「なんて言った?」
紗夜子は顔色をなくし、問い返した。問い返した直後、怒りがかあっと込み上げてきて、拳を握り、鋭く睨みつけた。後ろにいるジャックがはらはらとした表情で二人をうかがい、ディクソンは何か言いたそうに、紗夜子に対するトオヤを見ていた。
トオヤは言った。
「お前は待機。そう言った」
数日後に行われるアンダーグラウンドの【女神】制圧作戦。高遠紗夜子は待機。UG本部が決定した、アンダーグラウンドの総意は、紗夜子には到底受け入れられない命令だった。
信じられなかった。あの人は私の母親なのに。私が撃つべき人なのに。
「トオヤは、私のこと分かってくれてると思ってた!」
「お前が友達を撃ったときとは状況が違う。これは世界を背負った戦いで、下手すればセシリアと【女神】の接続を切った途端、お前が【女神】に組み込まれる可能性だってあるんだぞ」
UG本部はある推測を立てた。
あのニュースで流れたようにセシリアが会見場に立てるのなら、彼女は個人として動き回ることが可能だということ。彼女は自己を維持しつつ【女神】を操作しているのだろう。【女神】本体、あるいはセシリア本人を停止させれば、この二者の接続は分断される。セシリアを攻撃し倒した場合、【女神】のコントロールは本体に移るはずだ。現在の技術でセシリアの意識が本体に移動することを可能としているなら、【女神】は【女神】のままだが、万が一の可能性として、自動的に候補内定者と接続してしまうことをUG本部は考えた。内定者が【魔女】なら確実に主導権は移動するだろう。だが、それが、紗夜子にも適用するのかが分からない。
「今のところ、私の体内に何か埋め込まれているってことはないって、ライヤさん言ってたじゃん!」
「それでも、お前は最終候補者なんだ。【聖女】を、本部は手元に置いておきたがってる」
その目的を推測できてしまった。
「私が、アンダーグラウンドにとって有利に動かせるから?」
トオヤは答えなかったが、そういうことだろう。
【聖女】なんて呼ばれても、紗夜子の価値はそれだけだ。
「……私が戦わなくちゃいけないのに、遠ざけるのは間違ってる。そんなの優しさじゃないよ!」
一瞬、トオヤが痛い顔をした。目を閉じ首を振り、紗夜子の頭を掴むと撫でる。
「そうだな。俺たちは優しくない。お前の決意を利用して、お前の勇気を利用して、お前のやりたいことを奪う。でも、約束してやるよ」
手を滑らせ、頭から頬を包むようにして、かすかに微笑んだ。
「お前を守る。お前に、世界をやるよ」
紗夜子は呟いた。
「……うれしくない」
叫んだ。
「嬉しくない!」
涙が滲んだ。まるで、みんな、最後みたいな顔をする。簡単に守るとか愛とか世界とか言う。そんな綺麗なものなんて欲しくない。最後を綺麗なもので埋めていかないで。優しくしないで。飾らないで。
汚くても、醜くてもいいから、生きてほしい。
トオヤは顔をしかめ、つかつかと近付いてきた。紗夜子が引きそうになりながら、胸を反らし、睨みつけると、その身体を急に胸に閉じ込めた。
呼吸が止まった。空気も、時間も。人もだ。
ぽかんと口を開けたジャックと、目を丸くしたディクソンがトオヤを見、ジャックが泡を食って部屋を飛び出していった。ディクソンも足音を忍ばせて、ドアの音もしないようにそっと去っていく。
音が戻っていく。感触が確かにある。心臓の音。温かい胸、鈍く冷たい左の腕。
トオヤの手。
「でも俺は、お前を死なせたくない。……兄としても」
「……はあ!?」
兄って、何の話だ。
トオヤは気まずそうに視線をそらす。
「可能性の話だ。お前、高遠の娘じゃないかもしれない」
紗夜子は飛び離れた。思いっきり、顔をしかめてやった。
「だったら誰の子どもだっていうの!?」
「セシリアと……」
最後まで言わなかった。言えなかったのだろう。でも、口にされなかったのが誰なのかははっきりしている。
「ちょ……冗談……」
「冗談なんてこんな状況で言わねえよ」
以前、ライヤは言った。『さよちゃんはオレの娘みたいなものだからね』。それは単に言葉のあやだと思っていた。あの人は、紗夜子との血のつながりを推測していたということか。それを敢えて黙っていた……。
(……あり得る!)と思ってしまった紗夜子だ。
「……二人の間に、そういう雰囲気とか……心当たりがあるの……?」
「親父はともかく、セシリアが親父を想ってたってのは今思うとはっきりしてる。親父としゃべってるときだけは普通の人だった。普段は、何考えてるか全然分かんなかったけど」
目眩がする。だったら、今まで抱えてきた思いは何だったのだろう。
(トオヤは……ショックじゃないのかな……)
トオヤはもう納得したのだろうか。何も変わらないように見えるところが、ショックだった。
「トオヤ……ライヤさんは、辛くないのかな……」
「辛くないわけないだろうけど、あいつはそういうところ、結構割り切るやつだから」
仕方がないというふうに言われて、紗夜子はため息をつくしかなかった。トオヤもそう思っているに違いないからだ。
「じゃあ、トオヤは私のお兄さん……かもしれないんだね」
「そうだな」
あっさり言わないでほしい。目を伏せて、きしきしと鳴っている心臓を抱えて、唇を噛んでいるしかないのに。嬉しくないわけじゃない。でも嬉しくない。
初めて、男のひとを好きになったと思ったのに。
トオヤが携帯電話を取り出した。ボタンを押して「なんだ?」と聞く。マナーモードにしていたらしい。短く、うん、ああ、と答えると通話を切って、肩をすくめた。
「呼び出し。行くわ」
うん、と言った。いってらっしゃいと言おうとして、うまく笑えなかったから、息を一つ吐いて、手を挙げ、眉を下げる。
それをもう一度、トオヤは抱きしめてきた。
腕にしがみつきながら、紗夜子はほんの少しの望みを心の中で呟いた。
ねえトオヤ。信じてもいい? 今こうしていることは、兄とか妹とか、家族とか仲間じゃなくて、ただそうしたかったからしてくれたってこと。私はその気持ちにしがみついていいって。そしてそれを、トオヤも感じてくれてるって。
「もし俺たちが負けたら」トオヤは耳元で呟いた。
「その時は、全部忘れて生きていけ」
紗夜子は息を吸い込んだ。
「無理」
「紗夜子」
「無理だってば!」
優しく名前を呼んで抱いてくれるのに、とても大切に抱きしめてくれるのに、なのに紗夜子はだだっ子のように叫んだ。
「トオヤがいないんだよ。どこにもいないんだよ」
忘られない。忘れたくない。
誰かを失って、笑って生きていけない。
「世界を憎まないでいられるわけないじゃん!」
――私は、あなたが。
最後の言葉を、口にする前に。拒絶するように、トオヤは紗夜子を突き飛ばすと、振り返りもせずに出て行った。残された紗夜子は握りしめた両の拳を震わせて、唇を引き結んだ。こんなことで泣いていられない。でも、やっぱり、辛かった。
涙を堪えて零街から第一街に向かって歩いていくと、夜の店はもう開いているらしく、あちこちにネオンの明かりが見えるようになっていた。
「あっ、サヨコぉ、寄っていきなさいよー」
「最近メール返事ないんだもん。薄情者ー」
リンとランがちょうど店の前で客を引いているところだったらしい。紗夜子に気付いて赤い唇を尖らせた。
「ごめん、またメールする」
「当てになんないのよ!」と声を投げたと思ったら、二人は通りすがる男たちに笑顔を振りまく。変わり身の速さに苦笑して、「またね」と告げて別れた。
「おや、一人かね?」
医師の佐々波がひょこひょこと正面から歩いてくるのにでくわした。
「こんばんは。飲みですか?」
「たまにはね。常連仲間と飲むのも乙なものだよ。君も飲めればいいんだけどねえ」
「未成年ですから」
佐々波は馴染みの店へ、紗夜子は更に第一区の外側に向かって、別れた。
「あれ、紗夜子さん?」
「マスター」
ゴミ箱をどすんと地面において手を払い、人好きのする笑顔でおいしいコーヒーを飲ませてくれるマスターに言った。
「こんなところで何してるんですか?」
「友人の店の手伝い。料理人が倒れちゃったらしくて、ピンチヒッターなんだ。まあ、うちの店を維持するお金も稼がなくちゃならなかったし、ちょうどよかったよ」
やっぱり赤字すれすれらしい。あれだけのモーニングを提供していたら当然だ。奥から呼ぶ声がする。
「行かなきゃ。また店に来てよ。今度は誰か連れてさ」
「はい。お仕事頑張ってください」
呼び込みの声が響いている。店の窓から酔客の笑い声や話し声が聞こえてくる。油のにおい、アルコールのにおい。すえたにおいと、湿った空気。常時灯は青いが、店の明かりで辺りは真昼のようにまばゆい。初めてアンダーグラウンドを見たときは、どこにでもあるような歓楽街の様相に目を剥いたけれど、今はここが紗夜子の街だった。
トオヤが連れてきてくれた、居場所だった。
外が見たいな、と急に思った。時計を見ればちょうど夕暮れ時。トオヤと見たようなあの夕日が、また見られるかもしれない。内側からなら開けることのできる入り口はもう知っていた。通路を辿り、第一階層に上がる。
しかし、空は曇り、風が強くて、暗かった。風に吹かれて、その温かさに驚く。ああもう夏なんだと思い出した。この荒れ狂うような力は夏に吹く風なのだ。
ずいぶんと遠くまで来たなという気がして、思い出をさかのぼっていくと、身を切られるような悲しみや怒りや憎しみもあったけれど、誇らしいような気持ちが少しあった。時間はちゃんと流れていて、許されないこともあるけれど、それをきちんと生きた。そう思うことができた。
だからこれからも。
もし手に入るなら、なんてことのない日常がいい。笑って。走って。銃はどこかで錆び付いて、代わりにフライパンを振り回したりして。目を閉じ、そんな未来を思い描こうとした。
――……!
風とエンジン音が遠くに響く場所で、紗夜子はゆっくりと前へ崩れ落ちた。
何が起こったのか分からなかった。
肩が痛い。目がちかちかする。頭が鈍い。
撃たれたのだ。
不覚だった。そもそも考えなしだった。黙って出てきたのだ。自分が安全だと思い込んで、気を緩めた。せっかく、せっかくここまでたどり着いたのに!
誰かが近付いてくる。かすむ目で、自分を攻撃した相手を見てやろうとした。手には銃がないから、実行犯が別にいるのだ。背は高くない。それが子どものようであることに気付き、紗夜子は息を止めた。
それは言った。銀の瞳を細めて。
「やあ……紗夜子」
湧いたのは怒り。
――ここまで来て、私はまた、戦えない。
名前を呼ぶことなく、紗夜子は意識を失った。