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 ノアはふらりと身体を揺らし、けれど首を振って、汚れた頬や目元を拭き取った。そして大きく深呼吸をして、自らの足でその時計塔を降りる。
 階下ではざわざわと音がしており、激しい靴音が近付いてくるところだった。降りる途中、その二人と出くわした。
「ノア!」
「ノア! だいじょうぶ!?」
 声が反響する。
「エリック、ティナ……」
 階段を駆け上ってきたらしい二人は、肩で息をしながら降りてきたノアを見上げた。
「シャルルが、時計塔のふちにノアが見えるっていうから、急いで来たのよ。それから街の人が、ルースが廃工場後の近くで倒れてるって教えてくれて、シャルルがそっちに行って……ねえ、リトスは……」
 言いながら、ティナも分かっていたのだろう。不安げに言葉を切って、ノアの答えを待った。
 ノアは、大きく息を吸った。
「ちゃんと話すよ。何があったか。過去のことも、それから、未来のことも」
 だから行こう、と二人を促した。

 広場は、祭りの喧騒と異変の混乱とで、少し渾然としていた。祭りの運営に携わっている大人たちが、少し焦った様子で走ったり話したりしているのが見える。時計塔から降りてきたノアたちとすれ違って、職人たちが時計塔に入っていく。
「お前ら、上で何があった? 余計なもんいじってねえだろうな」
 一人にそう強く凄まれ、ノアは答えた。
「後で説明に行きます」
 彼らが階段を上っていくのを見送ると、不思議な一団が広場に入ってくるのが見えた。口うるさいと有名な教会の人たちで、中心には、白い服を着た、怖い顔をしたお年寄りがいる。アダム親方とは別の意味で子どもが泣き出しそうな顔だった。
 誰だろうと思っていると、彼らはこちらにやってきて、足を止めた。
「エリック、という者は誰だね?」
 そのお年寄りの問いかけは、やっぱり気難しそうな声だった。どう答えようと思っていると、エリックが前に出た。
「俺です」
 お年寄りは、頷いた。
「お前の告発文を読ませてもらった。内容が事実ならば、調査が必要だ。後日、調査官が派遣されるだろう。選挙は中止される。お前が望むように、罪を犯した者が街の代表になることはあるまい」
 その言葉が意味するところを理解するまでに、しばらく時間がかかった。
 やがて自分たちの目的が達成されたことに「やった!」「エリック!」と歓声を上げるノアとティナだったが、エリックは呆然としていた。全身を震わせて、「どうして……」と言っている。そこで、はっと顔を上げた。
 立っているのは、クレス・バートンだった。
「バートンさん……ヴォーノ側なのに、どうして」
「ええっ」
「しっ」
 ノアはぎょっと大声を上げたが、ティナに制されて口をつぐむ。
 クレスは、エリックの問いに、照れ臭そうに頬をかいた。
「あはは、大変だったんだよ。そこいらを歩いている人たちにちょっとお小遣いを渡して、破られたものを全部貼り合わせてもらったんだ。なんとか読める形に戻ってよかったよかった」
「…………」
 エリックがじっと見つめるのに、彼は笑いを納めて、静かに言った。
「……雇い主に逆らうなんて、自分でも、らしくないなって思ったんだけど……でも、君が一生懸命だったことはあの時だけでもよく分かったし、やったことを踏みにじられてしまった時の気持ちが、私にはよく分かるから」
「っ……、ありがとうございました!」
 言葉を詰まらせたエリックが、そう叫んで頭を下げた。声が震えていて、何かあったようだったけれど、きっと後で話してくれることだろう。
 すると、それを見ていたお年寄りが彼らに声をかけた。
「クレス、お前からも後で事情を聞きたい。首を突っ込んだのなら、最後まで面倒を見てやらねばならんぞ」
「それは、はい、もちろんです」
 老爺は、エリックをじっと見つめた。
 深い目は、青い色をしていた。
「……ふん、この少年はなかなか見所がありそうじゃないか。お前とは違って、ずいぶん利発そうだ。悪賢そう、とも言うがな。じきに調査官が来るが、困ったことがあったら私に連絡をしなさい。私は、聖皇都のハーヴェイスという」
「――はい。ありがとうございました」
 エリックが再び頭をさげるのに、ノアとティナもならった。クレスとハーヴェイス、そして教会の人たちは去っていき、それを見守っていた人々も、何があったかをだいたい悟ったようだった。
「あっ、シャルルとルースが来た!」
 そう言ってティナが駆け出して行く。その先には、シャルルと、顔を腫らしたルースがいた。ルースは、ノアの顔を見た途端、涙を流して肩を震わせた。
「ルース」
「ごめん。ノア。ごめんなさい」
「もういいんだ。おれもルースの立場だったら、同じことをしていたかもしれない」
 それよりも、とその肩を叩く。
「みんなに話したいことがあるんだ。たくさん、たくさん……」


〈動かない時計塔〉が、再び動き出したその日のことを、ノアはずっと覚えている。これからも忘れることはないだろう。傷付いた顔をしていたエリックが寄り添ってくれたことも、ティナが涙をこらえて時計塔を見上げたことも。駆けつけたシャルルの難しい顔。ルースが殴られた頬を腫らして、気まずそうにしていたこと。
 仲間と喧嘩し、すれ違い、仲直りをした、大事な仲間がひとりいなくなってしまったあの日。
 それは、未来への針を進めることを決めた日だった。

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