店は忙しい。アダムが様子を見に来るのは、昼食をとる昼過ぎだと思われた。それまでに帰ってくればいい。
 一応、そっと店の様子を伺っておくことにする。
 ノアがするように窓を開け放し、部屋の中に風を取り込んでいる。途中になっていた床はすべて拭き終えてくれたようだ。親方の机の上にはすでに道具が広げられていて、いつでも仕事が始められるようにしてある。おそらくいまは表を掃いているのだろう。
(おれがいなくても……まあ、そうだよな。弟子がいない時は親方が全部ひとりでやってたんだし)
 なーんだ、と思った。つまんないの。
 大人の親方に張り合っても仕方がないのだが、自分が毎日やっていることに意味がないように感じて、あまりいい気持ちがしない。
 長くここにいると親方と出くわしそうなので、そっと裏から出て行くことにした。
 頭の中に地図を浮かべる。毎日郵便を出す人がこの街には何人かいる。シャルルなら、郵便を配達しつつ預かる、最も効率のいい道を辿るはずだった。
 朝の街も賑やかだ。街から街へとつなぐ馬車が乗り入れ始めるからだ。早い店はもう開店しているし、朝食を食べられる店は盛況だ。飲食店が多い道には珈琲のいい香りが漂っている。
「あら、セザンさん。今日はトーストをもう一枚食べるの?」
 そんな声が聞こえて歩調を緩める。
 露天の机で朝食を食べていた男が、店員の女性に苦笑されている。だが男の顔も渋々といった様子だった。
「さっきの子にやったからな。あんなにきらきらした目で『おいしそう』なんて言われたら、やらんわけにはいかないじゃないか」
「あれはセザンさんも『ここのトーストは世界一だからな』って言うからでしょう。でも、おかげでお客さんが入ってうれしいわあ。追加のトーストは、おまけさせてもらいますからね」
 ノアが周囲を見回すと、たっぷりチーズをかけたトーストを楽しんでいる人たちがいる。この店の看板料理だ。
 その前を通り過ぎてしばらく行くと、今度は店の看板を磨いている少年がいる。中から出てきた女性がそれに声をかけた。
「あら、ありがとう! とっても綺麗になったわね。もうこれで『何屋さん?』って聞かれなくて済むわね」
「母さんが悪いんだよ、店の看板くらい磨かないと。あんな通りすがりの女の子に馬鹿にされて」
 いやいや手伝わされることになったのか、少年は不満そうに母親を振り返っている。それに母親は苦笑を返した。
「馬鹿にしたわけじゃなくって、不思議に思っただけだと思うわよ。たしかに他のお店と比べてくすんでたし、しばらく磨いてなかったもの。父さんが留守にしてると、どうしても行き届かないところが出ちゃうのよね。だからあなたがお手伝いしてくれて助かった。遊びに行くところだったのにごめんなさいね」
「ふん! た、たまには手伝ってやるよ。父さんがいない時に限るけどな!」
 笑っている母親は内心でしめたと思っているにちがいない。この街の男は、女性たちの手のひらで転がされる運命なのだ。警告してやりたいが変な人にはなりたくないので、心の中で詫びておく。
(っていうか、こんなにどこを通ったか分かりやすいってある?)
 なんでも興味を示して口に出してしまうリトスと、お守りをしているシャルルの苦い顔が目に浮かぶ。
 彼女に翻弄される人々は、不思議と嫌な気持ちにはなっていないようだ。いつもより少し違う一日の始まりを迎えたというように見える。
「郵便屋さんいらっしゃあい! てがみ! てがみ、ちょうだい!」
 少女の声がして足を止める。
 小さな女の子が、跳ねるようにして配達人に手紙をせがんでいる。
「はい、どうぞ!」
 きゃあっと少女が歓声をあげた。
「ありがとう! おかあさん、はい! あげる!」
 受け取りたかっただけだったらしく、彼女は母親に手紙を渡すと、ぱーっと家の中に走っていってしまった。若い母親は苦笑いだ。
「いつもありがとう、シャルル。そっちの子はお友だち?」
「はい。何か手伝いたいって言ってくれたんで、一緒に回ってるんです。だからいつもより遅くなってすみません」
「こんにちは、リトスです。玄関のお花、とってもきれいですね! ほかのお家よりもお花がいっぱい。お家の中もそうですか?」
 その言葉に、母親は目を丸くして相好を崩した。
「まあ、ありがとう! 私は花が好きで。大事に手入れしてるから、褒めてもらえてうれしい。もちろん家の中にも花を飾ってるの。よかったら何本か持っていく? ああでも荷物になるか……」
「だったら、また今度来てもいいですか? このきれいなのを、見せたい人がいるの」
「もちろん! お菓子を用意して待ってるから、ぜひみんなで来て。シャルルもね」
 ありがとうございます、と礼儀正しくリトスが頭を下げた。シャルルはにっこり「うわあうれしい! ありがとうございます」と歓声をあげる。
 二人は辞去の挨拶を口にして、玄関を離れた時だった。
「郵便屋さん! とちゅうまでいっしょに行くー!」
「じゃあ、そこの角まで競争だよ!」
 家から飛び出してきた少女とリトスは競い合って駆けていき、遅れてシャルルがやれやれと後を追う。その様子を、仕方のない子と呆れて笑って母親が見送り、通りすがりの人々が微笑ましそうに眺めていた。
 追いかけようとしたけれど、ノアの足は動かなかった。
 多分、この先でもリトスはにこにこと楽しそうに笑って、配達先のいろんな人と話をするのだろう。そんな彼女の天真爛漫な言葉に、みんな心温められていくのだろう。そんな風に想像することができる。
(おれ、なんで焦ってるんだろう)
 胸の奥がざわざわする。リトスの楽しそうな姿のせい? 自分がいないのに笑っているから? 今すぐそこに行かなくちゃと思うのに、行けば何かが壊れてしまう予感がする。きっとリトスは笑って自分を迎えてくれるだろう。でも、それじゃだめだ。
 みんな笑っている。笑顔を向けてくれている。
 でもそれがどうして――おれじゃないんだ?
「っ……!」
 ずきん、と肋骨の奥に痛みが走った。めまいがして思考がぼやける。
 いま一瞬、リトスの姿を自分に入れ替えた――リトスのいるところを奪うみたいにして。
 頭を振る。きっと殴られたせいだ。まだどこか悪いのだろう。だからこんな変なことを考えてしまうのだ。
「……一日寝ればきっとよくなる。うん、そうだ、そうにちがいない」
 駆け足で工房に戻る。額に風を受けるけれど、全身が嫌な汗でべたついて重い。
 なんとかこっそり裏から工房の敷地内に入り、息を吐く。
 がはは、と笑い声がして、店を見やった。どうやらお客がいるらしい。応対をしていると親方の仕事の手が止まってしまう。店の中に入ろうとして、声の主がアダムの仕事仲間のダートレイだと気付く。酒好きの調子のいい錠前師だ。この時の会話も遠慮がなかった。
「ついにノア坊に逃げられたか!? お前、顔が恐いもんなあ。声もでかいし。怒ると鬼みたいだし。なあ、別に無理に弟子を取らなくてもいいんじゃないか? お前一人でもやってけるだろ?」
「……まあ、そうだな」
 がつん、と頭を横から殴られたような気がした。
 そのまま、ふらふらと後ずさりして離れに帰る。
 衝撃を受けている自分に驚いた。それに気付くと、乾いた笑いが漏れる。
 分かっていたじゃないか。自分は別に必要ないって。自分がいなくとも親方は困らないし、むしろ、ここにいる方が邪魔になるかもしれないって。
 視界が滲む。
「頭、痛……」
 小さく呟いて目を閉じる。でも、眠れば明日が来てしまうのだ。自分が必要ないと知りながらそこにいなければならないなんて、どれだけ絶望だろう。乾いた笑いは、しばらく止まらなかった。

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