レイラは海の住民だ。甘く温かい潮の香りのする海辺の街に住んでいる。常にその街の港には船が着き、様々な人が訪れる。肌の色の黒い外国人、髭をたくわえ頭に布を巻いた男、パニエで膨らんだ時代錯誤なドレスの女性や、身体周りにぴったりしているのに袖だけが長く垂れているような衣装の女性もやってきた。いつでもここには世界の縮小図があり、けれども中継地点でもあって、決して世界にはなれない場所だった。
レイラはそんな街の、船乗りの父親の娘に生まれた。父親の航海中に母親が病死し、親切な隣家の女性に面倒を見てもらって、ようやく帰ってきた父に母の死を告げた。
父はけれど決して街に留まれない人だった。海の街に生まれ育ったことがそうさせるのかもしれなかった。風は常に吹いて帆を膨らませ、波は常にゆりかごのように揺れて、人の心を連れ去っていく。父は、小さな世界を必死に広げるようにあちこちに船を出した。そして、多くの街の男たちはそうやって生きることが素晴らしいことだと思っていた。女たちはそれを、仕方がないわねと微笑んで、娘たちの多くは毎日魚を食べてはため息をつくのだった。魚の尾が生えて、愛しいあの人の海に泳いで行けたらいいのにと。
泣き暮らす友人に慰めの言葉をかける他の友人たちの輪から、半歩下がったところで、レイラは困った顔を一生懸命に押し隠した。友人には恋人がおり、彼がひと月も経たないうちに、また海に出るのだと聞かされたのだという。私と海とどちらが大切なのと質問をぶつけたら、すぐに返事が返ってこなかったと彼女は泣いている。
「そんなに泣くようなこと?」言いたい思いを言葉に変えて、何度も同じことを繰り返す、そして多分それに気付いていない友人たちに、レイラは呼びかけた。
「ねえ、海しか愛せない男なんて放っておきましょうよ。果てない世界に憧れる冒険心は、私も父がそうだったからよく分かるわ。でも、あの人たちにとって大事なのはそういう冒険心であって、私たちとの恋ではないはずよ。縋り付けば縋り付くほど、あの人たちは去って行ってしまうわ。降ろし続けた錨が錆び付くように。結んだ舫が風に解けるように」
「レイラ、あなたは恋人がいないからそんなことを言えるのよ。この街の男に恋をすれば、愛した人の港になりたいと思うのよ。翼を休めさせる止まり木になりたいのよ」
彼女たちとレイラでは、愛するという定義が少々違うようだった。レイラはこっそりため息をつき、鐘楼が時間を告げるのに顔を上げて、彼女たちから離れていった。
家に帰ると、部屋の中はすっかり暖まりきっていて熱いくらいだった。換気のために窓を開けると、椅子の上の人がぶるりと身震いした。
「うー……さぶい……」
「今日は暖かいくらいよ、叔父さま」
南に住んでいたという父の弟は、椅子の上で小さくなって窓に背中を向けてしまう。
「眠っていたということは、終わったの?」
のっそりと手が動き、部屋の奥を指し示す。日が落ちかけて暗がりになっているところに、キャンバスが一枚あり、肖像画が一枚あった。この街の領主の娘の肖像だった。
「まあ、そっくり。それにとても上品だわ」
「モデルがよくないね。つんと取り澄ましただけの気品のない金持ち娘さ」
レイラは呆れた。
「この街に住む許可をいただいたのに、そんなこと言って」
「僕は囲われるつもりはないんだ」
絵の具や画材はもらっているくせに、とは、レイラは言わなかった。代わりに、「今日は鮭を煮るわね」と言った。
叔父はこの街を十五になる頃に飛び出し、適当な船に乗って辿り着いた先が南方で、その南国で二十年過ごしたらしい。肌は最初に会った時と比べてすっかり白くなってこの国の人間という感じがあったが、レイラや街の住民に言わせると中身はかなり変わった人物ではあった。原色の服装を好み、頭には羽飾りをつけていたり、かと思うと見ただけで分かる黄金の腕輪をつけていたりした。ほとんど親しくない頃に、本当は鼻に穴を開けたかったんだけどと告白され、レイラは微笑むに留めたことがある。もっと幼かったなら喜んだと思うが、流石に鼻に穴は二つでいいだろうと思う年齢にはなっていた。
彼は船乗りなどまっぴらごめんだと言う人物で、家を好んだ。そこで何をするかというと、絵を描くのだった。極彩色で、人の形を様式化(と叔父は言った。どういう意味だろう)した絵が多かったが、普通の絵も描いた。よくある街の祭りでの一芸コンテストに数点の絵を出したところ、領主の目に留まり、お抱え画家として街に住む許可が下りた。それまで原始的な人間を見るような目をしていた人々は、そこでようやく、人間らしいものを見る目になった。
三十五にもなるのに、だから叔父はレイラの家に住んでいる。一人では生活できないと、叔父自身にも分かっているのだ。ただ誤算だったのは、兄であるレイラの父も数年前便りを途絶えさせていたたということか。
「レイラ。何か欲しいものはないかい? 明日絵を持って行くから、何か買ってくるよ」
「そうねえ……」
家を見回して、レイラは考え込む。暖炉の薪は十分。窓硝子も割れているものはない。カップも、二人だと割ることも滅多になく、お客もなかなか来ないので客用の皿はある。砂糖も塩もこの前叔父が買いすぎたものがたくさんあった。
「叔父さまのシャツでも仕立てましょうか。それとも靴になさる?」
「僕はレイラに何が欲しいかって聞いたんだよ」
叔父は鼻の頭に皺を寄せた。子どもみたいな顔になる。
「うーん、兄さんだったら、何を買ってきたかな……」
「父さんだったら……」
革表紙の本。異国の髪飾り。外国の花の種。父の記憶はさほど多くなく、思い出となるべきもらったものも残っているものはあまりない。でもきっと、ありきたりだけれど特別なものをくれただろう。贈り物だよと持ってきてくれるだけで、どんなものも魔法の品物のように思えた。
「そうね、それじゃあ、お砂糖にしてもらおうかしら。叔父さまの好きな桃のパイでも作るから」
完成した絵を片手に抱え、叔父は歩いて領主の屋敷へ向かった。レイラは家の片付けをしてから仕事に出た。大通りにある外国人相手に土産物を売る仕事だった。
外国人は言葉も違うこともあれば、通貨も違うことがある。大抵の人はこの街の人々と変わらなかったが、時々そういった困った人もあって、彼らと交渉するのが、レイラの役目だった。
そしてその日はあまり運のない日だった。頭から布を被った、濃い顔をした男が、聞き慣れぬ言葉をばらばらと喋ったかと思うと、品物を指差すのだった。レイラは大きな声で数をゆっくりと言いながら、値段の数だけ指を立てたが、男は首をひねって、手から指輪を引き抜いた。レイラの手を取ると、それを載せて、品物を掴んで行ってしまう。泥棒と紛う振舞いに、レイラは思わず「待って!」と叫んだ。だが、次の瞬間、目の前に同じ国の人間と思われる男が立ったかと思うと、ぎらりと光る刃物を向けてきたのだった。
ぎょっとした人々とともに、立ちすくんだレイラだった。レイラが息を呑むと、男はぎろりとねめつけ、刃物を収めて、お客の後を追って行った。レイラは呆然と、残された指輪を持ったまま、持って行かれた品物の代金を店主に払うしかなかった。
残された指輪は、薄汚れた輪にしか見えず、だから店主はこれを品物にせずにレイラに支払いを求めたのだった。
せっかく叔父の絵に給金がついたのに、とレイラは肩を落として歩いた。港は喧噪に包まれ、しょぼくれて歩いているとひっきりなしに人にぶつかられたから、前を向いて歩くしなかった。そうすると、胸が詰まってきた。
最悪なことに、目の前の道に、昨日は泣いていた友人が船乗りの恋人と寄り添っているのを見つけてしまった。眩く幸せそうな笑顔を見て、一瞬足を止めかけたレイラは強く足を踏みしめると、人の流れを渡って、人気のない方へと歩いた。
夕暮れには早い海岸は、波の音で満ちていた。たまたま散歩に訪れる人間もいないようだ。ただ人のいたという足跡だけが、波に呑まれなかった砂浜にいくつか残っている。沖に出ていく船が、段々と小さくなっていくのが見えた。今日は、街のどの男を乗せていったのだろう。どの娘の涙が海に落ちたのだろう。
幼いレイラの涙はどこに消えてしまったのだろう、と、少女のレイラは考えた。もうずいぶん泣いていない。大人になれば泣く暇などないのだと、いつしか考えるようになっていて、こうしていても落ち込んではいたが、泣こうとは思わなかった。泣いても、慰めてくれる人はいやしない。
(強くならなくては)
女としてこの街に生きるということはそういうことだった。泣き暮らして病を得るような女になってはいけない。涙を海に放り投げ、毎日を数えながら確かに生きていくことが必要だった。けれどもレイラには空虚感があった。完璧にはこの街の女になれないのだ。何故なら、レイラは船乗りに恋をしていないから。
父の消えた水平線を辿って行くと、砂浜との地平線の間に、小さな影があるのに気付いた。レイラが待ち構えると、やはりそれは叔父なのだった。
「やあ、レイラ」
空っぽの手を振って、叔父は笑った。
「肖像画はまあまあ評判がよかったよ。芸術性は理解してなかったみたいだけどね。今度は領主様を描けってさ。太ったじじいと向き合えって、ありがたくって涙が出るね」
「……またそんなこと」
「君を描く暇がないね」
いきなり言われて、レイラは目を見張った。
「あれ? 僕、言わなかったっけ。君を描きたいって」
「……聞いてないわ」
驚きのあまり胸をどきどきさせながら、レイラはようやく言う。あくまで飄々とした叔父は、どこか悪戯をするような態度で言い始めた。
「じゃあ、今言おうかな。レイラ、僕は君を描きたい。君の北国の女性らしい外見に潜む、内面に溢れている解放への思いを描いてみたい。世界の出入り口たる海辺の生まれた女性の、世界への渇望とか、ね。多分、君を描いた絵は僕の最高傑作になると思うよ」
うそぶいて、とレイラは笑った。まだ描いてもいないくせに。今にも、何故だか分からない雫が落ちそうな目を、めいっぱい優しく細めて。髪を押さえる手が不全に握りしめられている手を見て、叔父が首を捻った。
「ねえ、何を握っているの?」
「え、……ああ、ええ、指輪よ」
それにまつわる一切を排除して言うと、叔父はあんぐりと口を開けた。あまりの驚きように、レイラは思わずどうしたの? と尋ねた。途端、叔父はかんしゃくを起こしたようにわめき出した。
「どうしたもこうしたも……! まったく、レイラ、どこのどいつだ! 君にそんな指輪を贈ったのは! どうして教えてくれなかったんだい、そんないい人がいるって!」
「ち、ちがうわ! これは、いらないものだからってもらったのよ!」
ほらよく見て、と突き出すと、その指輪が薄汚れていることに気付いたらしい。ふうんと苛立ちが混ざった目をしながら指輪を取り上げた叔父は、ははあんと嫌味ったらしい声を出した。
「これは、硝子だ」
「硝子?」
「そう。見てて」
そう言って彼はしゃがみ込み、指輪を波で洗い始めた。曇りが落ち、指輪は次第に透き通っていく。塩で洗うとね、綺麗になるんだよ、と叔父は呟いた。
「家に帰ったら塩がいっぱいあるだろう。それで磨けばいいさ」
はい、とレイラの手を取ると、まだ薄く曇った半透明それを右薬指に嵌めた。あまりにも流れるような自然さだったので、指輪と彼の顔を見比べる。初心な小娘に見えたのだろうか、彼は楽しそうに笑った。
「硝子の指輪か。さしずめ、灰かぶり姫の指輪かな」
王子様が迎えにくるんだよ、と叔父は秘密めかした口調で言う。
「硝子の指輪がお姫様の指輪なの?」
「そうだよ、お姫様」
きっと南の国のお話だろう、とレイラは思った。それは、まるで叔父と出会う前の、ずっとずっと子どもだった頃に感じられるときめきを覚えさせた。
さあ帰ろう、と首を傾げたレイラに叔父は手を差し出した。
レイラに何が欲しいかを聞いたり、でも一人で生活できないからと兄家族のところへ転がり込み、結局は姪と二人で生活し、絵が売れたと喜んでレイラのために大量の砂糖と塩を買い込み、父が死んだということを聞いて可哀想にと残されたレイラのために泣いた叔父は、幸せにしてあげるからねと言った真剣さを思い出させる、それでも明るい笑顔で言うのだった。
「でも、叔父さんのお許しがないとお姫様は結婚できないんだからね」