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(あ)
 と思った瞬間に声を出した気がして、急いで口を塞いだ。その体勢で固まり息を殺すこと数秒。緊張と慎重に打つ心臓で苦しい息をゆっくりと吐き出しながら、そっとドアノブから手を離す。ドアは、かすかに泣くような音を立てて、わずかに内側に戻った。
 冷気を含んだ静けさが、肌に触れる。息を吐いた。
 どうやら、起こさずに済んだらしい。
 コマ付きの椅子に座ってデスクに載せた肘に頭を置いて、上手にバランスを保ちながら、トオヤは静かな寝息を立てていた。
(……コンピューターの授業で居眠りしてるみたい)
 電子端末操作を教育の基本とするエデンだ。情報処理の授業は居眠りと内職とインターネットの時間、という学校に通っていた紗夜子にとってはさほどめずらしくない光景だったが、トオヤがこうしているのは、とてもめずらしいことだった。紗夜子は室内に彼の仲間たちの姿を探した。
 三台あるパソコンのどのモニターでも、スクリーンセーバーが七色の光で、電子のオーロラを部屋に放っている。スリープ状態になっているパソコンが何か処理しているのか、ファンが回る音を発し始めた。低く唸っているのは彼らの酒やらジュースやらが収められている冷蔵庫。しかし地下世界の冬に欠かせない暖房は切られており、室内は足下から冷えがのぼってくる。念のため、足音を忍ばせて左右の部屋を確かめてみたが、ここにはトオヤひとりらしかった。
 あまり距離を詰めると飛び起きてしまうと思ったので、距離を置いて様子をうかがう。
 そのまま身体を反転させて出て行ってしまえばいいのに、立ち去りがたいのは、なんだかしんと幸せだったからだ。休息は穏やかな時間で、人を安らがせる。いつも走り回り、動き回って、戦い続けている人にこういう時間があるのは、嬉しい、と思う。
 男の人が眠っている顔を、初めて見た。みんな、眠るときはこういう顔をしているのだろうか。トオヤは分厚いダウンジェケットの腕に顔を埋めているので、顔かたちは歪んでしまっていたが、いつものしかめ面と鋭い眼光を思えば、かなり無防備だった。ちょっと姿勢が苦しいのか、眉間の間の皺に笑ってしまう。今にも癇癪を起こしてしまいそうな幼児みたいだ。
 疲れているのだろう。紗夜子がこうしていても起きる気配がない。
(毎日、走ってるからね)
 つかまらないひとだった。いつも先を駆けていってしまう。だから紗夜子は息を切らして、泣きそうになりながら追いかけていかなければならないのだ。
 私は心配ないから。そう安心させてあげたいけれど、現状は予断を許さず、いつ戦闘指示、出動命令が下ってもおかしくない。守りたいといくら紗夜子が思っても、紗夜子にはそれだけの力がなかった。からの手を握ってもただ自分の腕が震えるのと同じように、手の中には何もなかったのだ。
 時間が、足りない。強くなる時間も、覚悟するための日々も。
 でも、その道を選んだことを後悔なんてしない。

 あなたを守るから。私が、いつも後ろを追いかけていくから。
 だから走っていって。負けないでいて。止まって、なんて言いたくない。あなたが走っていく、その姿が憧れで光だ。ついていこうとするかぎり、私の足はくずおれない。

 デジタルの光に金の頭を輝かせて、トオヤは目を閉じていた。その血色のない顔も、目の下の隈も、今はいくつもの色彩に照らされて、彼の持つ影は透明に変えられている。同じように、紗夜子も。
 閉じた目に、闇を見るけれど、それはまだ明るい。胸に置いた手が心臓の音で熱く、喉が吐いた息に震えた。

(……好きだよ)

 目を開けると、パソコンのディスプレイが放つ光で七色に照らされた部屋があった。偽りで仮初めでも、例えここが太陽の恩恵がないアンダーグラウンドでも、この部屋だけは明るい光と色の溢れる世界を作り出せていた。
 美しく、悲しかった。

「…………」
 紗夜子は、細く、長くため息をつくと、そっとトオヤに近付き、その肩を揺らした。
「トオヤ。トオヤ。休むんだったら部屋行って。風邪引くよ」
「……ん……紗夜子……?」
「そう、私。ほら、寝るんだったらちゃんとしたところで寝てよ」
「お前は……かーちゃんか?」
「こんな大きい子どもいりませーん」
 くすくす笑っていると、トオヤの調子が戻ってきたようだ。身体を起こし、伸びをすると間接が鳴った。首を傾けてばきばき鳴らすと、肩を回してほぐし、ずっと刻まれていた眉間をほぐすように指で押さえた。
「……あー、だりぃ」
「おつかれさま。部屋行って二度寝しなよ」
「そうする」と言ったが早いか、トオヤは紗夜子を背後からロックした。
「わあ!?」
「ちょうどいい抱き枕があるしな」
「っ!?」
 そう言って、紗夜子の右の耳に息をかすめるようにした。
 か思うと、何故か紗夜子を左腕にぶら下げてしまった。彼の左腕は、生身とは違って生体義肢で頑丈ではあるので、紗夜子は暴れた。しかし、抱え込まれた魚のごとく、手足をばたつかせるしかない。
「私がぷにぷにだって言いたいの!?」
「あっはっは」
 小猿みたいにきいいっと叫びを上げるのを聞いて、トオヤは軽やかに笑った。
 その笑い声を聞いて、本当は泣きそうに嬉しいと思っていることに、彼が気付くことは有りませんように、と紗夜子は願った。気付かなくていい。こんな日々が幸せだと思っている、それはつまり、このさきに待っている暗闇に、負けそうになっているということだから。
「トオヤ下ろしてっ、出るんだったら靴!」
「持ってってやるよ。ほら」
「私をぶら下げてく必要ないじゃんー!?」
「大人しくしねえとぶん投げるぞ。見えるだろうなあ、パンツ……っぐ!」
「い、今のはトオヤが悪いんだよ!? 蹴ったのは正当防衛だからね!?」
「……可愛い顔してやるじゃねえか、ええ?」
「う、わわっ! 迫らないで、心臓がもたな……っ!」


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