絵本を、抱えている。確か神様にまつわる本だった。ある救世主の誕生を描いたもので、エデンにいくつかある宗教のひとつの話だったと、紗夜子は幼い頃、授業の雑談かなにかで聞かされた。荒野に生まれた救世主の誕生から復活まで。絵本に描かれたその救世主の母親が、美しい髪と微笑みを浮かべた美しい女性だったので。
(あのひとだ)と紗夜子は思った。あのひとのところに持っていって、そっくりだということを教えてあげようと思った。本当は、実物の方がずっとずっと綺麗だと知っていたけれど、美しい絵として現れると、なんだかとても嬉しかったから。
 扉の前まで来て、足を止めた。段々と大きな声が洩れ聞こえてくる。言い争う声だ。鋭く聞こえた父の一言に、紗夜子は身を竦ませた。応える、女の声。

「わたくしの血を引く子どもは、紗夜子だけ」

 夢の中の紗夜子は耳を押さえた。聞きたくない。その続きは聞きたくない。
 けれど、それは胸の奥から聞こえてくる。刻み付けられた傷が叫び出すように、大きく。

「だから、紗夜子はエリシアを、」

 エリシア。
 その名前は、愛された子どもの名前。さぁちゃん、と紗夜子を優しく呼ぶ、天使の名前。

「お前が」と震える父の声が迸った。

「お前が、エリシアを殺した」

 けれどその名を継いだ紗夜子は愛されなかった。エリシアの名前で呼ばれる度に、紗夜子は自分の罪を突きつけられる。逃げられない過去。彼らは、紗夜子を憎んで余りある理由を持っている。

「だから、わたくしは紗夜子を愛しているわ」

 声が囁く。これは現実に聞いたのだろうか。過去の音を再生したもの、それとも、夢が作り出した幻想か。

(でも)


 繰り返し思い出す光景がある。夜の暗闇に、光を弾く刃物の白さ。光の赤で、少女の瞳は血の涙を流すように輝き、強ばった彼女の顔は、造りものめいていたがために今にも壊れそうだった。


 エリシア。あなたは、私を憎んだかもしれないけれど。

 私は――あなたを、





 身体が痛くて目が覚めた。身体を折り曲げ、両手を拳にして合わせるように横になっていたのだ。くん、と鼻を鳴らすと、埃臭さの中に底冷えするような地下のにおいがした。身じろぎすると寝袋がごそごそいうので、その音を聞きつけたディクソンが「紗夜子さん」と小さく呼ぶのに答えた。
「……おはよう」
「おはよう。気分はどうかな」
「……だいぶと、楽……かも……」
 しかし声ががらがらしている。口の中が乾いて、喉に痰が絡んでいる違和感に、どうしても眉が寄った。

 あれから体力の限界を迎えて倒れることを主張した紗夜子は、ディクソンに連れられて地下二層のあるマンションの空き家に入り込み、彼がどこからか調達してきた寝袋で眠ったのだ。どうやらぐっすり寝ていたらしい。夢を見た記憶しかない。それでも、ディクソンの様子を見るに、どうやらうなされていたわけではないようなので安堵する。うなされていたら、多分顔が無茶苦茶になっていたはずだから。

 寝袋を出て、洗面台へ向かった。顔を洗い、指で歯を磨く。髪を整えると、着た切り雀の正装が目に入った。黒いワンピースはもうずいぶんくたびれてしまったように思える。それとも、顔が疲れているせいだろうか。指でなぞった鏡の中の自分が、ぎゅうっと眉を引き絞った今にも泣きそうな顔で笑う。
 十四年。経過した時間はそれだけ。あの子の年齢をとっくに追い越したのに、記憶の中のその少女の顔に、十七の紗夜子はよく似ていた。
(半分しかつながってないのに、ね)
 洗面台に両手をついた。頭が垂れ下がる。夢見のせいで、せっかく築いてきた強さの柱が今にも崩れそうだ。
(トオヤに、会いたい……)
 すべてを聞いてほしい。六歳までの紗夜子が、第三階層で何をしてきたのか。決して消えない傷を、罪を、彼はどんな風に聞いてくれるだろう。
 トオヤに断罪されるなら、紗夜子は自分の罰を決められる気がする。

 もう一度顔を洗った。顔を上げて、自分を睨みつける。
(私のことなんて、どうでもいい。折れる場合があったら、前へ進まなくちゃ)

 まずはライヤたちに、トオヤへ指揮権を返してもらう。そうすれば、きっと、トオヤは自由に、自分の思うまま戦える。迷わずに進んでいける。そして、紗夜子が一緒に戦ってくれることを認めてくれるはずだから

 戻ってくると、ディクソンがずっと携帯電話をいじっていた。何を見ているかというと、どうやらAYAが送ってくれるアンダーグラウンドの映像らしい。このオートロックのマンションの暗証番号まで教えてくれたAYAは、アンダーグラウンドのマスターなのだな、と実感する。
「朝食、こんなもので悪いけれど」
「あ、ジャムパンだ。ありがとう。どうしたの、これ」
「私が持ってきたのよ」
 第三の声が割り込んで素早く飛び退いた。その反応にびっくりしたように固まったのは、台所から出てきた女性だ。
「シオン」
「ごめんなさい、急に声をかけてしまって。でもまさかディクソンと同じ反応をされるなんて思わなかった」
「……シオンさん!?」
 ほとんど面識はない、ちゃんと顔を合わせて言葉を交わしたのは一度きり。光来楼の廊下でのことだ。あのとき、彼女は完璧な化粧と着物、装飾品で全身を飾っていた。
 光来楼のナンバーワン、紫苑は困ったように笑い、湯気の立つマグカップを紗夜子に手渡した。白いスープが香り、ぎゅうっとお腹が鳴った。赤面してしまったのを見て、シオンは微笑んでいた。
 そして、振り返った勢いでもってお盆を振り下ろした。
 がつん! といい音が鳴る。
 紗夜子はぽかんとして、衝撃で下を向いたディクソンと、笑顔のままのシオンを見ていた。
 そして、とんでもないことが起こっていると気付いた。
「飲み食いなしだったのね?」
「あ、ああ……」
「あのね、十七の女の子の体力を知っている? あなたみたいに一ヶ月間乾パンと水のみってわけにはいかないのよ」
「うん……」
「もう少し、いたわってあげなさいな」
「す、すまない」
「あの、あの、もう、その辺で……」
 紗夜子が恐る恐る割り込んで、シオンは楽器を叩くようにディクソンの頭で軽く上下に振っていたお盆を引いた。そして、まったくもう、とぷりぷりしながら再び台所に消えていく。
 尋ねる声ははばかって小声になる。
「……どうして、シオンさんが?」
「連絡を入れたら、来ると言って聞かなくてね……。すまない、作戦の邪魔になっているね」
「そんなことないけど、知り合いだったんだ」
「ああ、妻だから」

 時が止まった。

「…………妻?」
「そう、妻だ。私は夫だよ」

 たっぷり三十秒かけて、紗夜子はようやく言った。

「……既婚者だったんだ……」

 出会ってからそれなりに経って初めて知る事実だった。
「そうなの、結婚しているのよ。でも私は、仕事場では秘密にしているんだけれどね」
 シオンは、今度は盆の上にサラダを持ってきて、紗夜子の目の前に置いてくれた。彼女ににこにこと見守られながら、ジャムパンにかじりつく。安っぽいイチゴジャムの味は、舌に痺れるくらい甘くて、頬が緩んだ。
「元気が出たみたいだね」
 優しい目で見られていて、顔が赤くなってしまった。黙ってパンを噛む。
「そのままで聞いてくれて構わないから、これからの予定だが」
 うん、と頷く。
「移動はした方がいいね。シオンが来たから、足がつく可能性がある」
「私が悪いの? あなたのせいではないのかしら」
「悪いよ」
「ごめんなさい」とシオンは笑いながら謝った。それを見てディクソンも微笑む。お互いを大事にし合う、茶目っ気のある空気感に、紗夜子は赤面しそうになる。どう考えても、ここでは自分は邪魔者だ。
「まあそれはいいとして……私たちの移動は目撃されているから、そこから足がつく可能性もあるね」
「へえ! やっぱり、ディクソンもトオヤもジャックも有名なんだ」
 ちょっとディクソンが変な顔をした。シオンが噴き出す。
「どうしたの?」
「いや……まあ……そういうことにしておくよ」
「?」
 話を進めようか、と流されてしまう。
「マオとの接触から見るに、先鋒部隊を使ってかなり勢力を作ってるのは確かだね。人海戦術で、行動範囲を狭められているみたいだ」
「少なくとも、マオとその仲間たちは怪しいよね。一層に移動するのはちょっと危険かもしれない。二層に目が集中してるんだったら、上か下かに移動した方がいいかもしれないけど」
「移動ポイントで見張っているのが、一人だったら締め上げられるんだけどね。監視カメラがついている可能性が高いから、見つけられればあっという間に追っ手が集中するけど」
 うーん、と紗夜子は腕を組んだ。
「うーん、でも……うーん」
「どうしたんだい?」
 うん、とそぞろな返事をする。頭の中には、二人だけ、AYA、移動、監視カメラなどの単語が飛び交っている。そうして、まとまりきらないが、ともかく待ってくれているディクソンに、「……あのね、これって反則技かなあ?」と紗夜子は話し出した。


      



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