走っている。銀の髪のなびく背中を追いかけて。快い声が、笑いを含んで言う。
(来てはいけないわ)
 何故? そう問う自分の声は幼い。
 彼女は振り向くけれど、明かりが逆光となってうまくその表情を捉えることができない。髪だけが細く輝いて、まるで妖精か、墓場にいる魔女のよう。人を捕らえて食い尽くす魔性。
(わたくしの道は、わたくししか行けないから)
 一緒に行きたいよ。多くの男が美辞麗句を用いて彼女の足下に跪きながら懇願し口にする言葉を、トオヤはたった一言で表した。彼女の手を取るためだったらなんでもするという男がきっと数多くいた。光の差さない地下に舞い降りた、彼方からの光。天空の香りをまとったひと。彼女を求める手は、まるで死者が天を焦がれるようだった。そう思えば、まるでここは墓地。
(もしわたくしを目指すなら、トオヤ)
 彼女は言う。美しい声に、恐ろしい響きを聞かせて。

(わたくしの代わりに、あなたが世界を守りなさい)

 そして。



 ――わたくしを殺しにいらっしゃい。


 むっくり、と起き上がる。首を回すと、ぱきんと間接が鳴った。しばらく起き上がったその体勢のまま、染みるような痛みを覚える目をゆっくりとまばたきさせ、顔を覆って深くため息をついた。
(なんだってあんな夢……)
 銀の髪のリアが去ったのはもう二十年近く前だ。誰にも告げず、ある日突然いなくなった。ライヤもボスも行く先を聞いておらず、大人たちはしばらくぴりぴりしていた。
 最初は、彼女がどこかで動けなくなっているのではないか。次は、街の区画から出て行ったのではないか。そしてどこかで死んでしまったのではないか。やがて、彼女がいなくなったということは、アンダーグラウンドのパスを入手して出て行ったということ、つまり彼女が情報を持ったまま出奔したのではないかということに行き着いた。
 リアは風変わりな大人で、零という数字を見て言葉を理解するような、突出した能力を持った持ち主だった。彼女の知っているすべてのことは、アンダーグラウンドすべての人の知識を足しあわせたよりも多いようだった。彼女に知らないことは何もない。子どものトオヤはそう思っていた。
 先程の夢は過去だったのだろうか、とトオヤは考えた。実際に言われたのなら、鮮明に記憶しているに違いないのに。目覚めた今でさえ、心臓が凍りつきそうになっていたのが感じ取れるのだ。しかし、これまで一度も思ったことはなかった気がする。
「…………」
 ひとつ息を吐くと、毛布をどけ、隣で仮眠していたジャックをまたぎ、モニターの前に座るマオに声をかけた。パソコンの時計表示は、あれから一時間後を示している。
「報告はないっす。どこに隠れたんでしょうね」
「一層は人目がある。見つからないとしたら、人の目がないか、情報が遮断されているかだな」
 だがそんな高度な手を紗夜子が使うのは難しい。AYAの協力を持って握りつぶしたとしても、現在隠れ鬼本部の情報体系はAYAから切り離してある。だからこの状況が続くのは、恐らく、ディクソンが暗躍しているのだ。改めて、師匠の実力に感嘆する。
「帰ってきてもらわねえとな」
「何か言いました?」
 いや、と首を振って、一人で笑っていた。
 指揮権を奪い返したら、ディクソンに戻ってきてもらおう。このかくれんぼの意義が、また増えたことに喜ぶトオヤだ。
「さて……そろそろ、引っかけにいくか」
 聞いていたマオが目を瞬かせ、次ににやりとした。


     *


 目覚めた紗夜子は携帯電話で時間を確かめた。午後一時過ぎ。一時間ほどの仮眠だったようだ。携帯電話を操作し、告げた。
「ディクソン、そろそろ動いていいかな」
「どうやら第一街と第三街に人が集中しているらしい。罠かもしれない」
「予定通りいこう。……じゃあ」
 行くよ、と紗夜子はにやっとした。


 ディクソンは廃ビルを出た。気を配りながら自然さを心がけて歩く。戦闘員でないUGが多いところでは、挙動不審な人間は警戒され、人々の監視対象となり、情報共有によって、どこに行って何をしても報告されることになる。ディクソンは顔を知られているが、このかくれんぼのことは知らされているはずなので、目立たず普通でいるのが一番だ。
(さて……)
 ディクソンはボストンバッグを担ぐ。さすがに重量があった。それを本部の人間に託せば、仕事は完了だ。バッグは、普通の荷物として第三層へ運ばれる。さすがに、宅配の荷物すべての中身を開けて確かめるようなことはできまい。先鋒部隊の信用問題に関わるからだ。少女一人捕まえるのにプライバシーの問題を起こしては、UGたちの反発を買うだろう。
 連絡を取って駆けつけた本部のUGにバッグを託す。ディクソンは次にここから遠くへ移動する予定になっている。
「くれぐれも、丁重に扱ってください」
「了解です。大切に運びます」
 その上から、声が降った。

「見ーっけた!」

 反射的に飛び離れた。どん、と音がして、三人の青年たちが降り立ったのだ。
 そのまま後ろへ跳躍する。顔があったところに拳が突き出されており、ディクソンは右腕でそれを払いのけた。
「ジャック」
「久しぶりやなあ、ディクソン! 元気やったか!」
「おかげ、さまで!」
 肘を突き出し、腕でもって攻撃を払う。ジャックは長い手足でもって、身軽にそれを避けた。
「荷物、確保!」
「了解!」と少年たちが駆けた。
 ぺろりとジャックは唇を舐める。
「色々ありがとうな。あれ撃ったんディクソンやんな」
 先日の、狙撃のことを言っているらしい。
 ディクソンは微笑んだ。
「選択次第では、お前が的だったよ、ジャック」
「やろうな」と頭を乱暴に掻いたジャックは、んーと少し迷うような声を出してから、言った。
「ほんま、ごめんやで。親父のひとり息子がこんなんで」
「気にしてないさ」
「いーや! 気にしとる!」
 人差し指で、問題を突くように。ジャックは堂々と宣言した。
「お前はボス大事やもん。その息子の面倒みろ言われて俺に会って、がっかりせんかったはずないんや。でもな、ディクソン。俺分かった。俺は、俺の出来ることをやればええんやって」

 ジャックは自分を卑下したくせに、ひどく正直な、真剣な声で言った。

「俺、トオヤを助ける。トオヤを守ろうと思う。俺、トオヤが大事や。ディクソンのことも、UGみんなのこと大事や。なんもでけへんと思って、なんもせんのが一番悪いと思うねん。だから、何かやる。嫌われても、罵られても、出来ることやったら何でもやる」

 ディクソンの目に、背丈ばかりひょろひょろと高い、へらへら笑う少年の姿が見えた。
 最初は、なんだこの腰抜けと思ったことを覚えている。人の不和を避け、主張するなら折れる方を選ぶ。戦うことも避けがちで、殴られても怒りに変わることは滅多にない。
 それでも、今思うなら、そういう人間がこれまで戦ってきた、その強い精神力に感嘆を覚える。不和を恐れ、腰抜けと思われてもそれを受け流すしなやかさを。弱かったジャックが、嫌われても罵られてもと言ったなら、その強さは、一体どれほどのものなのか。

「そうか」とディクソンは微笑み、腕を引き、距離を詰めに走った。
 拳は交差した両腕で防御され、もう一方の拳は伸びるような足で、防御された腕ごと、回転で払いのけられる。回転は止まらず、蹴り技が連続して叩き込まれたが、本気で相手を傷付けようとするものではないので、分厚い靴の重みがあるだけだ。しかしそれでも、かなり仕込んである靴はごつくて固く、かすかに眉が寄ってしまった。

 そのとき、ガガッとノイズ音が二人の間に響いた。

『目標確保!』
「でかっ、した!」
 ジャックは上がった息のまま言ったが、『ですが……』と報告は続いた。
『鞄の中身が、大量の洋服なんです!』
「なんやてえ?」
『着物とか……なんか色々? これ、光来楼の?』
「残念だったね。鞄の中身は人間じゃないよ」
 ディクソンはにっこりと笑みを浮かべた。
「周辺を探せ、どっかにおるはずや!」
「さて、本当にいると思うのかい」
 ジャックは動きを止める。サングラスの奥のすがめた目が鋭い。
「お前たちは思い込みが激しすぎる。私とサヨコさんが必ず一緒にいると、どうして確信できるんだい?」

 紗夜子は言ったのだ。反則技かな、と恐る恐る。

『AYAに協力を頼もう。たぶん、情報撹乱ができるよね。向こうも警戒してるだろうし、AYAを直接使うようなことはしてないだろうけど、AYAなら撹乱なんてお茶の子さいさいでしょ?』
 話すにつれ、段々と気分が乗ってきたのか、きらきらした目を悪戯っぽく細めてこう言った。
『私とディクソンは絶対一緒にいるって思われてるはずだもん、二手に別れたら、ちょっとはトオヤたちの目を欺けるんじゃないかな。私が何もできないと思われてるところを逆手に取る』
 本部とてそう思ってディクソンを彼女につけた。それを利用しようというのだ。

「『私のこと、舐めんなよ』……だ、そうだ」
 ジャックは絶句し、次の瞬間爆笑した。
「サヨちゃんらしい!」
 お腹を抱えて全身でばたばたしたジャックは、震える笑い声で通信機に吹き込んだ。
「トオヤに連絡。……目標は、どうやら予想したところにおるらしいで」
 ディクソンは目を見開き、くつ、と笑った。それに呼応するように、ジャックもにんまりした。応答を確認した後、通信をオフにして、少年めいた悪戯っぽさと爽やかで言った。
「こっちも、考える頭がないわけやないんやで!」


      



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