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「うっ、わぁ……階段ってこんなにきつかったかなあ……」
螺旋階段を登りきると息がきれて動けなくなった。昔はもっと軽やかに登っていたような気がするのだが、運動不足か、それとも身体が重くなったのか。これでも旅慣れしたし、力仕事を経験したおかげで、かなり鍛えられたつもりだったのに。
見晴らしのいいところまで出る。風は、春の匂いがしていた。色んな土地にいって、空気には匂いも色も味もあることを知った。そして、この機工都市の春の風は、甘いパンや料理の香り、少し湿った緑、金属のにおいがするのだ。
「……結構、変わったなあ。あんなところに家、建ってなかったよな。廃工場地区はちょっときれいにしたみたいだな」
十年前よりも街は広がっており、新しい家と古い家が混在しているようだ。手付かずにしていた廃工場地区は、崩落の危険性があるから手を入れることになっていたはずだった。
ここに来る前に、あの地下通路の入り口に寄ってきた。そこはもう立ち入り禁止になっていて、二人で駆けたあの通路を見ることはできなかった。もし入ることができたとしても扉が閉ざされていることだろう。ノアの今の腕なら、時間をかければ解錠することはできるかもしれないが、そこまでしてこの街を騒がせたくはなかった。
今、この機工都市を包む〈音〉は、心地よく穏やかだった。不愉快な軋みも、壊れそうな揺らぎもない。街に響く不安そうな〈音〉は、なだめられてゆったりとした〈音〉に包まれているようだ。
(おれの街。おれのふるさと……)
この懐かしい〈音〉が響くこの街を、これからも。
祭りの日の後、ノアは放りっぱなしにしてあった手紙の返信にようやく気付いた。後で渡そう、後日にしよう、そう思ってあの別れだった。
リトスからの手紙は本当に他愛ないものだった。
『ノアへ。
こんにちは。リトスです。ノアはいま何をしている? わたしは今日、つばめのひなを見ました。とってもかわいいの!
つばめは、幸せをはこぶ鳥だとききました。つばめがたくさんいるから、この街はとっても幸せな場所なのだと思います。
追伸。
今度、お花を見に行きませんか? お花がいっぱいあるとってもすてきなおうちの人となかよくなったの! お母さんのシェリーさんと娘のリタちゃんがかんげいしてくれるって!』
そのシェリーとリタの家へは、シャルルに連れられてみんなでお邪魔した。あれが全員で集まることができた最後だったはずだ。リトスが遠くへ行ってしまったことを告げると、察したらしいシェリーから花束を受け取った。それをみんなで〈動かない時計塔〉の足元に置いてきたのだった。
その時に手紙も添えればよかったのかもしれないけれど、できなかった。もう一度戻ってくることを決めていたからだ。
ノアは鞄から、小さな箱を取り出した。
「……おれの声はもう聞こえないかもしれないから、こういうものを作ってきたんだけど……この〈音〉が聞こえるといいな」
ねじを巻き、蓋を開く。
金属の歌が流れ始めた。
ノアが〈音〉を聞きながら作った、語りかけるための自鳴琴だ。時計塔の縁に腰掛けながらそれを聞く。
「手紙の返事、出せなくてごめん。今更だけど、これが返事」
――君が安らかでありますように。君が幸せでありますように。君のことがだいすきだよ。君のことを想っているよ……。その言葉をくりかえし歌う。
リリエンタールに会ったノアは、彼に頼まれて、他の〈ロストハーツ〉の行方を捜していた。次は学術都市に行くつもりだ。きょうだいたちの破壊を望んでいるリエルトとは、いつか再び会うことになるだろう。そうしている間に、リリエンタールやその周りの人たちが世界機構の取り扱いについて議論を重ねている。将来的には、技術者を募ってこの世界を修理するようになるはずだ。
先は長い。ノアが生きている間には成し遂げられないだろう。ただ、自分や、過去の人々、そして未来の人たちが一緒になって、時間をかけて作り上げるものがあるのなら、その一部になりたいと思う。
みんな、何かの一部なのだ。ねじや歯車みたいなもの。それを組み立てるとき、人との出会いや誰かの言葉が設計図になる。そうやって完成したものが、未来へ進むための鍵や時計になる。時を進め、新たな扉を開く。
「リトス、聞こえる? おれ、ここにいるよ。いまもこの街が好きだよ。君が守ってくれた、この街が一番大好きだよ」
おれ、もうひとりじゃないよ。
――り、り……ん……。
かあん、かあん、かあん、と鐘が鳴り響く。突然の音にびっくりしたノアは慌てて耳を押さえて衝撃から逃れた。そして音が鳴り止む頃、まじまじと鐘楼を見上げて、ふっと微笑した。
「……ありがとう」
願うことはひとつ。
――君とおれたちの世界が、あともう百年、続きますように。
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