終章 蒼天の恋歌

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 クルーザに帰港するとロイシア城の人々が揃っていた。衰弱していたオルフは人に支えられて立っていたが、騎士に付き添われて下船したギシェーラに気づくと転ぶように駆けつけた。
「ギシェーラ……!」
 強く彼女を抱きしめ、声にならない声で泣いて妻を掻き抱く。抱きしめられるギシェーラの目にも静かで熱い涙が光っていた。
「……ありがとう、」
 泣き顔のまま振り返ったオルフは、しかしプロセルフィナに呼びかける名を見出すことができなかったらしく、ただ唇を震わせている。
 プロセルフィナとギシェーラは見つめ合いながら互いに沈黙していた。触れれば壊れそうな美しくも険しい硝子の谷がそこにあるようだった。ごくりとギシェーラが息を飲み下したとき、プロセルフィナは言った。
「もう二度とお目にかかりません、ギシェーラ陛下、レスボス公爵」
 オルフがギシェーラを促す。ギシェーラは迷うそぶりを見せたが、結局手を引かれるままに足を進めた。このときになってプロセルフィナの胸には刃を突き立てられるような愛おしさと、柔らかく包み込まれるような憎しみがあふれてきた。
 もう会うことはない。かつて世界のすべてだったふたりを見るのはこれが最後なのだ。
 ご結婚おめでとう。お姉様。お義兄様。
 声にしたつもりはないのにギシェーラが動きを止めた。背中を向けているが抗いがたい衝動に襲われて震えている。彼女が呼べる名はない。何故ならその手で葬儀を行い、空の墓を建て、花を手向けて詣でてきたはずだ。
 だが爪を立てるその拳に触れる者がいる。
 オルフがギシェーラの手を包み込み、大きく頷いた。
 そうして寄り添い合うふたりは振り返らなかった。振り返れなかったのだと思いたかった。胸の中で泣くジゼルに、愛されていなかったわけではないと囁く。
(お姉様は眠れない私のそばにいてくれた。怖いといって泣く私を抱きしめてくれた。そうでしょう?)
 鏡は愛と憎しみを同時に映す。だから愛されなかったと思わないでいいのだ。
 去っていくふたりを見て、ようやく長い過去の喪失が終わったのだと思った。真の決別が果たされた今、ここから始まる。
 でもどうしてジークがいないのだろう。その思いは突き刺さった棘のように何かにつけて痛み、プロセルフィナは唇を噛み締めて涙をこぼした。ひとりになる、その本当の意味を知ったのだと思った。

       ・
       *
       ・

 その夢を覚えている。いつもならすぐ忘れてしまうのに何故かはっきりと。
 馬車に揺られていたプロセルフィナは門をくぐる振動に意識を覚醒させた。
 街に入ったのだとわかって窓の覆いをめくる。サンクティアは春を迎え、雪解けの花が開くように希望に満ちていた。受け入れられた難民がヴァルヒルムに根付き、街はますます活気を増している。文化の習合の歴史を持つヴァルヒルムだからこそ特に芸術方面での開花は目覚ましく、異国の楽器による聖歌の編曲や歌唱様式が生まれ、絵画や彫刻の分野でも新しいものが生まれている。
 そんなことを考えながら真っ先に自分の部屋へ向かうと、庭先に見知った顔を見かけて声をかけた。
「リアラ」
「わっ! まあ姫様っ! おかえりなさい。もう到着されたんですね!」
 言いながら手荷物を預かり、重いですわと笑っている。
「音楽院での生活はどうですか?」
「もう大変。課題が山ほど出るし、先生方は厳しいし……でも私には歌しかないから」
「またそんなこと言って。人が聞いたら怒りますよ」
 リアラは唇を尖らせて中へ入っていく。アリサたちが「おかえりなさいませ!」と次々に出迎えてくれた。
「みんな、変わりない?」
「はい、姫様。陛下や王妃様方もお変わりございません」
「ノルスア伯爵が結婚しちゃいましたよう。ああいい男が減っていく……」
「ベリル子爵夫人のご子息ジョアン様が、宮廷楽団の一員になられたんですよ! でも姫様はご存知ですよね、同じ音楽院にいらっしゃったんですから」
「そういえば姫様、《死の庭》の乙女の祝祭日の奏者に選ばれるご予定なんですよね、おめでとうございます!」
 プロセルフィナは苦笑した。彼女たちのかしましいところも相変わらずだ。
「奏者の候補、に選ばれただけよ。まだ決まったわけではないわ」
「あなたたち! 姫様はお疲れなのですよ、休んでいただくのが先でしょう!」
 目を吊り上げてギュリが娘たちを散らす。この叱る声を聞くのは久しぶりだ。
「ギュリ、ただいま」
「おかえりなさいませ。陛下ならびに妃陛下より、本日は十分休まれるようにとご伝言を承っております。挨拶にいらっしゃるなら明日以降にと」
 プロセルフィナは眉尻を下げた。
「申し訳ないわ。気を使ってくださって……。到着しましたということをお知らせしておいてくれる?」
 ギュリは頷き、食事と湯の支度を急ぐよう指示する。女官たちが動き回る光景を懐かしく見ながら、プロセルフィナはこの二年のことを思い返した。
 ――《死の庭》の消滅後、指揮をとったのはヴァルヒルム国王フレイだった。フレイは捜索隊を派遣しジークの行方を捜させた。ジークの使っていた船と乗組員は独自に帰還したが、そこにも彼の姿はなく、遺物すら見つかることはなかった。
 さらに調査が進められ、《死の庭》と呼ばれていた場所は混沌の雲が消え去り、何もない緑野を抱いた新しい大陸として存在していることが判明した。それを聞いた歴史学者たちはかつて魔術大国があった場所だと色めき立ったようだ。
 再び呪いが降りかからないかと人々は不安がっていたが、《死の庭》が本当に消滅したと実感したのは、冥魔の出現がなくなったことと、雪を見たときだっただろう。その年、大陸には物語でしか聞いたことがないような白銀の雪が降ったのだ。
 その頃プロセルフィナはノーヴス公爵に頼んで、王立音楽院の入学試験の準備をしていた。冥魔に対抗しうる力を失ってただ歌が歌えるだけの自分にできるのは、王立音楽院で本格的に学ぶことだと思ったのだ。公爵を満足させられるようになるまで腕を磨き、それから音楽院の試験を受けた。無事学生となった後は音楽史や楽器の奏法、もちろん歌唱を学び、忙しくしているうちにあっという間に二年が過ぎていた。
 音楽院に入学したのでサンクティア王宮の部屋は引き払うつもりでいたのだが、フレイやシェーラザードの好意でそのまま使わせてもらうことになり、半年から一年に一度帰郷がてらこうして滞在するようにしている。誰かが淹れてくれたお茶や流行りのお菓子を食べるのもここでの楽しみだ。
「あ、本当に帰ってきてるー! おかえり、フィナ!」
「レギン! ただいま」
 知らせを聞いたらしくひょっこり顔を覗かせたレギンと抱擁を交わす。
「本当に久しぶり。元気でやってる? 騎士団で教官をやってると聞いたけど……?」
「うん、見習いをびしばししごいてるよー。いじめがいがあって楽しいったらないね。こういうのはもう十年先だと思ってたんだけど、不思議だよねえ」
「アルはどうしてる?」
「あいつは前と同じ。くっそ真面目に国王陛下付きの近衛騎士やってるよ。切り替えが早くて羨ましいよ。俺なんて配属先を決めるのに一年もかかっちゃったのにさ」
 お互いに寂しい苦笑が浮かんだ。
「忙しくすることで忘れられるものがあるもの。私もそうよ」
「それでいいと思うよ。君は若くて綺麗なんだから。……うん、本当に綺麗になったね、フィナ。髪もずいぶん伸びた」
「ルウ陛下なら『年増になったな!』っておっしゃるわ、きっと」
 遠いものを見るようにして言われてくすぐったく思っていると、レギンは噴き出した。
「違いない! キュロは元気かなあ。ルウ様に手を出されていないといいんだけどねえ」
 キュロはこちらに残していたという諸々のことを整理し、プロセルフィナの音楽院入学を見届けた後アルガ王国に戻っていた。彼女は恨みや憎しみはひとつも報復せず、『もう十分罰は下ったと思います』と言っていた。ただひたすらにプロセルフィナのことを心配してくれたまっすぐな子だった。
「キュロは素敵な大人になったんだもの。もちろんルウ陛下も放っておかないでしょう」
「あの人、手強いのが好きなんだよね。キュロは全然脈なさそうだから、余計に迫られてそうな気がする」
「後宮に戻ると手紙は難しいだろうって言ってたから、機会を待つしかないわね。でもとりあえずサラヤン様とマーリ様に気をつけてくださるようお願いしておくわ」
 あの賢い妾妃のふたりならルウの無用なちょっかいを諌めてくれることだろう。サンクティアにいる間に手紙を送ることを決める。
 お茶の道具一式を台に乗せてリアラとアリサがやってきた。年の近いふたりはすぐに気があったらしく、息の合った仕事ぶりを見せてくれる。アリサが焼き菓子が盛られた皿を置き、取り分け皿を準備する間、リアラがお茶を淹れるという具合だ。
 ロイシア城に仕えていたリアラは、のちに女官の登用試験を受けるためにヴァルヒルムにやってきた。そのこともギュリの下に配属されたことも知らなかったプロセルフィナは仰天した。家出同然で来たというので説得しようとしたが、そばにいると言って聞かなかったので結局ロイシアへ帰すことは諦めた。彼女と別れるのが寂しかったせいもある。
 ロイシア王国は現在大きな事件もなく、ギシェーラ女王の世が続いている。イムレ王子がそろそろ立太子する頃だそうだが、もうプロセルフィナには関係のないことだった。
 神法機関は護人にまつわる真実を秘匿したが、まるで光を失ったかのように衰退を始めていた。今でも敬虔な信者たちが歴代の護人を偲んで祈りを捧げているが、徐々に神法司は数を減らしていると聞く。彼らからも呪文などの力は失われていくのかもしれない。
「そういえば姫様、どうしてこの時期にお帰りになったんです? 夏至の会に参加なさるにしても少しお早いのでは?」
「ちょっと帰りたい気分だったの。少し前に不思議な夢を見てね。このお城の夢よ。私が手紙を読んでるとちょうど鐘楼の鐘が鳴るの。その音を聞いていると早く行かなくちゃっていう気持ちになって、部屋を飛び出して城の門まで駆けて……というところで終わる夢」
 妙に現実感のある夢だったせいかめずらしく覚えている。光と陰影、あまり上等ではない紙の感触、鐘の音の大きさ。速くなっていく鼓動。目が覚めたときあれは現実ではなかったのだろうかと首を傾げてしまうほど近く感じられた夢だった。
 かしゃん、と陶器のぶつかる音が響いた。
「……夢? 夢を、ご覧になったのですか?」
「そう。どうしたの、リアラ?」
「姫様……姫様! それは……!」
 茶器を乱暴に置いたリアラは頬を真っ赤に染めてぶるぶる震えている。どこか体調が悪いのではと心配したとき、新たな来訪者が告げられた。少し髪が伸びたアルだった。
「まあ、アル!」
「お久しぶりです。レギンもいたのですね」
「おう、久しぶりー。仕事が違うとなかなか会えないもんだね」
「あなたの所業は轟いているから久しぶりな気はしませんが」
 レギンが肩をすくめたのを笑い、彼はプロセルフィナに封筒を差し出した。
「通りかかった侍従から預かりました。音楽院から転送されてきたようです」
 確かに宛先がプロセルフィナの音楽院の寮になっている。差出人を確認して納得した。すぐにこちらの居場所を知ることができない人だったからだ。
「アレマ島のヴェル先生からだわ。めずらしい。どうしたのかしら」
 そのときだった。
 ぐおーん、と鐘が響きはっとした。その音色に聞き覚えがあったような気がしたのだ。
 ゆっくりと周囲を見る。この光景、この空気、感覚。覚えはないか。
 そうして気づく。リアラが目に涙を溜めて頷いている。
 震える手で手紙の封を切った。ヴェルは簡単に近況を知らせ、こう書き記していた。
『海から君のものが戻ってきた。もうすぐ君のもとへ帰るはずだ』
「フィナ!?」
 プロセルフィナは手紙を放り出して部屋を飛び出した。
 すれ違う貴族が裾を絡げていくのにぎょっと道を譲り、淑女たちは目を丸くして眉をひそめ、女官たちは何事かと顔を見合わせて、侍従たちはむっつりと首を傾げる。
 あられもない姿で宮殿を駆け抜け、前庭を抜けて門へ至る。衛兵が、呼吸を乱して膝を押さえて震えるプロセルフィナを驚いた様子で見つめている。
 呼吸はやがて嗚咽になった。
 どうして忘れていたのだろう。かつてジゼルはその力を持っていたではないか――未来を夢に見る力を。
 強い風が吹き、夢の続きが目の前に広がる。
 やってくる人影を見てプロセルフィナは再び駆け出し、声の限りその名を呼ぶ。
「――ジーク!」
 答えは耳元に、そして胸を伝わって聞こえた。
 プロセルフィナ、と彼が名付けたたったひとつの名を呼ぶ声だ。

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