ぼくの家にはアルパカがいる。拾ってきたわけじゃない。むかしから家にいた。何故アルパカだと分かったかというと、買い与えてもらった動物図鑑に載っていたからだ。あのふてぶてしい顔。笑っているように見えるくせに、なんだよコラ……というめんどくさそうな表情を作っている額の具合。だから、ぼくにとって、やつはアルパカでしかなかった。
草食動物らしいので主食は草。でもものすごく好みにうるさい。どこでも生えているような草じゃなくて、きちんと育てられたという「実績」を持つ草が好きなんだそうだ。夏休みの行事で草刈りがあって、せっかくだからと運動場で大量に刈ってきた草を持っていくと、やつは「ぺっ」と音を立ててぼくを唾まみれにした。
やつの唾はとんでもなくくさい。二三日たってもにおうほどくさい。夢のなかでうなされるほどくさい。現実でない場所でくさいなんて、ある意味すごい。気に入らないとすぐ唾を吐くので、おかげで服を何枚もだめにされた。つばを吐きかけられた服は、結局処分するしか道はないのだ。
むかしから家にいて、とんでもなく自由だった。昼まで寝て、飯を食ってそれから散歩に出掛けて、夕飯前に帰ってくる。眠るところは居間の暖房、季節によっては冷房の前。タイマーのセットはぼくにさせる。あのもっさりした手は、機械という近代文明を拒否する。飯は、きちんと皿の上に料理として盛りつけなくてはだめ。おかげで料理の腕があがった。
気が向いたときに、アルパカはぼくを外に連れ出した。「ごちそうを食いにいくぞ」というのが名目だったが、ぼくの主食は草じゃない、米だ、あのまっしろいかがやきなのだ、と主張しても、一向に聞いてくれなかった。やつはそこここで立ち止まっては、もそもそと草を摘んだ。そして、ぼくに餅米を焚かせるのだった。
誰も育ててない草じゃん、と文句を言うと、「地球が育ててるじゃないか」とへりくつを言った。
大きくなると、付き合いが増えて、我が家の当然が当然じゃなかった、なんてことがよくあるけれど、ぼくは幼心にアルパカがいることがおかしいと気付いていた。でも別に害はなかったし、くさい唾を吐く意外は平和だった。
アルパカが起きる時間が早くなってきたなあ、と、不意にぼくが気付いたのは、ぼくが大学生になってからだった。アルパカはぼくが六時に起きるとすでに起きていて、「おはよう」というと「フーン」と鳴いた。挨拶くらいしろと思って支度をしていると、ぱかぱかとやって来てぼくを見下ろした。
アルパカの身長を知っているだろうか。約二メートルある。そのひょろ長い首と、あの情けない顔で見下ろされると、妙な威圧感とまぬけ感がある。
「なんだよ」
「学校、楽しいか」
「別に。普通」
「そうか」
ぼくは朝に弱い。それでもさすがにちょっといい加減な返事だったかと反省した。
「早いんだね」
「まあな」
「いつ起きてんの」
「日が昇る前だ」
「そんな時間に起きて何してんの?」
「体操。それから新聞を読む。今日はお前の大学の教授が載っとった。なんとかいうプロジェクトを立ち上げたんだってな」
「ああ、宇宙探査プロジェクト? うちの大学の優秀な学生を集めて、宇宙探査メンバーにするんだって。冥王星の向こうに行くんだとか」
「行かんのか」
「はあ?」
何を言うんだアル“バカ“。
「単位認定すれすれの底辺学生には無理ですよーっと」
時計を見るともう七時前。電車に遅れる。いってきまーすと叫んでぼくは家を出た。
アルパカが余計な話をするから、満員電車で両手でつり革に掴まりながら、宇宙探査プロジェクトのことを考えていた。
そのむかし、宇宙に行きたいと夢見ていた子どもがいて、その子どもは必死になって有名大学に合格したけど、結局はそこで落ちこぼれたという話がある。宇宙探査プロジェクトは、その有名大学が打ち出した、生徒集めのプロジェクトだった。それにぼくという子どもは引っかかったわけだ。
なにしてんのかなあ、と、教科書もろくに入っていない軽い肩掛け鞄を思った。ほんと、ぼく、なにしてるんだろ。
学校を終えて帰宅すると、アルパカがぼんやりテレビを見ていた。ぼくが居間に入って鞄を外しながら時計を見ると、もう九時を回っていた。
「まだ寝ないの?」
「フェーン」
適当な相槌を打つから、ぼくはさっさと冷えた夕食を温め直して食べた。さてアルパカは何を見てるんだろうとテレビを見ていると、有名なベストセラー小説の映画化作品が放映されていた。
「あのな」
「うん」
「あの絵本な、本当なんだぞ」
ぼくは箸を銜えて、きょとんとテレビを見る。
そこには小さな少年が、手作りの絵本を持って、森の中の工場跡に座っているシーンが映っていた。
「宇宙の果てには、あの星があるんだぞ」
「…………」
「いなくなったやつは、みんなあそこにいるんだ」
アルパカは遠い目をした。ぼくは、温めきっていない冷や飯を噛んだ。そして、アルパカは何を食ったのだろうと考えた。
アルパカは、いつの間にか柔らかいものを好むようになった。次の日の食事はきれいに放射線状に盛りつけてみたのだが、それを五時から七時分だけ食べて、「フーン」と鳴いて寝そべってしまった。
「食欲ないの?」
「フーン」
「最近元気ないね」
「そうでもない」
「病院行く?」
「病院は好かん。寝てれば治る」
ある日、いつものように家に帰ると、アルパカはいなくなっていた。代わりに、もこもこの毛もない、耳もない、しわしわのお年寄りが、布団の中で冷たくなっていた。
朝方起きていたくせに、もう一度きちんと布団に入り直すとは、律儀なやつだ。
きちんと目を閉じているのに、垂れ下がった目と太い眉と眉間の皺と少し笑った口元が、相変わらずまぬけ面に見えた。
あのぺっと唾を吐く音も聞こえないのだ。子どもの頃、それが嫌で嫌で仕方なかった。でも、ぼくが田舎に来て、学校のがき大将にいじめられていた時、やつがやってきて唾を吐いた。もちろん引っ掛けるつもりはなく、目の前でガラ悪くぺっと吐いたのだ。更にあの巨体で無言でいられたら、がき大将たちは竦み上がるしかなくて、あっという間にいじめはなくなった。「仲良くしろよ」とくさい一言が聞いたのだ。
洋服が欲しいと言えなかったぼくは、すり切れた服を着続けた。やつはそれをわざと汚れ物を拭くのに使っていた。だから、ぼくは新しい服をいつも着せてもらっていた。
好き勝手に野山を歩き回ることもなくなり、草ばっかり食べることもないのかと思った。家庭菜園の野菜は、このまま放置されることになりそうだ。無農薬にこだわり続けた頑固者。狭い庭を一面畑に変えた。
家にアルパカがいることがおかしいとは思っていた。アルパカがいるのがおかしいんじゃない。ぼく一人が、ひとりで暮らしているはずのアルパカと一緒にいるのがおかしかったのだ。
ぼくと、アルパカ。
いなくなると、妙にそれらが思われてならなかった。
葬式の最中、集まった親類、近所の人々を眺めながら、持ち物の山をどうしよう、と考えた。財産分与うんぬんで出張る親戚関係が面倒そうだった。しかし結局は、役に立たない山だということでぼくに譲られた。ぼくは、アルパカの家をもらったのだ。
だからその家は、いつまでもぼくとアルパカの家だ。
大学でぼくを呼び止めたのは、教授だった。あの宇宙探査プロジェクトを打ち出した、有名な先生だった。先生はぼくのレポートを読んだと言い、いつもあんなことを考えているのかと聞いた。
「あんなこと?」
「自分たちの本当の姿は、もしかしたら私たちの目に映っているものじゃないかもしれない、ということだよ」
落書きみたいな、ほら話のレポートを思い出して、ぼくは恥じた。
「すみません、あれは……」
「理系というより文系のようだね、君」
くっくっくと教授は喉を鳴らす。
「しかしどうも真実味があった。ちょっと興味が出てね。気が向いたら私の研究室においで。また話をしよう」
真実味はあるに違いない。ぼくの家にはアルパカがいたのだから。
「先生」
「ん?」
「宇宙のどこかに……」
いなくなった人たちがいる星があると思いますか。
そう聞こうとして、止めた。
「……見る人によって違う姿を持つ生物がいると思いますか」
教授は手を振った。
「人間によって想像されることは、この世のどこかで起こりうることだ。それが宇宙に当てはまるかは、確かめてみないと分からんがね」
アルパカはどこかの星にいるのだろうか。あの、名前も忘れてしまった、物語の星に。
プロジェクトの講義を聞きながら、ぼくはアルパカについて考えた。
あの山は、きっとこのままでいいだろう。だって、『地球が育ててる』んだから。
春になったらよもぎを摘んで、餅をつくって、供えてやろう。
どこかの星にはアルパカがいる。ぼくのおじいちゃんだったアルパカが。