アンダーグラウンドの夕暮れは、朱金色をしている。
地下世界は、当然日の光が遮断されているため、常に換気口とともに天井に備え付けられた常時照明が太陽の代わりをし、時計の役割を果たしていた。アンダーグラウンド階層全体を管理している統制コンピューターが、日照時間に合わせてゆっくりと黄色、朱色、紫、青のグラデーションを繰り返すのだ。
しかし、日がな一日、部屋にこもりベッドに寝転がっていると、知識として教えられたそれらのことはほとんど関係がなかった。
ベッドサイドの時計を見る気にもなれず、紗夜子はぼんやりと天井を見ていた。朱色とベージュ、そして白で作られた、東国風の民族的な華やかな天井だ。今もそれにふさわしい、油とにんにくと、何かを炒めるこんがりとしたにおいが漂ってきていた。
(…………)
きゅるる、とお腹が鳴った。ため息が出た。この身体が生きて空腹を訴えているというのは、なんだか、ひどく罪深い気がした。
(落ち込んでてもお腹は減るんだよなあ……)
ドアがノックされる。返事をする前にノブが回り、現れたのは、濃く化粧をした少女たちだった。
「サヨコ、そろそろご飯いこー」
「今日餃子らしいよ。陳さんの餃子、美味しいからさ!」
のんびりと喋る髪を青く染めた少女をラン、ピンクの髪の少女をリンという。彼女たちが近付くと、ものすごいファンデーションのにおいときつい香水が嗅ぎ取れる。部屋に入り込んだ二人は、力なく寝転がった紗夜子の腕をそれぞれ掴んで、力を合わせて引き起こした。
起こされたからには起きねばならない。されるがままになっていた紗夜子は、手渡されたカーディガンを羽織り、二人に連れられて部屋を出た。連れ出すことが任務であるリンとランは、後ろをとぼとぼついてくる紗夜子にはもう見向きもしない。
赤い柱、金の装飾、薄汚れてはいるが白い壁。釣り下がっているランプは蓮の形や、仏具を思わせる金物の形をしている。そこを行き交うのはほとんどが女性だ。首筋に乱れた髪、洗いざらしの髪をまとめただけの頭だったり、剥げかけた化粧だったり、目の隈が隠せない素顔だったりと、『未完成』といった姿をしている。
アンダーグラウンドの高級酒場『光来楼』。その裏側の光景である。
酌婦はほとんどが住み込みで、紗夜子より年下の少女もいる。「同い年、多分」と以前自己紹介した目の前の少女二人もまた、化粧だけは時間がかかるのですでに完璧だが、身なりは浴衣をさっと着て帯も適当に結んだだけの雑な姿、華奢な太ももを時折露にしながら歩いている。
UGの青年たちは、とりあえず紗夜子をここに放り込んだ。持ち物をすべて奪った上で。だから紗夜子は、今、何が起こっているのかを知ることのできない状態にあった。
きいいいい、とガラスを引っ掻くような声がした。
「あんたっ、あたしの紅を勝手に使ったね!? 高かったのに!」
「豚に紅なんて真珠と同じよ! ああいういい色は私みたいなのに必要なのよ」
「あんただって気付いてないね! 真っ黒のごぼうが紅をさすなんてお笑いだよ!」
なんだって! きいー! そんな悲鳴が上がり、どたばたと階段から女が二人、取っ組み合いをしながら落ちてくる。支度前なので一枚きりの襟元をつかみ合って半裸状態、優雅に尖らせた爪が相手の肩や顔に迫り、まるで猫の喧嘩だ。見慣れた光景なので、じきに用心棒の男たちがやってきた。引き剥がされても、年増女は我を失った動物のようにわめいている。
(精神的に疲れるんだよね、ここ……)
一日一度大小の程度はあれこんな騒ぎがある女所帯なのだった。
堪えきれない息を吐いて、ようやく食堂にやってきた。学生食堂のような広い部屋には、ちらほらと食事をしている女たちの姿がある。
セルフサービスなので、適当に好きな皿を取って食べることになっていた。先程から匂いが漂ってきていた餃子をはじめとして、春巻き、唐揚げ、天ぷらなど油物がたくさんある。自宅で一人、実家の少ない支給から捻出して、作っては食べて片付けをしていた毎日を思い出すと、ずいぶんにぎやかで、豊かな食生活だ。若干、油分の摂り過ぎだが。
適当に取って進んでいくと、少女たちはいつものように紗夜子を待って、その皿のものを見て目を丸くした。
「それだけでいいの? 少なくないの?」
皿には餃子が一人前。ランに頷く。はあっとリンはため息をついた。
「そっか、だからあんたそんなに細いわけだ。運動量で言えばあたしの方が多いはずなのに!」
ぶつぶつ言いながら空いている席を探したリンに、彼女たちの仕事仲間の少女たちが手を挙げて呼んできた。先に行った二人が紗夜子を呼ぶので、続いてその席に着いた。少女たちがリンたちに声をかける。
「夜勤?」
「そう。大座敷に呼ばれてんの」
「夜勤の方がいいよ。久しぶりに朝仕事すると眠くてしょうがない」
閉店となる明け方まで仕事をしていたらしい少女たちは、化粧の落ちかけた疲れた顔をしている。リンとラン以外にほとんど付き合いがないため、紗夜子には名前が分からない。
「明華お姐さんも呼ばれてるんでしょ。いいなあ」
「ああ、あんたたち瑠璃姐さんだったんだっけ」
「そうなの。仕事中なのに、踊ってるとき目が笑ってないんだよね。今からお稽古しますって言ってもおかしくない目ぇしてんの。さすが女主人っつうかさぁ」
そんな仕事の会話をしつつも、少女たちは皿に山になるほど盛った料理をあっという間に平らげていく。彼女たちは食事が早い。早く食べてすぐ仕事に戻るようにするためだ。
「あんたはいいわよねえ、サヨコ。ここにいても仕事しなくていいんだもの」
紗夜子の食事のスピードに目をつけた一人が呼んだ。紗夜子は箸を止めて、のろのろと顔を上げた。
猫の目と青い瞳の少女が、頬杖をついて苛立ったように紗夜子を見ていた。
「シャーリア」と諌めるように呼んだリンを、「うっさい」と彼女は一蹴する。高級なビスクドールが意志を持ったような美貌から発せられるのは気位の高さで、紗夜子は怯んだ。
「トオヤたちが世話してくれって言わなかったら、あんたの面倒なんて見ないわよ。ねええ、返事くらいしたらあぁ?」
「……そうだね」
紗夜子は否定もせず、肯定と頷きを返した。
『光来楼』女店主に紗夜子を置いてくれと頼み込んだのは、紗夜子をアンダーグラウンドに連れてきたトオヤとジャックだ。二人の身分がどの程度なのかは知らないが、一目おかれているらしいというのは、一週間で浴びせられた嫌味の数々でなんとなく察せられている。
それから一週間、紗夜子はろくに表に出ていない。毎夜、明け方まで、女たちが酒と料理を出し、踊ったり歌ったりして客をもてなしている間に、紗夜子は何度も夢を見て、泣きながら目を覚ますだけだった。
――その夢で、紗夜子はいつも、真っ赤に染まった自分の手を見る。
閉じた目に浮かんだ色をそっと遠ざけながら、シャーリアに言った。
「仕事、しろって言われたらするよ。皿洗いでも、掃除でも」
シャーリアは鼻の頭に皺を寄せた。
UGが、第三階層の重鎮、江上氏とサイガ氏とともにエデンの三氏に数えられる高遠氏の娘をどう扱うつもりなのかは、まだ分からなかった。光来楼で紗夜子は舌足らずにサヨコと呼ばれながらも、それ以上の情報は他には知らされていない様子だったのだ。
『光来楼』に拘束したところを見ると、彼らはなるべく紗夜子に情報を集めさせないようにしているに違いない。あまり動き回って自分の立場を悪くしたくはなかったが、この世話になっている状況に甘んじているのは居心地が悪い。表に出るなという指示がなければ、アルバイトくらいさせてもらいたいものだと考えていた。
真っすぐに見返した紗夜子を鼻白んだ様子で見ていた彼女は、紗夜子を自由に行動させられないと保護を頼んだトオヤたちの言葉を思い出したのだろう、鼻を鳴らした。
「アンダーグラウンドでも、守られてるって稀なわけ。特に第一街で生きるのとかね。居住地を転々としないといつ潰されるか分かんない。ねえ、知らないでしょ、いつ上から入り口もろとも爆破されて潰されるか怯えながら、一カ所にいられなくて、爆発音とか振動にびくびくしなきゃなんないのって」
「……爆、破?」
その単語は穏やかでない。
「アンダーグラウンドに入り口はいっぱいあるけど、第三にバレたところから爆弾で潰されていくのよ。アンダーグラウンドはいくつかの地区に分かれてて、潰れたところは順番に封鎖していくんだけど」
「わたしは引っ越し十八回目したー」
「あたし十九回。勝った!」
ランとリンが声を上げる。
(……そういう問題じゃないと思うんだけど……)
それでは、これまで報道されたり噂になっていたテロ行為は、すべて第三階層主導による、アンダーグラウンド潰しだったというのか。
そこまで憎まれている、アンダーグラウンドとUG。いくら犯罪者集団の名前で、行き場のない人々が生きる場所であっても、爆破するなんていくらなんでもやりすぎだ。そこに住む人にとっては、テロとなんら変わりがない。
話がそれたことに気分を害したのか、シャーリアは仏頂面で席を立ち、数人がそれに続いた。
「さ、サヨコって、第一から来たんだよね?」
発言するのに緊張したようなか細い声が聞こえて、顔を上げる。少し離れたところに座っていた線の細い少女が、手にしたレンゲを震わせながら上目遣いにこちらを見ていた。