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そこにいる君 / あるいははじまりの場所 / まだ彼は、気付かない / やっぱりまだ、気付かない?



そこにいる君

 紗夜子は唸りながら手元を睨みつけていた。手の中に収まる小さな冊子には、紗夜子がこの世で最も憎むものが記されている。いくら睨みつけても消えないし、どんなに抹消したくても何故か未だに、紗夜子の元にある。
「あれ、サヨちゃん、どないしたん。こわーい顔して」
 通りかかったのはジャックだった。その後ろからやってきたトオヤが「小型犬かよ」とにやにやし、ふと、紗夜子の手から掻き消すようにしてそれを奪い取った。
「あ……あー!!」
「なんだよこれ……生徒手帳?」
「や、やだ、返して!」
 伸ばした手から、身長差でトオヤは手帳を高く持ち上げ遠ざける。くるりと背中を向け、片腕で紗夜子をいなしながら、彼は憎むべき生徒手帳をぱらぱらとめくる。
「おお、がきんちょの顔」
「前と同じこと言わないで!」
 どうして証明写真というのはああも不細工に映るのだろう。紗夜子が生きてきた今までで、最も燃やしたい写真はと尋ねられれば、まず間違いなく、どんな年齢になっても「証明写真」と答えることができる。
 今はもう少し可愛くなってる、はず! と一生懸命写真を見ていたのは、トオヤがずっと前に、今と同じように紗夜子から生徒手帳を奪い取って、証明書の写真を見てコメントしたせいだ。世界で一番不細工に映っている自分をああいう風に言われたら、誰だってもっと可愛くなりたい! と拳を握るだろう。
「んな泣きそうな顔すんなよ」
 手帳を投げ返された時、紗夜子は首をすくめて半泣きだった。うー、とそれこそ小型犬のように威嚇していると、手が伸びて頭を押さえつけられる。
 そのままぐりぐりと撫で繰り回して、トオヤは。
「実物の方がいいってことは分かってるからよ」
 そうして、ぽかんとする紗夜子を残して行ってしまった。
「………………!!!」
 紗夜子は膝を抱えてうずくまり、ジャックは頭を掻いて苦笑する。
「ほんま、あいつ天然たらしやでなあ。うらやましいわ」

20120423初出
20120917加筆修正









あるいははじまりの場所

 スライドするドアをくぐりぬけて、開かれた部屋に足を踏み入れる。壁も床も除菌された、清潔な真っ白の部屋は、今は夕暮れの金色に染め上げられている。部屋の主たちがいないからブラインドも下ろされていない。この部屋に戯れていた女たちは、みんな出て行ってしまった。あるべきところへ。創造の理由にさだめられるままに。
 ただ、ダイアナだけがここにいる。ホスピタルウェアを脱ぎ捨てて、茶色のスーツに身を包み、人と変わらない格好をしている。ダイアナの目には、いつかあの赤く染まる窓辺に腰掛けた姉妹たちの姿が再生されている。それほど遠い過去ではないのに、手を伸ばしても届かない風景だ。ただ記録された映像というだけではなく、もっと心理的な距離を感じる。
 窓に身を乗り出して見た風景は、味気ない。ただ研究所の白い建物だけが見える。
 近付いてくる物音を聞き取ってダイアナは入り口に向き直った。現れる相手をダイアナは感じ取っていたし、相手もこちらが部屋にいることを知っていた。
「テレサ」
「ダイアナ」
 お互いを確認するように名を呼び合い、無表情のまま立つ妹に、ダイアナは頬を緩めた。
「どうしたの、テレサ。あなたがこんなところに来るなんて、なんだかとてもめずらしい気がするわ」
「笑われる筋合いはありませんよ、ダイアナ。あなただってここにいるではないですか」
「そうね。どうしてか、ここに来たかったのよ」
 しばらく無言で思考する。空調はかさりとも音を立てないけれど、二人の人ならぬ聴覚は建物内のすべて人間の呼吸を聞き取ることができる。
「ねえ、テレサ」
「なんですか」
「どうして戦うのだと思う?」
「それが存在理由だからです」
 澱みない答え。ダイアナの理由も同じだ。けれど。
「戦うために作られ、最後の一体になるまで戦うのが【魔女】。……でも、そんなことをしなくてもわたしたちは存在していられたじゃない。どうしてあの世界に満足していられたのか、あなたは考えたことがある?」
 テレサは答えなかった。彼女にとって明確な回答の拒否を表した。背を向けたのだ。
「テレサ。戦わないという選択肢だってあるのよ」
「でもあなたは戦う。戦わないために戦うのでしょう? わたくしにだって望むものはある。すべての生き物と同じように、わたくしたちは、やはり戦わなければならないのです」
 去り際、テレサは言った。
「ダイアナ。わたくしは答えを持っていますよ。……どうしてあの世界に満足していたのかという問いの、答えを」
 ドアが閉まる。ダイアナは一人、窓辺に腰掛けて、黄金の空が藍色に沈むのを見た。夜が来る。深い夜が。けれど目を閉じると、明るい灰色の窓辺が浮かぶ。ここに腰掛けていた彼女のこと。そして笑い合うわたしたちの声を。今はけれど、この部屋は燃えるような赤。戦争の、赤だった。

20120623初出
20120917加筆修正









まだ彼は、気付かない

「なーに読んでるかと思ったら」といきなり目の前の本が奪われた。本が動くままに目を上げ、首を仰け反らせると、反転したトオヤの顔があった。つまらなさそうな、しかめ面。
「絵本かよ」
「絵本ばかにしないでよ。結構深いんだから」
 これとか、と紗夜子は積み上げた薄い本の山から一冊を引っ張りだした。荒っぽい印象の、毛深い猫が描かれた白い本だ。
「動物ものはあんま」
「いいから読んでってば」
「つーか誰から借りたんだ」
「光来楼のシオンさん。好きなんだって」
 トオヤはちょっと複雑な顔をした。その顔の意味が分からない紗夜子が首を傾げると、構うなと彼は首を振って、本に目を落とす。表紙をめくって、内容を見たトオヤは、きゅっと眉をしかめたかと思うと本を差し出した。
「え?」
「読んで」
「……は?」と紗夜子が後ろへ退くと、だからとトオヤはだだっ子のように。
「読んでくれっつってるんだよ」
 ――それでいう通りにしたのだが。
「なんでこの体勢!?」
 座った後ろから抱きかかえられるような体勢。前向きにだっこされるような形で膝を立てて座っている。肩に顎を乗せられて、腰に腕をまわされて。
 紗夜子は声にならない悲鳴をあげながら、なんとか首を伸ばしてトオヤの息から逃れようとするが、腰を掴んだトオヤの腕は揺るがないし、それどころか「早く読め」とうるさい。
「もうっ、分かったから!」

 十数分後、たいへん満足したトオヤが「サンキュ。じゃあな」と何事もなかったかのように去っていき、紗夜子は崩れ落ちた。
「心臓が……理性が、しぬ……!」
 あんな風に密着されて何にも思わないほど不健康でもない紗夜子は、あの吐息の音や感触を思い出して悶え転がったが、平然とした去りっぷりを見せていったトオヤは何にも思わなかったのだろうか。
(私って……魅力ないんだ……)
 思わず胸に手を置いた。ぺたん、とした感触に、何かが折れた。
 どごっ。
「おわっ!?」
 驚きの声が上がり、見れば、ジャックがずれたサングラスを直して、壁を殴った紗夜子に引きつった笑いを浮かべているところだ。
「ジャック」
「サヨちゃん、なんかトオヤにしたん?」
「……何が」
 声の温度が下がる。ジャックはひくりと頬を引きつらせたが、ははと笑いながら言った。
「いや、なんでもないでーす。ははは……」

 そうしてジャックは首を傾げた。『いい匂いするんだけどどういうことだ』『抱き心地よすぎなんだアレ』『がきのくせにがきのくせにがきのくせに』だとか言っていたトオヤは、一体何があったというのだろう。









やっぱりまだ、気付かない?

 びっくりした顔は、きっと鏡写しのようにそっくりだったに違いない。目を丸くし、ぎょっとし、何が起こったのか思考することを頭が拒否している状態。上に覆いかぶさっているトオヤを見つめたまま、紗夜子はしばらく、石のように固まっていた。
 えーっと、ライヤさんに呼び出されて事務仕事をしていたのはいいけれど、あんまりにも量が膨大だったから、みんなで順番に休憩を取ることになって、私に順番が来て、パソコンから離れるとつい眠たくなって……そこで記憶が途切れている。それでどうして、トオヤが紗夜子の上にいるのだろう。
「……とおや?」
「っ!」
 目が覚めたばかりの声は子どもみたいに拙かった。トオヤが弾かれたように身体を起こした瞬間、紗夜子は、思いっきり床に頭を打ち付ける。どがん! と音がして、ぎゃんと悲鳴を上げた。
「っ!! い……ったあ!」
「わ、悪い!」
 トオヤが慌てて手を寄越す。
 低い位置とはいえ、もろに打った。地味にもだえながら、手を取って身体を起こす。おかげで目が覚めた。
「私、寝落ちしてたんだ……もしかして頭打ちそうだった? ごめん」
「ああ、身体斜めになってて、頭打ちそうだからつい手ぇ出した」
 結局こうなったら意味ねえな、と呟きながら、トオヤは紗夜子の後頭部に手を伸ばし、なでなでと撫でさすった。
「っ!!?」
「こぶできてねえか? 悪い。ほんと、すまん。痛かったよな」
「あ、う、う、うん! それは、もう!」
 我ながら意味の分からない返事をしてしまったが、トオヤはますます困った顔をして、紗夜子の頭を撫で続ける。気持ちいい。嬉しい。こんな風に大切にされてしまうと真っ赤になってしまう。結果オーライというやつだろうか。
 しばらくすると「佐々波先生んとこ行って氷嚢貰ってくるか」と腰を上げる。離れていく手が恋しくて、顔がきゅうっと情けなくなるのが分かったけれど、紗夜子は「だいじょうぶ!」と立ち上がった。
「トオヤが撫でてくれたおかげで痛くなくなったよ。だから大丈夫! 魔法の手だね!」
 トオヤは途端、きょとんと固まって、ふっと顔を背けてしまった。
「……? トオヤ、どうしたの?」
「…………なんかあったら診てもらえよ。じゃあな」
 急に冷たいそぶりで出て行ってしまう。紗夜子はいつものように手を振ってから、何かまずいことを言ってしまっただろうか……とこの後丸一日苦悩する。
 対するトオヤは、出会い頭のジャックに何事かとからかわれるまで、しばらく真っ赤な顔をUGたちにさらしていた。


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