(またか……)
中庭を横目に見る回廊に通りかかったところで、ジークは額を押さえた。
どうしてあの娘はこうも突拍子もないのか。
霧雨が降っている。透明で柔らかい雫は、決して他者を傷つけるものではないけれど、それにしてもそんな日に何の被り物もせず庭に出ているのは、いったい何を考えてのことなのか。
(さっぱりわからん)
早々に思考を放棄して庭に出て行くと、足音で察した娘が振り向いた。
金をどこまでも細く紡いだような髪。空の最も高いところから色を持ってきたような瞳。薄い唇はほのかに色づき、青い頬には繊細な笑みがある。プロセルフィナ・ノーヴス、ノーヴス公爵の養女でありジークの婚約者だった。
「あら、ジーク」
「『あら』じゃない」
手を掴んで建物の中へ引っ張り込む。
細かな雨雫が、プロセルフィナのまとめ髪を宝石のように飾っている。
この回廊に人の気配はない。誰もやってくる様子がないので、どうやら彼女の意味不明な行動はまだ気付かれていないようだ。
手のひらを使って髪の水滴を拭ってやっていると、ふふ、とプロセルフィナは笑い出した。口元を押さえてくすくすと肩を揺らし始める。
「お前な……笑うか、そこで」
「違うの。本当にすぐ来るなあと思って、おかしくて」
どういう意味かと眉間に皺を寄せる。
そんなしかめ面までも笑って彼女は言った。
「私たち、ずっと一緒にいるわけじゃないけれど、いつの間にか一緒にいることが多いのよ。会いたいと思ったときに会えているの。それはきっとあなたが私を気にかけて、いつも居所を知ってくれているから。私、女官のみんなを撒いてきたのよ? なのにそれまで影もなかったあなたが一番に私を見つけるんだもの。だから笑えてしまって」
おかしいと言いながら目尻を拭っている。その口元は緩んで仕方がない様子だった。
まるで「過保護だ」と言われているように思えて、ジークは目を逸らす。
「……居場所くらい、知っていて当然だろう」
「そういうことを当然としない人もいるの。だから私はあなたでよかったわ」
ちらりと送った視線に笑みを返され、ジークは再び庭に目をやった。
しばし沈黙が漂う。
頬の熱が消えない。明後日の方向を見てはいるがきっとそれは彼女の目にも明らかなことだろう。心の中は、どうしてお前は、という気持ちでいっぱいだ。
「……まあいい。それで、どうして雨の中何も被らずに立っていることになるんだ?」
「気持ちいいかしら、と思って」
プロセルフィナはまったく悪びれないからか、なるほどと思ってしまった。
降雨量の少ない南部地方にいるとき、ジークもよく雨の中歩き回ったものだった。激しい通り雨に身体を打たれていると、いろいろなものが洗い流されるような気がしてさっぱりしたものだ。だからこの細かな雨の中に立つのも同じようなことでは……。
(……いや、違うだろう)
ここは北方国ヴァルヒルム。どの季節でも雨は大地を冷たく潤す。打たれる側も頑丈が取り柄の自分ではなくか弱い娘なのだ。
「その楽しみ方は風邪をひくぞ」
プロセルフィナはあっさり肩をすくめた。
「そうね、それが問題かしらね。そろそろ本降りになってきたようだし、部屋で大人しくしているわ」
それじゃあと背を向けられる。
さあっと風に煽られた雨の音が響き、プロセルフィナが一瞬足を止める。後ろから見たその細い肩と背中を見て、ジークの胸の奥が甘い痛みに疼く。
気付けばその手を取っていた。
「ジーク?」
プロセルフィナは驚いている。
ジークは低く、囁いた。
「……もう少し、ここにいたらいいんじゃないか」
庭に面した窓に雨が銀色の流れを作る。ひさしから落ちる雨がぴしゃぴしゃと笑うような賑やかな音を立てていた。打たれた緑はかすかな拍を刻み、遠くから聞こえる水路の流れは壮大に歌っている。
そんな場所に二人きり。
せっかくの好機を無闇に逃すわけにはいかなかった。
「……雨除けくらいにはなってやる」
ぱちっと瞬きしたプロセルフィナはしばらくジークを見つめ、笑うと「はい」と言ってジークの胸の中にやってきた。
まだまだ雨は止みそうにない。
150808初出 171024改訂 180510新編改訂
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