午前八時には早い時間帯、予想通り、喫茶をしている店から、いいコーヒーの香りがしている。胃袋が刺激された。朝食は自作のフレンチトーストとコーヒーだったのだが、いい豆のコーヒーはやっぱり美味しいのだ。と言っても、紗夜子が知る味は第一階層にある大手チェーン店のコーヒーなのだが。
 身体の奥をくすぐられるにおいを辿りながら、扉のガラス越しに中の様子をうかがうが、いかにも夜勤でしたという顔の疲れた顔の女性や、新聞を読みにきているのであろう中年男性や、コーヒーにうるさそうなマスターが見えるだけで、思う人の姿はない。
 いくつか店を覗いてみても見つけられず、ついには「お嬢ちゃんにいいものがあるよ」と薄暗い店内なのに目深にフードをかぶった、老人なのか男性なのか女性なのかも分からない店主に手招きされてしまったので、慌てて店から離れることになってしまった。ドラッグに関わるのはなるべく勘弁してもらいたい。

 危険を感じて冷や汗をかいたところで、ふときらりと光るものを見た気がして、紗夜子はそちらに目を向けた。かすかに靴音が遠ざかっていく。紗夜子は走り出し、金色の頭が見えたところで一気に速度を上げた。
 だ。だ、だ。だ、だ、だだだだだっ! 相手に照準を合わせ最後の一飛び。
「トオっ、ヤあ!」
「!?」
 ラグビーよろしく腰という低いところを狙うと、トオヤがさっと一歩横にどいた。紗夜子の腕はトオヤを抱え損ねる。しかし、紗夜子はきらりと目を光らせると、そのまま前転することで反転し、トオヤの正面から手を伸ばしにかかった。するとトオヤはその手を、上からがっと押さえつけた。形としては、手の甲から手首を、上から握った形になる。
 ぎぎぎ、と捉えた腕を持ち上げて、トオヤは呆れた顔をした。
「何やってんだ、お前?」
 分かってるくせにと言いたい気持ちを堪えて、にっこり笑ってやった。
「おはよう、トオヤ!」
 トオヤはちょっと面食らったように瞬きし、うんざりとげっそりと仕方がないの気持ちを足して混ぜ合わせたような声と顔で言った。
「おはよう」
 紗夜子は満足した。
 そうすると、それは実感のように思えた。
(ああ、やっぱり好きだな)
 金髪の時も黒髪の時も。アンダーグラウンドでの戦闘装備を着込んだままの普段着も、第三階層者の中に混じっても違和感ないくらいのフォーマルな服装でも。呆れたように笑われても、疲れられたらちょっと落ち込むけれどそんな顔も、悪巧みした顔、真剣な顔、笑った顔。トオヤのことを見ていると、全身が温かくなる。楽しいし、嬉しい。こういうのを幸せというのかもしれない。
「どうしたんだ、一体」
 だが、その一言にいらっとした。どうしたんだ、はないだろう。避けまくってたくせに!
(ちくしょう、それでも好きなんだよ!)
 と思いながら、後ろで手を組んで澄まして答える。
「最近会ってない気がしたから、ちょっと顔見てやろうと思って」
 会ってないと自覚しているのではない、あくまで『気がした』のだ。別に数えていたわけではないとわざとそういう言い方をする。
 ふふん、とトオヤは鼻を鳴らした。子どもっぽくて、自慢げだった。
「それで襲撃か? まだまだだな」
「いいよ、別に。勝てるとは思ってないし」
 本当は会いたかっただけだし。
「分からねえぞ? お前、筋いいし、ちゃんと訓練したら俺に勝てると思う」
「教えてるのはディクソンだし?」
 そう、とトオヤは破顔一笑した。
 あ、大笑いの顔の時が、やっぱり一番好きだ。紗夜子も嬉しくなって笑う。
 トオヤは、ジャックやディクソンのことになると途端にガードが弱くなるな、と感じる紗夜子だ。普段から特別固いわけではないが、やっぱり弱点に似た部分が、今ではよく目につく。
 トオヤはどうしても非情になりきれないし、仲間を捨てられない。ジャックが裏切ったと思ったときは、互角の力量であったとはいえ、トオヤは彼を殺すことはできなかったはずだ。かと言って普段の仲間との関係を見ていると、強引に結束を固めるのではなく、もう少し自由なところが感じられる。去っていく者は追わないというような。だからホテルにトオヤが潜入してきたのは、奪還命令が出た紗夜子を救出のためだ。ジャックを連れ戻しにきたのではない。
 何があったんだろう、と考えた。いつか聞けたらいい。
 でも今は、こうして話しているだけでいい。
「最近何してたの?」
「事後処理だな。……久しぶりに原稿用紙使った」
「何書いたの?」
「反省文」
 吹き出した。学校の罰則ではあるまいし。
「何やったの、もう」
「都営ホテル襲撃で命令無視して土壇場で単独行動したからな。あれ、後で色んなやつにがっつり怒られた上に、反省文十枚書けって言われた。ボスは鬼だぜ」
 うんざりといった仕草に笑う。
「ああ、そういえば一人だったっけ。あれにはびっくりした。全然知らない人が私を知ってるみたいな顔して笑うんだもん。ユリウスが一緒にいたし」
 流れで答えてから、あれ? と首を傾げた。
(本部の命令じゃなかったら……どうしてトオヤは、一人で潜入してきたんだろう?)
 襲撃作戦だったとは聞いている。トオヤが紗夜子と接触することは、UGたちの予定の範囲外だったのなら、トオヤはどうしてその作戦を曲げてまであそこに一人でいたのだろうか。上には逆らえないと、『助けに行けない』とメールを送ってきたくらいなのに。
「ちょっと拾い物をしてやったらすっかり気に入られてな。ユリウスの素性、知ってるのか」
 問いかけられ、答えるまでの間は長くはなかったはずだ。しかし質問に一瞬慌てた紗夜子は、それまで考えていたことを放り投げてしまった。
「あ! うん、知ってる。純血計画の子で、私の花婿候補なんだって」
 ということはトオヤはユリウスのことを知ったわけだ。あのはしゃいだ様子を見れば、ユリウスが簡単に口を滑らしたことは想像に難くない。
 トオヤが変な顔をしているので、おかしいことを言っただろうかときょとんとし、首を傾げた。
「笑いながら言うことか?」
 どうやらさらっと言い過ぎたらしい。
「別に私はそうなるつもりはないから」
 気にするところじゃない、と首を動かして笑えば、トオヤは苦笑した。何か言う前に手を伸ばされ、頭をつかまれて撫でられる。不器用ではないが優しくもない乱暴な手つきに首をすくめた。
「どうしたの?」
「しばらく見ねえ内に変わったな、ってな」
「んー、体力と筋力はちょっとついたかな?」
 腕をめくって拳を握ってみると、二の腕に少しだけ筋肉が盛り上がった。どうだ見てみろと晴れ晴れと笑うと、トオヤは急に横を向いて口元を覆ってしまった。その肩が妙に小刻みに震えているのを見て、紗夜子はむっとする。
「なに、そんなにお粗末な筋肉?」
「いや、……ああ、うん。まあ、いい筋肉だな」
 まだにやにやが抑えきれていない顔で、含みのあるような言い方をし、トオヤは紗夜子の二の腕をつかんで、むにむにと揉んだ。トオヤの手は義肢なのだが、元々冷たい腕にその手は更に冷たく、「ひっ」と悲鳴を上げたのを見た瞬間、トオヤの目はきらっと輝いた。
「へえ……」
「や、あの、トオヤ? 手……」
 握られたままなのに、何か楽しい玩具を見つけたような顔をするので、一気に熱が上がる。汗で皮膚が湿る前に早く離してほしい。いつの間にか、身体の冷たかったところまで熱い。
 むにゅ、と先ほどまでの友人にするような触り方ではなく、意地悪をすることで満足するような手つきで、彼は紗夜子の腕を弄ぶ。
「ちょ、ちょっと……!」
「お前って……やらかいな」
「……っ!!」

 爆発する、という瞬間。

「もしもし、もしもし!?」

 場違いなほどの大きな話し声に、感情の爆発の力は、思いっきりその声の主の方を向くということに変換された。もちろん力は余ったので、紗夜子の形相はすさまじいものになっている。
 二人して振り返ったさきには、誰の姿もない。だが次の瞬間、店と店の間から、中年親父の顔が覗き、こちらに気付いてぱっと引っ込められた。
「もしもし、ボス! オレだけど! 今ね、トオヤがね、さよちゃんに迫ってるんだよ! セクハラ現場目撃しちゃったよ! お父さんどうしよう、息子が成長したって喜べばいいのかな!? でも照れちゃうよねえええ」
「だったら恥ずかしさで死んじまえくそ親父ー!」
 人はおろか店の屋根まで軽く飛び越えるほどの跳躍をして、トオヤは父親の頭上に降った。その勢いのまま振り下ろした拳は、わずか数センチのところで避けられる。戦闘は得意でないらしいライヤはあっという間に壁に追いつめられたが、すぐにトオヤに追いついた紗夜子の前に飛び出してきた。逃げ足は早いようだ。
「逃げるな!」
「危ないから逃げるんだよトオヤ君!」
 紗夜子の背中に回ったライヤはそう言って紗夜子の肩を押さえ、後ろから腕をまわしてぎゅっと抱きついた。
「うわ、ライヤさん!?」
「わー、ほんとだ、さよちゃんやわらかーい。それにいい匂いがするー」
 くんくんと頭の上で鼻を鳴らしているので、ぞわっと鳥肌が立つ。
「紗夜子に触んなボケ!」
「お前のものじゃないのに、そんなこと言っていいのかなあ?」
 ぐっと、腕の重みが増した。後ろにいて、高い位置にあるライヤの顔は、紗夜子からは見えない。トオヤの顔は忌々しそうで、何らかの力が働いてそこから一歩踏み出すことはできないようだった。
「なあ、トオヤ? この子はお前のものじゃなくて、アンダーグラウンドのものなんだけど?」
 紗夜子は叫んだ。
「私は私のものです!」
 少し、間があった。その時間に、紗夜子は目を丸くするトオヤの顔を見ていた。くす、と笑い声が見えないところから降り、耳元に口が寄せられる。
「だったら、やっぱりトオヤのものじゃないね」
 腕の力が弛み、後ろを向けば、ライヤの笑った顔が見えた。
「さあ、行った行った。オレはさよちゃんとおいしーいコーヒー飲むんだから」
 ライヤが追い払う手をすると、トオヤは明らかに怒った顔で父親を睨みつけていたが、顔を思い切り背けて、そのまま立ち去ってしまった。紗夜子には一言もなく、もしくは紗夜子にも怒っているようなだと思わせて。
(あああ……)
 せっかく楽しく喋っていたのに。膝をつきたい気持ちで落ち込んでいたが、そこへのんきな声がした。
「んー、トオヤもへたれだよなあ」
「諸悪の根源が何言ってるんですか!」
 行き場のない悲しみや怒りをぶつけると、ライヤはさほど気にした風でもなく、へらっと笑った。
「ああいう時って、『紗夜子は俺のものだ!』って言うべきだと思わない?」
 真っ赤になったのが答えになった。でしょう!? とライヤの声は大きくなる。
「それが言えないあいつはへたれ! けってーい!」
「ば、バンザイさせないでください!」
 両手首をつかまれて挙げさせられ、抗議する。むしろ手を挙げるにはトオヤに「俺のものだ」と宣言をしてもらわなければならないのに。
(って何考えてるの私!)
「じゃあコーヒー飲みにいこうか」
「ほ、本気だったんですか……。嫌ですよ」
 答えてから、もしかしてだだをこねられるかもと危ぶんだが、ライヤが取ったのはにっこりと笑顔を浮かべることだった。嫌な予感。むしろだだっ子になられた方がよかったような。
「トオヤの昔話聞きたくなーい?」
「…………」
 この大人はずるかった。大人じゃなくて子どもに似ていた。それも、観察眼のある、陰険で意地悪で、弱みを突くのが大好きな子どもだ。人を楽しませることも好きだが、人の嫌がることがもっと大好きな人種だ。
 なんだかんだ言いながらも、ライヤの誘いは、どうしても紗夜子が頷かずにはいられないものだった。彼が紗夜子の気持ちを見抜いているかどうかは今この場では分からないが。
(多分見抜かれてるんだろうなあ……)
 数十分前にUGたちに言われたことを思い出せば、もしかしたら自分は分かりやすいのかもしれない、と思う。そんな自覚は全くなかったし、むしろ第一階層にいた頃は第三階層の人間だったことや父親がタカトオであることなどの秘密は誰にも察せられなかったはずだし、誰にもばれていなかったはずなのだが。
(やっぱり私、変わったのかな)
 不自由な生活を始めてから、素直になるというのもなんだか変な話だ。
 だが、そう思うと、せっかくトオヤの話をその父親から聞く機会が来たのに、拒否するのも馬鹿らしかった。
「……コーヒーはおごってくれるんですよね?」
「もちろん。なんならモーニングもつけちゃう」
 特にお腹は空いていなかったが、向こうが相手を欲しているのは分かった。結局、いいですよ、と頷いた。


      



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