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人々が集まる広場から離れ、祭りによっていつも以上にひっそりとしている廃工場地区へ行く。二人ともずっと黙ったままだったけれど、不思議と居心地が悪いということがなかった。冷たくも暖かくもないリトスの手は、言葉以上に何かを伝えてくれようとしていたから、それを読み取るのに必死だったせいもあるだろう。
立ち入り禁止の札とロープを乗り越え、地下へ降りる。調査のために足場が組まれ、これ以上崩れないよう補強が施されていた。湿った土と、錆びた金属のにおいがした。地下に吹く風が、かすかに吹き上げてくる。
(音が……)
なのに、吸い込まれていく。
わずかに先に行くリトスは、そうやって進むごとに、少しずつ人間らしさを削いでいくみたいに思えた。細い背中が鋭利になって、さらさらした髪が硬質な作り物になっていく。
でも、彼女の〈音〉はずっと歌っていた。子守唄みたいにゆっくりと、語り聞かせる音色を鳴らしている。今行くよ、もうすぐだよ、と言っているように思えた。
地の底にたどり着くと、あの時見た扉がそのままになっている。
その正面にリトスが立った。
手のひらを正面に向けて、腕を伸ばす。すると、何かの力が発せられたかのように、がちり、と鍵が外れる音がした。
そして、ずずず、と引きずる音とともに扉が左右に分かれ、前に長い通路が現れた。
リトスの手が、離れた。
息を飲んで見つめるしかないノアがあっと思った時には、彼女はもう進み出している。走らないよう、少し足を速めて後を追った。
「世界機構」
「……え?」
聞き返したのは、リトスらしからぬ、まるで少年のような声だったからだ。
「世界中のみんな知っていたことだったけれど、いまはそうじゃないみたい――ねえ、この世界が、時計や自鳴琴のような機構でできているといったら、ノアは、信じる?」
前だけを見て振り返らずに、リトスが尋ねる。
だが、答えは必要なかったらしい。続く言葉が静かに響く。
「この世界がどうやってできているかをたしかめるために、たくさんの人たちがかかわっていたの。調査が進むごとに、こうやって通路や扉を作ってね。その鍵は、国のえらい人たちが管理していた。国ごとにこんな通路があって、みんなが、世界のひみつを解き明かそうと必死になっていた」
ごお、ん……と、遠くで鐘のような〈音〉が響いてきている。
「だから、すべての鍵を開くことができるわたしたちを手に入れようする人たちが現れるのは、仕方のないことだったと思う。人間と変わらないようにものを言うわたしたちが、人間じゃないって言い聞かせるみたいに、〈ロストハーツ〉って名前をつけて……」
心がない。だから道具のように扱っていい。そんな風に考えた輩の名称だったのか。
道の先に、ほのかに明るい場所が見えた時、彼女は半分振り返り、微笑んだ。
「『おれたちと同じ肉体じゃないからって、リトスが生きていないってことにはならないよ。おれたちだって、自分がどんな機構で動いているのか、分からないんだから』――こんな風に、言われたことを正確に再生できるようなわたしだけれど、ノアが言ってくれたこの言葉が、すごく、すごくうれしかった」
りん、りりん、と、リトスの〈音〉が喜びを歌う。
「だから、わたし、思ったの。ノアの――」
その続きは破裂音にかき消された。
微笑みが鋭い警戒に塗り変わり、ノアは押しのけられ、体勢を崩した彼女とともに地面に倒れた。
煙い。あまり嗅ぎ慣れないけれど知っている。
(火薬)
ノアはすぐさま身を起こそうと、リトスを抱えながら襲撃者を見た。そして、愕然と動きを止めた。
「ルース……!?」
その手で短銃を突きつけながら、ルースは泣きそうに笑った。
「動かないで。お願いだから。それから、リトスを渡して」
ノアの腕の中で、リトスはぐったりとしていた。手には、撃たれた肩の傷から染み出した赤紫色の液体がべったりとついていた。臭わない、少しだけ滑るようなそれは油のような何かだった。
「リトス……リトス!」
なのにその色はやけに鮮明で、たとえ人間の血液でなくとも傷付いたのだということははっきり感じられた。
呼びかけるけれど、リトスは答えない。目を閉じてしまっている。
何が起こったのか分からない。ノアはこわばった顔で叫んだ。
「ルース、どうしたんだよ。何してるんだよ!」
「リトスをヴォーノに渡さなくちゃならないんだ」
突然何を言いだしたのかと呆然とする。
さっきまで穏やかで微笑みを浮かべていたはずのルースの顔は、みるみる険しく、泣き出しそうに歪んでいった。
「師匠の工房。手放さなくちゃならなくて。借金が、かさんで」
工房が立ち行かなくなるのはよくあることだった。伝手に借金をしてなんとか回しているところばかりだ。どこかに統合されるかして生き延びることもあるが、潰れるところもやはり多い。
「でも、ルース。お前の作った布が評判になったって」
「あれ、詐欺だったんだよ。商品とお金持って、逃げられた」
情けない、という顔をして、怒りを滲ませた鋭い言葉でそう説明する。
「だから、この街で一番お金を持っているヴォーノに、借金を頼んだ」
それでルースがどうしてこんな行動に出たのかを理解する。
「……その対価が、リトスを連れていくことだっていうのか? よりにもよって、どうしてあいつなんかに頼んだんだ!?」
「僕だって頼みたくなかった!!」
二人の怒声が、通路に反響する。
ルースの滅多に聞くことのない怒鳴り声に、ノアは口を閉じざるを得なかった。
「だって仕方ないじゃないか! 苦しいのはどこの工房も同じだ。僕なんかを雇ってくれた師匠(おんじん)を助けるためには、あんなやつでも頭を下げるしかなかったんだ!」
ルースの頬に涙が流れる。
想像は、できた。ルースがサリーアに恩を感じていることも、自分の作ったものでようやくその恩が返せるという気持ちになったことも。その後甘い話に乗ってしまった自分の甘さへの怒りと後悔。悔しさ、恥ずかしさ。申し訳なさで死にたいだろうこと。それをずっとみんなに黙っていた心苦しさ。
「どうして……教えてくれなかったんだよ……」
泣きたいのはノアも同じだった。みんな、教えてくれない。大事なところで頼ってくれない。何もできないかもしれないけれど、それでも力になりたいと思うのに、話してもくれないなんてずるい。
(仲間って、なんだろう)
自分は、中身が空っぽの容れ物を仲間と呼んでいただけだったのか。
かつん、と音がして、はっと顔を上げる。
ルースの背後から長身の影が現れる。目深にかぶった帽子。銀色の髪。
「リエルト……」
「よう、坊主」
なんでもないように言って、震えるルースから銃を受け取ろうとする。だが、なかなかうまくいかない。ルースの指がこわばって銃把を離すことができないのだ。
それを笑って見逃すと、リエルトはこちらに近付いてくる。
「〈七番目〉を渡せ、坊主」
「嫌だ」
反射的にそう言って、抱えたリトスを遠ざける。
「……あんた、いったい何がしたいんだ? リトスのことを狙っているくせに見逃したかと思えば、ヴォーノの味方もしてるのか? リトスのことを、どうするつもりなんだ」
「お前には関係――」
次の瞬間、リトスががばりと起き上がった。
きいいいん、と甲高い音がした、かと思ったら視界の端に何かが飛んでくるのが見えた。
(羽!?)
部品に取り付けられる五枚羽が、回転しながらリエルトめがけて飛来したのだ。
リエルトはそれを知っていたかのように、あっさりと避けた。しかし、その足元めがけて、ばんばんばん、と三つの銃弾が放たれた。
「お前」とリエルトが銃を構えたまま膝をつくルースを振り返った。
リトスが叫んだ。
「ノア、走って!」
「ごめん、ノア。リトス。ごめん。ごめん。ごめん……!」
「ルース……!」
「ノア! はやく!」
追い立てられて、ノアは走った。わずかに遅れてリトスが付いてくる。
だがすぐに追いつかれるだろう。
その時、通路に声が破れ鐘のような声が響いた。
「――俺たちにはもう世界は救えない!」
ルースを足蹴にしたリエルトが、目を感情に燃やし、吐き捨てるように声を響かせた。
リトスはまるで撃たれたように彼を凝視した。そこに彼以外の何かが見えるかのようだった。
「誰も救えない! この世界は終わる! リエラを殺した時にすでにこの世界は終わったんだ――!」
リエルトの目の前で、二枚、三枚と次々に扉が閉まっていく。追いかけようとした彼の足元に、ルースが飛びついたのが見えたのが、最後だった。
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