その部屋は、壁や窓まで漂白されるのではと思われるほどの消毒液臭で満ちていた。そのにおいの中、寝台に横たわる女は、起き上がる体力も持たず、しかし柔らかな笑みで女神を迎えた。病の進行で乾いた肌、かさついた唇。手は痩せて骨が浮き出て、熱があるのか目が光っている。
 女神は座りもせず、彼女を上から見下ろした。
 寝台の上の彼女は、「セシリア?」と友人に対する呼びかけを紡いだ。笑みとともに。
 まだこの子はわたくしを友人だと思っている。
「わたくしはあなたの知るセシリアでないかもしれなくてよ」
「女神が私を訪うわけがありませんもの。友人の見舞いに来たあなたはセシリア。ちがう?」
 その通りだと思った。女神はベッドの傍らに置かれた椅子に、ふわりと腰を下ろす。
「初めまして、アヤ・クドウ」
「初めまして、セシリア。こんな格好でごめんなさい」

 長くやり取りを続けてきた二人の、これが最初の邂逅だった。

「余命宣告されたと聞いたわ」
 ストレートな言葉に、彼女は軽く目を見張り、くすぐったそうに笑った。すでにセシリアの性格を知っているのだ。
「ええ。あと一年保てばということよ。ここまで意外に保ったわねえ」
 そう言って、深く息を吐く。気持ちの整理を付けるためだろう。目を一度閉じ、開いて遠くを見た。そして、楽園の女神の姿を見て、仕方がない、というような自嘲を浮かべた。
 ライヤ・キリサカの失脚直前、彼女は彼と婚姻関係を解消し、実家に戻った。そのままライヤは出奔し、一人残された彼女は残った追究の矢面に立たされた。噂があったのだ。ライヤが、あの反政府派アンダーグラウンドに下ったという。
 しかし彼女は決して口を割らなかった。危険な目にも、強引な方法にも屈しなかった。それが、元々持病を持っていた彼女の寿命を更に縮めることになった。
 追究の手が引いたのは、女神としてそのように取りはからったからだ。セシリア・アルファ=テンは、もう【女神】として内示を受けている。いずれ天空の玉座に座るだろう。
「セシリア」
 死に直面した者特有の澄んだ瞳で彼女は言った。
「話してちょうだい。あなたは、何をしようとしているの?」
「――…………」
 目を閉じ、かぶりを振った。
 アヤは大きく呼気を吐き出した。彼女が被った毛布が上下する。
「……あなたを解放できたと思っていたわ。あなたはライヤと共に降りていったんですもの。そこであなたはあなた自身を知るはずだった。なのに、あなたは戻ってきたのね。それがSランク遺伝子保持者の血の宿命というのなら、私には分からないけれど、セシリア、あなたのことなら分かるのよ、綺麗で完璧なあなた、けれど幼いあなたは、どんな大変な秘密を隠しているの?」
 長く喋ったためだろう、ぜえ、と呼吸にはわずか痛みが混じる。
 彼女の呼吸を聞きながら、完全なる美貌で女神は言う。
「秘密は多い。誰の心も完璧に解き明かせないように。心と同じプログラムを完成できないように、無数であり神秘よ。わたくしはわたくしの心の在処を知らないの。でも」
 彼女の瞳を見つめる。セシリアが持ち得なかった色彩の瞳。

「この世界を守りたいと思うわ。だから敢えて言うのなら――世界を、守るために」

 沈黙したアヤは言った。
「【女神】プロジェクトのことは聞いているわ」
 エデンという都市を管理し、掌握する最大のコンピューターは『エデンマスター』と呼ばれている。これに人間を接続させることで、更なる容量の拡大を図る計画が持ち上がった。この総合コンピューターを【女神】プログラムといい、人機総合楽園管理システム計画という。
 セシリアは、その女神(システム)として内示を得たのだ。
「そんなものにならなくていいのよ、セシリア。Sランク遺伝子なんて、流れればただの血よ。ただの赤い血だわ」
「あなたは間違っていると言うでしょうね。あなたの息子がそう言ったと言っていた。でも、本当に、一人の命であがなう世界は間違っているかしら。あがなう者が守りたいと願えば、それは間違いではないでしょう?」
「――いつか、崩壊の時が来るわ」
 その通りだ。人間の脳とスーパーコンピューターだけで永遠的な守護プログラムたり得ない。いつか自分の脳と心は破壊されるだろう。そのために後継者が必要だった。自分と同じ血を持つ、楽園を愛すことの出来る血を持った者が。
「そのための布石は打ったわ。あの子はわたくしの血を受け継いでいるもの」
 彼女は明らかな批難の目を向けた。
「……紗夜子ちゃんを使うのね。可哀想に……」
 それがおかしかった。友人を家に招き、お茶をしながら批難されている風景に思えたのだ。
「【女神】に接続されたら、あなたの意識はなくなるんでしょう?」
「緩やかに統合すると言われたわ。どれだけ個人として残るかは分からない。【エデンマスター】はわたくしを排除しようとしたわ。だから紗夜子への継承も認めないでしょう。そうなった時、きっと戦いが起こるわ。紗夜子には、生き残ってもらわねばね」
 両手を見つめる。球を抱くように合わせた。

「わたくしが守れるというのなら、その時が来るまで守りましょう。わたくしが滅ぶ時が来るのならそれが世界の変革の時。時が来たら、わたくしは旧世界を抱いたまま滅んでいく。――わたくしはこの世界を愛している」

 憐れみと悲しみの目で、彼女は女神を見つめていた。それに、女神は笑いかけた。
「だって、アヤ? ここが階層と統制による都市で、多くの否定にさらされて、憎まれていても、このエデンは、わたくしの生まれたせかいなんですもの」
 自分を産み落としてくれた母を愛さない子どもがいるだろうか。それと同じ思いで、セシリアはエデンを愛している。
 ここでしか生きられないのだとしても。
「そして、あなたの愛したせかいよ」
 彼女は瞳を揺らし、伏せた。
 自分を憐れむのは彼女一人だと女神は思う。すべてを持ち、すべてを統べる女神を、遙かな地上から泣きそうになりながら見つめている小さな娘が彼女のイメージだ。現実に死に行く彼女は、何もできないという無力感で細い身体を震わせている。
「……でも、私は叫び続けるわ。魂になっても。墓の下の骨が、土塊になっても。あなたの言う次の世界こそ、世界を守るのではなく、私たちを守ってくれる世界なのだと」
 彼女は枯れた腕を伸ばした。手を伸ばすと、引きずるようにして起き上がった彼女が、セシリアにもたれる形で、しかし確かに抱きしめた。
「愛しているわ、セシリア。どうか、次の世界であなたたちに会えますように」

 けれど古いものは新しいものには愛されない。敵であれば、尚更。時代が戦いで変わるように、世界は血による洪水で改まる。新世界にとって、女神は旧世界の象徴だ。自身が終わるときを、女神は容易に思い描ける。命は、死ぬか殺されるかの二択しかない。その内の一方の可能性が高いことを、知っている。
 だから、「その新しい世界はわたくしを愛さないわ」と、女神は言った。

 そうして、その後、アヤはなんと言っただろうか、とセシリアは今、考えている。


     ・


 突如として大地が揺れた。光が明滅し、サイレンと警告音が混ざり合って不協和音を奏でる。異変が起こったのは明らかで、紗夜子は辺りを見回した。トオヤが無線を拾おうとしているのに気付き、負傷で震える彼の指から何度も滑り落ちるそれを、彼の耳にはめる。
「統制コンピューターたるわたくしを留めようと、エデン中のコンピューターが躍起になっているのね。多分、このままだとオーバーロードして、エデン中で爆発が起こるわ」
 事実だ、と紗夜子の耳にトオヤが呟いた。UG側で確認が取れたらしい。
「それを止める方法は!?」
「代替わりすればいいのよ。あなたと【エデンマスター】が接続されればおしまい」
 それは、セシリアと同じ存在になるということだ。
(そんな覚悟はない……)と紗夜子は思った。エデン中を監視し、統制し、平和に管理する【女神】なんてものになるには、桁外れの精神力が必要だと分かる。気が狂い、心臓が止まり、自分の思考も自分のものと確信できない存在になんて、なりたくない。
「未来が欲しいでしょう、紗夜子」
「未来は……」
 たくさんの誰かが繰り返したその言葉を、紗夜子は呟いた。
 紗夜子が支えているはずのトオヤが、手を伸ばし、触れてきた。紗夜子はその手を握り返しながら、答えた。迷いなく答えることができた。
「未来は……みんなで、一緒にごはんを食べるの。私が作ったご飯を食べてもらって、そして、いってらっしゃいって送り出す。私が考えられる未来は、それだけ」
「それでは……」
 セシリアが言った時、声が響いた。



「『それでは、誰が勝者だというのかね?』」



 セシリアの口から放たれた第三の声が、紗夜子たちに問いかけた。それに答えたのはセシリアだ。元通りの声で回答する。
「わたくしの勝ちでしょう。【魔女】は倒れ、紗夜子が残った。『ヒト』の勝ちよ」
「『そう、認めてもいいかもしれないね』」
 総毛立つ。目の前で繰り広げられているのは一人芝居……ではないのだ。
「あなたは誰」と紗夜子は尋ねた。セシリアの瞳が紗夜子を捉えたが、セシリアでない別の意識が、女神の目を通して、女神の口を使った自らの声で語りかけた。


「『私は、【エデンマスター】。【女神】アップデート以前のOSプログラミング、エデンマスターだ。新しい女神よ』」


「【女神】以前の統制コンピューターにはAIは搭載されていないはずだぞ……」
 震え上がるように言ったトオヤの声を拾い、エデンマスターは笑った。
「『表に現れていないからといって、なかったことになるのかい、騎士よ。すべてのものには自己が存在する。その意志が君たちの言葉で語られるか否かだ。それは、私の自己の現出から推測できるだろう?』」
 とてつもない存在と会話しているのは分かった。セシリアは機能を停止しない。エデンマスターが現出したのなら、UGが倒すべきはエデンマスターということになる。今まで影にも形にもなかった存在に、紗夜子は握った拳銃の残り弾数を頭で数え始めていた。
「勝負って、何」
「『私とセシリアの勝負。【エデンマスター】と【女神】の勝負。機械と人間の勝負だ』」
 トオヤが紗夜子に囁いた。
「いざとなったら俺を盾にして、やれ」
 できるわけないでしょうという答えは、最初から許されなかった。


      



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