飛び出したはいいものの、紗夜子の一層目以外の土地勘はない。ラボから出て、トオヤたちが使わないであろう道をディクソンに教えてもらい、ぼうっと光っている銀色の通路を歩く。不思議なことに、ごちゃごちゃとし、酒と油などのにおいが充満する、いかにも『地下世界』という一層目に比べて、この地下の層は、洗練された近未来的空間のように思えた。紗夜子が目にした第二階層の研究施設に近い。蛍光灯は壁や天井に埋め込まれ、最低限の明かりが灯されて薄暗くはあるが、つるつるした床も通路も汚れは見当たらずに清潔だ。
「どこへ逃げるか、あてはあるかい?」
 ディクソンが尋ねる。紗夜子は考えた。
「逃亡劇って、逃亡するか潜伏するかの二択になっちゃうよね? 今はとにかくここを離れた方がいいと思ってる」
「そうだね。じゃあ、第一街に向かおう」
 ディクソンによると、さきほどまでいたところは三層目の零街だという。そんな風に話して移動しながら、逃亡の方向性が決まっていった。
 紗夜子は今朝から張り詰めていたせいで体力が続かない。ディクソンも動きっぱなしなのは同じだが、紗夜子より体力の余地はある。逃亡を続けるには、早々に休息を取り、また寝床を確保すること、水と食料を確保する必要があった。三日という長い期間、素人の紗夜子はディクソンの助けがなければあっという間に捕まってしまう。トオヤをいいように使おうとするライヤにむかっ腹が立って、思わず勝負を挑んでしまったが、向こう見ずだったな、と反省する紗夜子だった。
「アンダーグラウンドは広いし、ずっと見つからずに済む可能性もあるよね? UGたちもAYAも味方なんだし」
「いや。AYAはともかく、UGは全員味方だとは思わない方がいい」
「どうして?」
「本部ならともかく、先鋒部隊や、部隊に味方したい人間に、ボスとオヤジさんの命令が有効かというのは微妙だから。それに、このゲームはUGたちのいい暇つぶしだろうしね」
「……?」
 ルールと言われたなら、UGたちは従うよう指示されるのではないだろうか。目を瞬かせると、「面白がるということだよ」とディクソンは苦笑した。
「トオヤがオヤジさんに反抗しているのは周知の事実だし、どちらが勝つか見物だと思ってる物見高い連中はたくさんいると思うよ」
「それって……トオヤをからかって遊ぼうってこと?」
 むっとして言うと、いやいやと首を振られる。
「トオヤ『を』ではなくて、強いて言うならトオヤ『と』、だよ。トオヤを応援する意味で、トオヤに味方するUGも出てくるだろうから、そんなに心配しなくて大丈夫だ。すまないね、自分勝手な連中で。UGは娯楽に飢えてるところがあるから」
「別に、心配なんて……」跳ねた心臓を押さえた。視線を逸らして口を尖らせる。さきほどの言い方では彼をいじめないでと庇う小学生みたいだった。そしてディクソンは、優しい顔で指摘する大人のようだったけれど、好きなんだろうと暗に言われた気がして、変に狼狽えてしまった。
(好きだよ、好きだけど!)
 恋愛の好きかは知らない考えない! と難しい顔をする紗夜子を、ディクソンは微笑ましげに見ていた。
「……その顔やだ」
「すまない。じゃあ話を戻そうか」
 にっこりと、最後に苛立つような笑顔で肩をすくめたディクソンだったが、真剣な顔つきで口を開く。
「だから私たちは、出来るだけ人のいない地区を歩き回る方が有利だね。トオヤたちに、監視カメラを掌握しているAYAから情報が与えられることはないから」
 そして、とディクソンは太い腕を組んだ。
「トオヤたちがそれに気付いていない可能性は低い。先回りして地区封鎖する可能性は高いな」
 広大な地下世界で獲物を追い詰めるなら、範囲を狭め、追い込むこと、ということだろう。罠にかからないようにしないと、と決める紗夜子だ。
「層を行き来できる通路って、エレベーター以外にあるの?」
「ああ。君が使ったエレベーターの他にも、昇降装置は何機かあるよ。あとは階段が複数。かなりあちこちに」
「一番広い地下層ってどこ?」
「地下一層だね。街やマンションがある、あの層だ」
「だったらそこへ。トオヤたちが一番最初に封鎖するのは、上階か下の階への道だよね? この層に閉じ込められる前に逃げ切れば、時間が稼げると思うんだけど」
 ディクソンは軽く目を見張った後、満足そうに頷き、呟いた。
「では、まず地下二層へ。……これは、かなり本格的な模擬戦になるね」

     ・

 トオヤはまず先鋒部隊に分類されるメンバーに招集をかけた。本部に完全に組み込まれず、機動性の高い要員を選んだ結果だ。携帯電話ではなく、本部から無理矢理奪ってきた地下専用の通信機器を使って、こちらへの集合の前に指示をしておく。
「お前ら、下に降りてくる時に、入り口にカメラつけてこい。三人に交代でモニターさせろ」
 その間に地下三層の使われていない場所に、勝手に『隠れ鬼本部』を設置する。通信装置やらコンピューターやらを引っ張ってきたのだ。パソコンの画面に地図を表示させながら、ジャックが誰ともなしに言った。
「AYAが味方せんっつっても、これは使えるんやなあ?」
「情報提供はしないってことだろ」
 トオヤはこれまで何度かAYAに尋ねて紗夜子の居場所を探したことがある。味方でないということは、その手が使えないという意味だろう。
 その内、メンバーが集合し始めた。それぞれの得意分野につき、機器を繋ぎ、モニターを始める者、準備運動を始める者、情報収集に入る者などに分かれていく。行動開始を待つ人間も数名集まったところで、トオヤは前に出た。
「よし、集まったメンバーを、少しずつ探索に送り出す。三人一組でいけ。ディクソンがいるから注意しろ。やつは格闘術の使い手だ」
 そして声を張り上げた。
「いいか、これは先鋒部隊の面子をかけた本部との喧嘩だ。売られた喧嘩は買う! 臆するな、戦え! 若造と見て甘く見ている、キリサカ・ライヤをぶっつぶすぞ!」
 威勢のいい声が上がる。ジャックは、コンピューターの接続を確認しながら画面に向かってため息をついた。
「オヤジさんぶっつぶしてどないすんねーん」

     ・

 ディクソンが選んだ上層に戻るための階段は、地下三層から地下二層へ貫いている巨大な建物の中にあった。さすがにパーティー用のヒール靴では限界で、紗夜子はなんとか足を引きずって歩いていたが、階段のところでへたりこんでしまった。
「足か。見せて」
 自分のシャツを引き裂いて、簡易的な靴下を作ってくれる。足を一度休めると、踵と爪先がひりひりと痛んできた。ディクソンは、紗夜子の足の布を丁寧に巻きながら、「靴の調達が必要だね」と言って、笑った。
「シンデレラの靴は、アンダーグラウンドには向かないな」
 そうして足の甲のあたりに高価なガラスやビーズの飾りがついたパンプスを履かせてくれる。紗夜子も笑った。このくらいの男性にとって、こういう靴は一緒くたにお伽話の靴なのかもしれない。
「私がシンデレラじゃないっていう証明にはなったね」
 もう片方を履かしてくれようとするのから、足を引っこ抜き、履かせてくれた靴を脱ぎ捨て「もうこれでいいよ」と言った。布に包まれた素足で立つ。
「その靴、今は邪魔だし。持って歩くよ」
 ディクソンは目を細めていた。
「ん、なに?」
「……いや」
 立ち上がると、紗夜子の肩を叩いた。
「君が【女神】候補だっていうことを思い出しただけだよ」
「……余計分かんないけど……」
 そのとき、紗夜子は上階を見た。ディクソンは紗夜子より早く気付いた。階段を駆け下りてくる何者かの気配。ちらりと動いた色は黄色。暗がりから降りてくるそれは、一人の少年だった。
「あれ!?」
 派手な色のパーカーを着た少年は、駆け足で降りていた勢いで目の前に立った。
「サヨコじゃん!」
「マオ!」
 ぱあっと明るい顔になったマオは、うわあうわあと言いながら紗夜子の手を握る。
「あれからどうしたのかと思ってたぜ! 無事だったんだな!」
「マオこそ! 元気? でも、今はごめん。急いでるんだ」
「あ、あれか? トオヤさんとのかくれんぼ。俺、手伝う?」
「そうしてくれるとありがたいんだけど……っ!?」
 そのとき、ディクソンが飛び出した。繰り出した拳を、マオは背中を反らせてすんでのところで避ける。だが階段の段差が邪魔をしたのか、「うお!?」と声を上げるとそのまま尻餅をついてしまった。
「ディクソン!?」
「走れ!」
 驚いていると、表情を一変させたマオがその下敷きになった位置から足技をかける。ディクソンもまた足を使って、マオの身体を封じ込めにかかった。狭い階段、体格のいいディクソンが、小柄なマオを押さえつける。その拍子に、何かが彼のパーカーのポケットから飛び出した。小型の機器だ。
「なるほど。トオヤは君たちに連絡を取ったんだな」
「っ、ご名答!」
「行きなさい!」
 ディクソンが叫び、我に返った紗夜子は走り出した。捕まるわけにはいかない。

「地下三層から地下二層への移動ポイントで接触。マオが交戦中です!」
 ジャックがパソコンで表示している地図のポイントにアンカーを打つ。
「上へ出る気やな」
「ポイントに近いメンバーは急行しろ。逃がすな、そのまま追っていけ!」


      



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