むしゃくしゃしていた。義肢の修理も済み、体中の調整を終えて、ジャンヌの治療は終わった。病院にいたはずなのにいつの間にかジャンヌのベッドはエクスリスの教会の中にあり、身体のチェックはすべてエクスリスが行った。彼には生体義肢にまつわる技術と医療に関する知識があり、治療のすべては彼に任されていた。拒む選択肢など最初からなかったジャンヌは、彼にされるがままになった。髪を掻き混ぜられ、胸を撫でられ、足の間に……。
「唇でなぞりたい」とジャンヌの肌に顔を寄せて、吐息でささやいた彼は、しかし、完璧な微笑で微笑みかけるだけで、決してジャンヌを見ているわけではなかった。
銀の瞳に映るのは、陶酔と快楽に酔う己で、思い出したジャンヌは気晴らしの準備に赤く塗った唇を噛んだ。屈辱だった。エクスリスは行為の最中も、世界から一歩離れたところに意識を置き、誰かに溺れることはない。
嘘でもいい。抱きしめてほしかった。ぎこちなくても、偽りでも、演技でも構わない。「いい」の一言だけでもよかった。
だからジャンヌは自由の利くようになった身体で第一階層に向かい、薄いドレスの上に派手な毛皮のコートを着て、冬空の下、男たちに秋波を送っていた。嫌悪感も露に立ち去る者もいれば、にやついた顔で眺め回すだけの男もいた。
ジャンヌが選んだのは、肥え太った会社員だった。顔を寄せられると、脂ぎったにおいがした。自分の姿を鏡でチェックすることもないのだ。家族や会社に相手をされていないのだろう。はち切れんばかりの不満を胸に溜めていた。それは欲望だった。ジャンヌを乱暴に扱い、己を正当に評価しないすべてに対するように、征服しようとした。
行為が終わると、身体を洗い終えてすぐに男は帰った。家族がいるのだという。終わってから病気の心配をするので笑ってやった。聞かれるのは会ってから数えて三度目だ。
「心配ないわよ。あたし、生体義肢と人工臓器だから」
男はほっとした中に疑惑の種を抱いたまま、去っていった。
男がいなくなると、途端にすべてが嫌になった。本物の手足、本物の臓器がほしい。記憶のないジャンヌは、自分がどこからどこまで生身なのかを知らない。いつこんな身体になったのかという覚えもない。あるのは、気がつけば見知らぬ男の慰みものにされていた。ジャンヌが声をあげた途端に悲鳴を上げて萎えさせて飛び退いたから、そういう趣味だったのだろう。裸で逃げて、自分の記憶がないことに気付いた。声は出た。でも、どうすればいいのか分からなかった。そこに彼が現れなければ、ジャンヌはこうしていなかっただろう。
『赤毛の天使さん。天界から降りてきたというのに、こんなところで何をしているんです?』
ジャンヌが意味のない声で主張すると、彼は『翼をどこに落としてきたんですか?』と笑った。そうして、ジャンヌは自分で出て行くことを選ぶまで彼の世話になったのだ。
教会を出た理由は、今と同じ。
「教主様……」
何を見ているの? あなたの世界はガラス玉の世界よりも空虚だわ……。
言えるわけがない。彼はそんな言葉で動かせはしない。
身体に支払われた紙幣を握りつぶし財布に押し込んで部屋を出た。
長い毛のコートを巻き付けると、急に風が吹いた。目の前にちらついた白いものに、ジャンヌは舌打ちする。人が落ち込んでるときに雪なんて降ってくるんじゃないわよ。
ホテル街の路地裏をあらゆるごみを蹴散らし歩いていると、ジャンヌは壁際にもたれかかっている雪の固まりを見た。しかし、それは呻いて動いた。人間だったのだ。
むしゃくしゃしているジャンヌは面倒なものを見た、と思い、横を通り過ぎようとしたが、白い人間は壁に寄り掛かったまま立ち上がろうとし、失敗して倒れ込んだ。細い肩だけでなく華奢な身体全体が震えており、さすがに憐れみを誘った。
「あんた、大丈夫?」
初めてそこに他人がいたことを知ったように、それは振り返った。銀色の髪、そして、透き通るような瞳で。
(教主様と同じ目……)
「……だれ?」
無邪気というには半ば呆然とした声だった。顔は寒さと体調不良のせいか真っ白で、唇は青紫色になっている。
「あんたこそ、どこから来たの?」
「うえ……」
上?
(まさか、第三階層?)
「う……」彼は何かを言いかけて。
「う……えええええ」
胃の中のものをすべて戻した。
「えっ、『うえ』ってそういう意味!?」
慌てて背中をさすってやりながら、がくがくと震える少年を見る。何度か胃液を吐き出すが、気分の悪さは止まらないらしい。さすってやる背中には骨の感触が感じられ、声変わりは若干あって声は少しかさついて低く、そのアンバランスさで妙な印象の子だった。
「何か悪いものでも食べたの?」
ごくんと彼は吐き気を呑み込んで言った。
「……投薬……して、すぐに……」
病院を抜け出してきたらしい。ジャンヌはため息をついた。
「送ってあげるから、場所、言いなさい」
生理的に浮かんだ涙で潤む目で、彼は首を振った。
「もう……効いてくる……それに、かえりたくない……」
「手遅れになったらどうするのよ。死にたくないでしょ」
彼は喉の奥で笑い声を立てた。
「……死にたい人間が生きようとするわけないじゃないか……」
さすってやった身体は、季節の風と雪と病で変に冷たかった。さきほどまで温かい部屋で他人の体温を受け入れていたジャンヌは、けれど彼を抱きしめてやることはためらわれた。だって、この子は彼によく似ている。
結局、したのは着ていたコートを着せかけてやることだった。
「重いけど、十分あったかいわよ。ないよりましでしょ、感謝して」
トップレスのドレス一枚のジャンヌの肩は裸になる。少し離れたところで座り込んで、肩を抱いた。少年はコートのにおいを嗅いだ。
「……オンナのにおいがする」
ぎくっとする。彼はそこで初めて、まじまじとジャンヌを見た。
「娼婦なんだね……この季節にそんな格好だから」
ジャンヌは鼻を鳴らした。
「そうよ、悪い?」
いらいらと返すと、少年は顔をほころばせた。
「ううん。その赤いドレス、とてもよく似合ってる……」
ジャンヌは言い返そうと考えていたあらゆる文句を呑み込んだ。そして、唇を噛んだ。毒気を抜かれてしまった。普通だったら拒絶され、もしエクスリスと同じならば無関心かと思ったのだが、肯定されるとは思ってもみなかった。できたのは、高校生の娘のように膝を抱え直すことだけだ。
「それに、僕、このにおいは嫌いじゃない。……あのひとと、おんなじにおいがするから」
子猫が身体をこすりつけるようにコートに顔を埋める。そうすると、本当に彼が猫に見えてきた。気位高く、気まぐれな、人の予測がつかない生き物に。
「へえ。あんたにはいい人がいるわけね」
「恋人じゃないよ。僕の母親」
……ふうん。相槌は遅れた。オンナのにおいをさせる母親を、一般的にどう言っていいか分からなかった。少なくとも、いい意味では扱われないだろう。安物の硬い毛に顔を埋もれさせて、少年は無邪気に言った。
「僕の母親はね、それはそれはインランだったんだよ。始終オンナのにおいをさせて、始終男とマグワってた。そうしなきゃらならなかったんだけどね」
でも君とは違う、と彼はきっぱり言った。
「君は生きるために。でも、僕の母親は、受精卵を着床させるためにそうしていた」
「気持ちの悪い話をするのね」
眉をひそめるジャンヌに、「本当のことだよ」と言う。少し気分がよくなってきたのか、声はいつしかはっきりとしていた。それでも青白い頬で、膝の上に顔を乗せ、ジャンヌを覗き込んで口を開く。
「子どもを、作らなくちゃならなかった。たくさん。カエルみたいにぽこぽこ生むのが役目だった。人工的な方法は、認可されないからね」
エデンは都市機構を確立させてから機械的な文明が発達したが、生体的な技術はそれより伸び悩んでいた。動物に関しては食肉や家畜といった交配の最低限の技術はあったが、何故か人間の成功例は出なかったのだ。ある研究者はエデンという閉じられた機構の問題をあげたり、また別の研究者は競争対象となる国家や機関がないことを理由に挙げていた。UGの図書館で読んだ本に書いてあった。その著者たちがみんな若くして亡くなっているのは後から知った。
「僕の場合は人工授精したみたいだけど……」
「あんた、どこの金持ち?」
「僕は金持ちじゃないよ。僕は生かされているだけ。強いて言うなら、僕の流れる血が金であり、価値だ」
ジャンヌは笑った。血統の信仰をジャンヌは持ち合わせていなかった。
「よく分からないけど、血を売れば大金持ちになれるわけ?」
「売ってみる? いいよ、あげても」
いつの間に手にしたのか、ガラス片を取り上げてかざす少年がいた。止める間もなく指にあてる。
ぷつん、と音がしたように思えた。白い指先に、赤い雫が生まれる。はい、と差し出された。ジャンヌは一瞬何も言えなかったが、次の瞬間目を釣り上げて怒鳴りつけた。
「なにやってんのよ!」
ジャンヌの赤いドレスの上に、血が零れ落ちる。ぽたた、と小さな音を立てて。咄嗟に指を取って口に含んでいた。少ししてから、口を離す。うっすら滲んでいるが、止まった。それを一瞥して、言った。
「やめてよ、そんな汚いもの」
目を見開いて硬直していた彼は、美しい顔をみるみる笑みで歪ませた。
「あは、あはは、あはははは!」
お腹を抱えて笑い出す。ばたばたと両足を動かし、ジャンヌを見て笑いで浮かんだ涙を拭った。
「赤いドレスよりも赤いんだね、血ってやつは」
厄介な子だ、というのがジャンヌの感想だった。予想がつきにくく、言動が不安定。でも、嫌ではなかった。突拍子もない発言も、美しい顔立ちも、すべてエクスリスに似ていて、まるで別の形で会ったように錯覚した。しかし錯覚は錯覚だ。彼の中には危うさがあった。まだ踏み越えてはいけない一線を越えていないためにある、揺らぎが。
(教主様とは違う。こんな綺麗な顔で笑わない。私を、綺麗だって言ってはくれない)
「ねえ、こんなところにいていいの? 仕事しにきたんじゃないの?」
少年は無邪気に聞く。
「もういいわ。気がそがれた」
「じゃあ、僕と寝てみる?」
ジャンヌは彼を見た。
「僕はいいよ、そうしても」
娼婦のコートに身を包む、少女と見まごう華奢で美しい、低い美声の少年。触れてみたいと思わせる艶やかさが目や唇にあり、こう誘われたものは男女問わず彼に手を伸ばしてしまうに違いない。ジャンヌだって、触れるのをためらったのだ。一度気を許してしまえば、あっという間に色に染まって、染まらされて、ずるずるともつれあって落ちていきそうな気がして。
ジャンヌは手を伸ばし。
「いたっ」
その額を指で弾いた。
「馬鹿。そういうときは『僕はそうしたい』って言って何か甘い言葉を囁くもんよ。『僕はいいよ』なんて上から目線で言うんじゃないわよ、童貞が」
「うー……僕と寝る気はもうない?」
まだ食い下がるか。ジャンヌは冷たく言った。
「もうちょっと考えて物を言いな」
額を撫でさすりながら、不満を隠そうともせずに「これからはそうする……」と彼は唇を尖らせた。
「あんたのママはそういうことを教えなかったわけね」
「うん。股を開くのに忙しかった」
「だから、そういうことを言うんじゃないの」
と言って、彼の笑みにぶつかった。どうやら、変型であっても叱ったことになったようだ。嬉しそうに肩をすくめていた。
「あたしはあんたのママじゃないわ」
「知ってるよ。母様はもうどこにもいない。狂って死んじゃった。最後に言ったのは『化け物』って言葉。あんなにさんざん愛を囁いてくれたのに、ひどい女」
ジャンヌは黙った。急に、胸に吹いた寒風があった。
(もし今この子と寝たら、教主様はあたしを『ひどい女』って言うかしら?)
彼はきっと笑いながらジャンヌを軽蔑し、それでもいいよと囁くのだろう。だって一度だけなのだ。たった一度だけ、肌を合わせるだけの関係だ。だってジャンヌは彼の名前すら知らない。
どちらの想像も楽しかった。有り得なかったからだ。
「一人で笑ってるの、やらしい」
少年は言い、ジャンヌは答えた。
「仕方ないわ。娼婦だから」
雪は次第に風を伴い、雨に変わりつつあった。このままでは体調を崩しそうだ。せっかく修理された手足や、薬を投与して回復させた臓器が弱ってしまう。
心の在処を君に聞く 君の夢見る場所を聞く
名もなき心に名前をつけた 醜く呼べぬ愛と名付けた
愛などないと影に隠れ 花束の残骸を君に贈る
君は知らない 始まりはいつでも君の名で終わっている
少年はぽつりぽつりと歌をこぼした。
なんだか悪趣味な歌だ、とジャンヌは感じた。
「そろそろ行くわ。あんたも帰んなさい」
うん、と言いながら、彼はその場に座ったまま、立ち上がったジャンヌを見上げた。
「ねえ、本当に君は母様に似てるよ。だから『愛してる』って言ってくれない?」
「嫌よ」
膝を抱えて濡れそぼっていく少年を見る。そこに思う人の影がある。エクスリスの過去は判然としない。何をしていたかも分からない。かつて第三階層者だったという話にふさわしい知識と技術を持ち、完璧にすべてを持っているはずなのに、何故アンダーグラウンドに落ちてきたのか。この少年には、もしかしたらエクスリスとの繋がりがあるのかもしれない。
それでも、この子はあのひとじゃない。
「あたしが愛を告げるのは、あたしが抱きしめたいと思うのは、いつだってたったひとり。あたしは彼のために愛を囁き、彼のために身体を捧げる。あたしはもう、どんなに汚れていても怖くなくなったの。だから、そんなあたしの言葉で満足しちゃいけない」
彼は、ゆっくりと微笑んだ。
「君は僕が見てきた中で、一番汚くて綺麗だね。……『彼女』とは正反対だ」
「ママ?」
「母親も君と似ていた。『彼女』はちがう。綺麗で、とても汚い。理想を口にしながら、彼女は結局醜い選択をする。だから骨の髄まで汚してあげたい。自分が女神や聖女にはなって誰かを救うことなんてできやしないと」
その時の瞳の暗さに、背筋が粟立った。空虚な目。彼の瞳の中で、世界は光のない暗闇に満ちている。
彼は、その『彼女』を、同じところに落としたいのだ。あるいは落ちていきたい。
そう考えたとき、ジャンヌの背筋は本当の意味でぞっとした。
少年に対する『彼女』とジャンヌに対する少年は同じ。
同じところに落としたい、深い闇の底へ。
落ちていきたい、もつれあいながら這い上がれないところまで。
――エクスリスもまた、『誰か』に対して同じことを考えているのかもしれない……。
「――でもね」
言えることはある。自分ならば。ジャンヌは口を開く。
「あんたのその執着は、いつか献身に変わる。それほどまでに執着するものを、何があっても生かそうとする。何故なら、その命は自分の命より比重が大きいからよ。今は自分の一部分にしたいと思っているけれど、自分が一人だと気付いたとき、あんたは『彼女』を崇拝の対象に変え、欲求は取り込むことではなく、同一と化したいという献身に変え、自分のすべてを捧げるでしょう」
少年は表情を消した。
二人の間に、雪と風、遠くの街の音が聞こえてくる。この場は街の喧噪から離れた場所で、まるで世界に弾かれたようにしてここに来て、二人で身を寄せあったはずだった。だから、出会ったのは必然だったのかもしれない。これから少年は『彼女』への執着に身を焦がす。ジャンヌはエクスリスへの思いに苛むが、ジャンヌが少年と出会ったのは、同じ道を先に行く者として必要なことだったのだ。
「予言の、ようだね」
少年は低く、台詞のように陶酔した声でゆっくりとそう言って、立ち上がった。
「あたしの実体験よ」
二人で見つめ合う。銀色の瞳は、鏡のようだった。きっとあたしの瞳も鏡になっているのだろう、とジャンヌは思った。
「さよなら」
「ばいばい」
呼ぶべき名も知らず、行く先も知らない。それでもこの邂逅はお互いの胸に何らかの跡を刻んだ。
(あたしは、彼にすべてを捧げる)
同じところに落ちていこうとする思いは、いつしか自己の破壊につながる。自らを、顧みなくなる。
気付かせなければ。今のままでは彼は。
腿の内側に触れる辺りに血の染みのついたドレスを翻し、ジャンヌはアンダーグラウンドの地下へ降りる。彼を死なせはしないという、思いだけを胸に。