第7章 《死の庭》の乙女の祝祭日
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「プロセルフィナ様、本日もニジン子爵様からお花が届いておりますわ」
「姫様、ルスク男爵夫人からお茶会の招待状が届きました」
「大変ですわプロセルフィナ様!」
一般的には早すぎる朝食を終え、前日までに届いていた諸々の返信などをしたためながら報告を聞いていたプロセルフィナに、血相を変えた女官は一抱えある巨大な花束を掲げてみせる。
「ノルスア伯爵様からお手紙つきの花束が!」
歓声が上がり、花束を担ぎ上げんばかりの騒ぎになった。
ノルスア伯爵というのはロストフ地方の西に領地を構える貴族で、容姿端麗、芸術にも造詣が深く、登城すれば城中の女性が彼に会うために集まってくるのだと、彼女たちが説明してくれる。
そのとき花束を横からさらったのは、彼女たちの教育を一手に引き受けている指導係ギュリだった。彼女は一睨みで彼女たちを下がらせると、プロセルフィナに頭を下げた。
「教育が行き届いておらず申し訳ございません」
「元気なことはいいことだと思うわ。活気がないと寂しいもの」
プロセルフィナが敬語を使うことを許さなかったギュリは、まったく怒っていないと示すこの言葉にため息をついた。
「あの者たちに見習わせたいですわ、姫様」
可愛げがない自覚があるので苦笑して首を振った。
花束に返礼を書き、招待状には返事を書き、過度な贈り物には丁重に理由をつけて送り返したり別の品物を送ったりした。そうしているうちに静かだった王宮も動き出し、貴族たちが人を訪ねたり散策したり、騎士たちが行き来したりと人の気配が濃くなっていく。
「姫様。ベリル子爵夫人がいらしております」
告げたのは女官の中で一番年長のアリサだった。
「え? 今日お約束はなかったわよね?」
「突然いらっしゃったんですわ。いつまでもお待ちするからお目通りをと」
アリサの口調は苦々しい。彼女はいつもこうしてやってくる人々の対応に追われ、お茶会を催せば多数の人々の高飛車な嫌味を耳にして不快な思いをしていたからだろう。こうした突然の来訪者は基本的にお帰り願っているが、訪れは止まないし、贈り物もそうだ。
だがベリル子爵夫人はそうした腹に一物ある人々とは異なる、音楽を愛する大人しい女性だ。お茶会で知り合ってから手紙をやり取りしたが、領地のことと子どものことを楽しそうに書き綴っていたので好感を持っていた。
アリサによると表庭で待っているというので探しに行くと、木の陰に帽子のつばが見えた。「ベリル子爵夫人?」と声をかけると、彼女は弾かれたように飛び出し、途端に顔を歪めて泣き崩れた。
「どうなさったんですか!? ともかく中へ……」
「プロセルフィナ様! どうかお助けください……!」
部屋に入り、お茶を出して話を聞こうとすると、感情が再びこみ上げたのか子爵夫人は握りしめた手巾を涙で濡らし、声を揺らして語った。
「息子は王立音楽院に在籍しております。よく出来た子で、ありがたくも学年で一番の成績を取っています。そのおかげでこの度祝祭日の演奏者に選ばれたのですが……」
子爵夫人の声が曇った。みるみるうちに涙をあふれさせる。
「突然先生方が息子を奏者から降板する……ルスク男爵のご子息が、代わりになると……」
わっと泣き声が上がる。
「りっ、理由をお尋ねしてもはっきりと答えてくださらなくて……息子が不適格だとされる理由があれば納得します。でも、でもただ『決まったことだから』とあしらわれるなんて、どう考えても身分を比べたとしか思えなくて……!」
新しい手巾を手渡し、相槌を打ちながらプロセルフィナはどうしたものかと考えていた。
話を聞く限りでは、彼女の推測通り何らかの妨害を受けて男爵夫人の息子に演奏者の資格を奪われたように聞こえる。だが子爵夫人やその息子自身に問題があった可能性も否めない。申し訳ないがプロセルフィナは誰かに肩入れすることに慎重にならなければならないのだ。
「大変でしたね。王立音楽院で何が起こっているのか私にはわかりませんが……《死の庭》の乙女の祝祭日には素晴らしい演奏を聴きたいと思う気持ちは皆さん一緒でしょう」
「プロセルフィナ様……」
「ですが私には何の力もありません。こうして子爵夫人を励ますことしかできないのです」
「でもプロセルフィナ様は殿下の想う方でいらっしゃいます」
逆に励まされたことにおかしな気持ちになりながら首を振る。
ベリル子爵夫人に限らずみんな勘違いをしているが、プロセルフィナは決して状況を変える力を持っているわけではないのだ。
「殿下は私の話を聞いてくださいますが、『聞き入れ』てはくださいません。私が殿下にこの方を助けて差し上げたいと申し上げても、自分の力で成せと仰られるでしょう」
子爵夫人が絶望的な顔をする。だが納得したのだろう、ふらふらと立ち上がって震える声で辞去の言葉を述べた。プロセルフィナは彼女を庭先まで送り、詫びる。
「何の力もなれずに申し訳ありません。ですがお話、非常に興味深かったです。ジークハルト殿下やノーヴス公爵にお話してもよろしいでしょうか?」
子爵夫人がぼんやりとこちらを見る。
指を立て、微笑んで言った。
「お話くらいしか、できませんから」
どん底に落ちていた瞳に光が戻る。子爵夫人はプロセルフィナの両手を取ると、涙を流しながらこくこくと頷き、希望を得た様子で帰っていった。
王太子の愛妾という立場を得てから、人間関係の複雑さと自分の無力さにため息をついてしまう。愛妾ごときに何の力もないとわかるだろうに。ジークに直接依頼するよりも言いやすいのはわかるけれど。
「客は帰ったか」
やってきたのはノーヴス公爵だった。
「なかなか興味深い話をしていたな。さて嘘をついているのは誰か。それとも収賄容疑で罷免候補になっている教授が関わっているのかな。暇だし調べてみようか」
立ち聞きしていた詫びだよ、と公爵は笑う。
「だがあまりああいう嘆願は聞かぬ方がいい。きりがないからな。線引きしたのはいいが最後に甘いところをみせた」
「私はエカテリナ様のようにはなれないと思いました」
この人くらい最低限の人付き合いに留めると簡単なのだろうと思うが、突っぱねられる心の強さがない。だがベリル子爵夫人のような人にあまり優しくすると依存されてしまうだろう。逆に自尊心と自立心が強い人々とは相容れない場合があり、人付き合いは難しいと思わされる。
「もう秋か……《死の庭》の乙女の祝祭日のこと、ジークから聞いたか?」
「はい。悪いが表に出せないと言われています。妃ではないから当然でしょう。諸外国からお客様がいらっしゃるのに愛妾ごときが大きな顔はできませんから」
夏の終わり、秋の初めには《死の庭》の乙女の祝祭日がある。《死の庭》に向かった最初の乙女の偉業を讃える、神法機関が定めた祝日だ。今回はたまたまその前日周辺にヴァルヒルムで各国代表が集まる会議が設けられており、そのまま夜会を催す予定だ。
「それよりも会議の方が心配です。ここにいるとそれほど感じませんが、そんなに《死の庭》の影響はひどいんでしょうか」
行われるのは《死の庭》による影響の被害を重く見た諸国が対策を講じる会議だった。
「この地がさほど影響を受けないのは、ジークハルトの剣があるからだろう。だが南や東の沿岸国はひどい状況だと聞く。流行が収まったはずの黒気病にまだかかる者もいるし、冬が深まれば患者も多くなる。冥魔の出現頻度も高い。七年前にシェオルディアが立ったはずなのに、呪いの影響は弱まるどころかますます強くなっていると」
そして影響を受けにくい北方国で被害を出さずにいるその力を借りたいと、各国の首脳陣が頭を下げた結果、会議が行われることになったのだ。恩を売って悪いことはないとジークやフレイは考えたようだが、プロセルフィナが案じているのはそのジークのことだ。
ジークが戦場を駆けた血塗られた王子と知れ渡っていても、剣の力はそうではない。剣が冥魔を消滅させると知られれば、ジークの命に関わらず剣の力を欲する者が現れるだろう。そうなればプロセルフィナの歌があったとしても彼は自らを削ることになってしまう。剣の力、そして歌の力のことはなるべく秘密にしておかなければならないのだ。
だから会議中はなるべく外に出ないようにし、祝祭日も公には立たないと決めた。そう言うと、公爵はひどくつまらなさそうな顔をした。
「こういう時のために色々と身に付けさせたというのに。まああれにはお前はもったいないということはわかりきっているからな。せいぜい苦労するがいいさ」
かつて怒りを表していた公爵も、実際はどうあれひとまずは愛妾ということに落ち着いたおかげであからさまに非難することはなくなった。だがジークに対する心象は悪くなったらしく、こうして嫌味を口にする。
物申したいと思っているのはフレイ国王も同じだったようで、五人でのお茶会の後、嬉しそうな顔で「ジークを頼む」と言われて冷や汗をかいた。王子を怒鳴りつける愛妾でいいのだろうかと思ったが、それでいいらしい。
ベリル子爵夫人に言ったように、ジークは話を聞いてくれるし意見を尊重してもくれるが、それは日常生活の範囲内でのことで政治に関することは聞かないし、プロセルフィナも言わないようにしている。だが何にせよ、結局プロセルフィナには甘いということに、彼本人も近しい人々も気づいているようだった。
「さて、ジークハルトも覚悟を決めたようだし、お前も足場を固めつつある。そろそろ頃合いだろう。私はロストフへ戻ることにする」
プロセルフィナは言葉をなくした。
公爵は視線を遠くに投げ、呟く。
「この城には思い出が多すぎる。国王も、私がここにいると亡くなった前王妃を思い出すようだ。情けない顔で会議に出られると困るゆえ、そろそろな」
「……寂しくなります」
「そういう台詞はジークハルトに言ってやれ。なんだかんだ言いつつ、あれはお前に骨抜きじゃないか」
「ジークが私に甘くなるのは後ろめたいからですよ、きっと」
縋るぞと言っておきながら、まだ納得しきれていないのは過ごしているうちにわかる。彼は愛も恋もない利害だけの関係にプロセルフィナを巻き込んだことを、いつまでも負い目に感じているのだ。
(ジークは私を愛してはいない)
親愛を抱いても恋にはならない。それでいいと言ったのは自分なのに、寂しい気持ちが消えなかった。彼が忘れられない人はどんな人なのだろう。でもそれを聞く勇気もない。
「あまり悲観的になることもないと思うがな。情に訴えて関係を迫るという手もある」
「エカテリナ様」
「口が過ぎたな。だがそんな手を使わずともジークはお前を大事に思っている。だから臆病になるのだ。傷つけたくないと思っているのだよ」
公爵の理屈ではどうでもいい人間にそんなことは思わないということだった。そうだったらいいとプロセルフィナは思った。そうだったらいい、少しでも慈しんでくれるなら。
音楽院のことは調べておくと請け負ってくれた公爵はプロセルフィナの頬を包み込み、励ました。
「お前から愛は奪われていない。愛を返されないことに怯えて愛することを止めてはならないのだ。それだけは覚えておきなさい」
はいと答える虚勢を見透かした笑みとともに、公爵は去っていった。
しばらくして、入れ替わるように訪れた人々を知らせに女官が現れる。
「姫様。アルブレヒト様とレギン様がお越しになりました」
二人が揃ってやってくるのはめずらしい。必ずどちらかがジークのところに残って補佐をしているのだ。
「あ、めずらしいなって顔してる」
「ジークから預かり物をしてきました。これを」
差し出された小箱を受け取ると開けてくれと促される。蓋を開けて天鵞絨の小箱の中身の眩い輝きに目を射られた。
「これは……水仙の飾り留め?」
レギンが肩をすくめた。
「無理させてるんだから贈り物くらいしなよって言ったら、本当に用意してきてさ。なのに自分で渡すんじゃなくて俺たちに持っていけっていうんだから、馬鹿だよねえ」
「受け取ってもらえますか?」
プロセルフィナは口元をほころばせた。
あそこにジークはいなかった――アレマ島での市、そこで目を奪われた水仙の飾り留め。今手にしているものの方がずっと精緻な細工で宝石もついて高価だけれど、まるで巡り巡ってこの手にやってきたかのように思えた。
「ジークに伝えてくれる? 『贈り物をありがとう。でも、こういうもので誤魔化すくらいならちゃんと会いに来てちょうだい』って」
アルとレギンは噴き出した。
お茶でもどうかと誘ったが二人はすぐに戻るという。だがアルはレギンを先に行かせ、少し話があるのだと言った。
「あなたのその肩掛けは、ジークがあなたに贈ったものですか?」
ちょうどプロセルフィナが羽織っていたのは、アレマ島でジークからもらったものだ。薄い生地の夏服は、天候が変わると寒く感じられる時もあり、日焼け予防のためにもこれをまとうようにしていた。
「ええ。あなたは知っているの、この持ち主のこと」
「……ジークはやはり話していないのですね」
時間はあるかと尋ねられ、もちろんだと頷いた。たとえ用事があったとしてもこちらを優先しただろう。
肩掛けをもらった時、ジークは、これを何故持っているのかわからない、手放す機会ができてちょうどよかった、と言った。そしてアルは、この持ち主のこと、その理由について知っていたのだ。
話を聞き終えたプロセルフィナは重い口を開いた。
「……《死の庭》の乙女の……」
「はい。七年前《死の庭》に向かった女性のものです。旅の終わりに彼女がジークに渡していました」
肩掛けを撫でていると、しんとしたものが胸に積もっていくのを感じた。
「待ち伏せした挙句、無理やり同行した旅でした。あの頃ジークはヴァルヒルムに戻ってきて間もなかったので、護人が立つと聞いて、居てもたってもいられなくなったようでした。結局その旅では『何も得られなかった』と言っていたはずだったんですが」
けれどジークは忘れられなかったのだ。
「それであなたも、ジークが私に罪悪感を抱いているのだ、と感じたのね」
「……すみません。黙ったままでいるよりは、あなたに知っていてほしいと思いました。ジークにとってあなたは大事な人です。ジークが話すよりは私が話したほうがいいと判断しました。あなたを傷つけることで、ジーク自身が傷つきますから」
アルは代わりに責めを負う覚悟を持っているようだった。だがプロセルフィナは首を振った。知りたがったのは自分で、飲み込みきれないのも自身の責任だ。
「もっとあの人を知りたいわ」
アルは顔を上げた。
プロセルフィナは笑みを浮かべる。弱々しく見えるかもしれないけれど、本心だった。
「せめてゆっくり眠らせてあげられるくらいには、味方になりたいと思ってるの」
だが心の中で叫ぶ自分がいた。
(勝てるわけがないじゃない……)
そうして一人になって、プロセルフィナは思った。勝てるわけがない、と。
相手は世界を救う人柱、《死の庭》の護人。その人がジークの心の中に住んでいるというのなら、勝つことはできない。何故なら彼の中で彼女は高潔で清廉、気高く美しい人になっているにちがいないのだから。
勝ちたいわけではないと思っていたが、やはりどこか勝っているところがほしかった。その希望は潰えてしまったようだ。
しかしそれでもいいと言ったのは自分だと、何度目かに言い聞かせる。この胸の痛みは覚悟の上、だから今はジークのそばにふさわしくあるよう、すべきことをするだけだ。
城は会議と祭りが近づくことでいつもとは異なる喧騒に包まれていき、プロセルフィナはそこから少し外れたところで、人々が慌ただしく行き交うのを眺めるようになった。
お茶友達のシェーラザード王妃も公務の準備に追われているが、新しい衣装を仕立てる必要も儀式の手順を覚える必要もないので、いつも以上にひっそりしている図書室へ行って、礼典に関する書物を読み漁ることにした。そして祝祭日の様々な儀式を想像し、その中で完璧に振る舞う自分の姿を思い浮かべた。
ジークが部屋を訪れる回数が少なくなり、挙句の果てに剣だけを置いて深夜まで仕事をするようになった。剣を置いていくだけ進歩と思うべきか呆れ、悩んだ。
「あなたの使い手は、もう少し自分をいたわることを覚えるべきよね。もっと私を頼るべきだと思わない? それとも私は、彼の『忘れられない人』にはどうしても敵わないということなのかしら。ねえ、あなたはシェオルディアに会ったことがあるのよね? どんな人だった? 綺麗な人? 優しかった?」
話しかけられた剣は、うるるぅ、と喉を鳴らすように低く唸っている。
「……あなたに聞いても仕方がなかったわね。さあ、何の歌を歌いましょうか。あなたはどんな歌が好き? 私の歌を好きでいてくれるといいんだけれど」
命を喰らう剣に友のように語りかけて歌う夜を過ごす。彼は《死の庭》に消えた乙女の偉業を讃えるその日、いなくなった人のことを思うのだろうかと考えながら、プロセルフィナはそれでいいのだと自分に言い聞かせた。ジークの心の中にあるものを消し去りたいわけではない。奪うのではなく寄り添うためにここにいるのだ。
けれど本当は、という呟きに聞こえないふりをして、《死の庭》の乙女の祝祭日が近づいてくる。
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