トオヤは、ああ言ったけれど。
「……やっぱり、確かめておくべきだ」
何か言った? と隣の席に座っていたUGの女性が、コンピューターのディスプレイから目を離さずに尋ねた。
紗夜子も同じように画面と向き合ったまま、ううん、と答えて、キーボードでデータを入力し、マウスをクリックしていく。表計算ソフトで入力していく支出金額の数字をチェックして、軽く呆れた。合計の数字は七桁。一体、どこからこんなお金が出てくるのだろう。
(第三階層じゃあるまいし……)
でも、もしかしたら援助者がいるのかもしれない。第一階層での活動でまかなうには、少し問題のある桁だ。
(……エクスが関係してるのかな)
昨夜会った白い男を思い浮かべる。
推測が正しければ、彼は第三階層者だ。
あの美貌と銀の色は――。
「サヨコ、手、止まってる」
「あっごめんなさい」
指摘されて、急いで無意識に入力していた数字と領収書を確かめる。
UGの手伝いとして紗夜子にあてがわれたのは、主に雑務だった。こうして、手が足りないところ、今日で言えば経理業務をやったりもする。昨日は洗い物と洗濯だった。ようは体のいい雑用係でしかない。しかし、大体は午前中に解放される。午後はディクソンに与えられたメニューをこなし、彼に稽古を付けてもらったりもする。
データを打ち込みながら、うん、と密かに頷いた。
やはり、確かめてみるべきだろう。トオヤの迎えで話が途切れてしまっていたが、エクスリスも、紗夜子がもう一度来ることを分かっているようだった。罠に飛び込んでいくような気もしたが、教会に行ってみることを決める。もしそれがエクスリスの思惑通りだったら、紗夜子は蟻地獄に落ちる蟻みたいなものだったかもしれない。
マンションに備え付けられたジムで基礎トレーニングだけを終えると、紗夜子はこっそり教会に足を向けた。
三人に見つからないようにするのは難しいに決まっていた。ディクソンは見逃してくれるかもしれないが、ジャックと同じようにトオヤに報告するだろうし、トオヤはきっぱり反対するだろう。自分の位置がまだ定まりきれていないことを、トオヤたちが常に自分の行動を把握していることで紗夜子は自覚していた。
結局、AYAにメールをした。
『三人が私の行方を聞いたら、ちょっと散歩してるって言っておいて』
『・三人とは誰のことですか?』
融通の利かない子、と唇を曲げつつ三人の名前を打ち込む。
『お願いします』
『・了解しました』
しかし、そういう時に限って会ってしまうのだ。
マンションの入り口でたむろしているのは、ジャックとディクソン、そしてUGたちだ。コートをしっかり着ている紗夜子をめざとく見つけたジャックは、「どこ行くん?」と聞いた。
「えっと、ちょっと散歩」
「そか。気ぃつけえや。昨日も遅まで散歩してたんやろ?」
「うん」と答えながら、気になった。ジャックたちはエクスリスのことを知っているのだろうかということだ。行き先を告げなければ、聞いてみてもいいかもしれない。
「ちょっといい?」
聞くと、UGたちは顔を見合わせてから、またあとでと言って散っていき、そこにはジャックとディクソンが残った。
紗夜子がエクスリスについて尋ねると、ジャックは眉を跳ね上げた。
「エクス? 教主さんに会うたん?」
「知ってるんだ」
「まあ、有名やしな」
意味ありげに肩をすくめたその仕草は、昨夜のトオヤの短い言葉と同じ含みがある。ジャックからディクソンに目を移し、紗夜子はぎくりとした。
「ディクソン?」
「……うん?」
思わず呼びかけた声に、ディクソンは夢から覚めたような声で返事をした。ジャックが瞬きをして仲間を振り返り、紗夜子を見て「どうしたん?」と尋ねるが、紗夜子は何も言うことができずに首を振った。
ほんの一瞬、ディクソンから穏やかさが消えていたことは気のせいではない。のっぺらぼうよりもずっと恐ろしい無機質な顔を彼はしていた。多分それは、彼がコントロールできなかった表情なのだ。ジャックでさえ気付かなかったそれを、紗夜子は優しく首を傾ける本人を前に堂々と口に出来なかった。
もう一度首を振って先を促した。
「エクスって、みんなとどういう関わりがあるの? トオヤ、知り合いみたいだった」
「うん、向こうは昔からトオヤのこと知っとったみたいでな。俺らも気になっとったし、一時期トオヤと一緒にあの人と交流したけど、なんやいきなりトオヤが離れてしもてなあ」
「昔?」と紗夜子は首を傾げた。
「トオヤって、アンダーグラウンド出身じゃないの?」
ん、と何とも言いがたい声をジャックが発した。すると、ディクソンがすうっと身を引いた。目を瞬かせていると、ジャックが急いで振り向いたが、すでにディクソンは遠い。
「こらーディクソーン!!」
ひらりと手を振って、走ってもいないのに素早く去って行く。
「くっそーあいつ逃げたなっ!」
「ジャック」
紗夜子の呼ぶ声にジャックはぎくっと肩をこわばらせ、深いため息とともに脱力すると、苦々しげに頭を掻いてから、口元に指を立てて「……トオヤには、しー、やで」と声を潜めて前置きした。
「トオヤはアンダーグラウンド出身とちゃう。『上』の人間やってん。ちっちゃい頃に親父さんと落ちてきてな、それ以来UGとして育ったねん」
「『上』って、第一階層?」
う、とジャックは一瞬詰まり、苦しげに答えた。
「……いや、第三」
紗夜子は目を見開いた。
「第三!?」
「トオヤにバレたらボコられるー! お願い、黙っといてな! お願いやー!」
あまりに殊勝に手を合わせるので、紗夜子は頷いた。
実感が、ぜんぜん、これっぽっちもないけれど。
「……アンダーグラウンドの人じゃなかったんだ……」
「しー! しー!!」
ジャックが慌てて紗夜子の口を留めようとする。
トオヤの戦う理由は、なんだろうか。
世界を変えるというUGの目的。ジャックたちと重なる部分があったとしても、まるきり同じだとは思えなかった。
第三階層に生まれて、アンダーグラウンドに落ちてきて、彼は一体何を見たのだろう?
聞きそびれたのは、あの時彼が話題をそらしたせいだ。紗夜子は自分のことを喋って飛び出していき、トオヤのことを聞くのを忘れてしまった。
元第三階層者で、今はUGとして戦っているトオヤ。まるで、自分と似た道を歩いているようだ。でももっと、遥か遠く、高い、手の届かないところにいるけれど。何を思っているのだろう。何を、目指しているのだろうか。
(聞いてみたい)
「そんでー、エクスはどうやらその頃のトオヤのこと知っとったみたいやな。でもあの人、あんな美しーやろ。俺なんかびびってあんま近寄れんかったんやけど、トオヤは世話を焼こうとして、でも突然止めた。『やっぱり無理』とか言うてたけど」
「ジャック」
「ん?」
「トオヤの話から話題を変えようとしてるよね」
ちょっと沈黙があって、にこーっとされた。
気付いたのはそういうことについて考えていたからなのだが、意識しなければ全く分からなかったはずなので、やはり三人には手玉に取られているような気がした。でも、許すことにする。
「まあ、いいよ。本人に聞く」
そうしたい、そうしなければならない、と思った。
ジャックがあからさまにほっとした。
「サヨちゃん、今俺を救ったで。女神やー」
「あーハイハイ」
「あ、本気にしてないなー? 俺には分かるで。いつかサヨちゃんはアンダーグラウンドの女神になるわ。多分、望む望まんに関わらずな」
不思議な声音だったのでまじまじとジャックを見た。笑顔だったが、サングラスの向こうの目は、どんな色を浮かべているのか、捉えきれなかった。
(諦め? 哀れみ……?)
「サヨちゃん、教主さんにあんま近付かんように言われたやろ?」
また話題をそらされたかな、それとも冗談が終わっただけかな。いまいち判断がつけられないまま、答える。
「うん。トオヤはエクスのこと、エデンそのものだって言ってた」
「言い得て妙やな。アンダーグラウンドに落ちてくるやつって、みんなちょっとどっか欠けとる。教主さんはそういう人間の心をとらえるのがうまい。包み込むわけやな。ということは、逆も可能なわけで」
「逆」
「慰めるやなくて、唆すことや。だから俺もちょっとあの人が恐い」
そろそろ行かな、とジャックが時計を見た。気ぃつけてな、と言ったジャックに手を振って別れたが、少し道を行ってから、紗夜子はふと立ち止まってしまった。
果たして、紗夜子の目的地に気付いていたかいないのか。気付いていたとしたら、少しだけジャックの印象を変えなければならない。